いつまでもお正月の記事をトップにしておくのもなんなので、簡易更新。
昨日、いつものように、電車で帰宅している途中のこと。
いつも武蔵浦和で乗り換えしているんだけど、埼京線のホームから武蔵野線のホームに向かい、電車が来るのを待っていた。
ちょうど電車が行ってしまったところで、列の先頭に並ぶ。
いつもであれば、ここでスマホを取り出して、ネットを見たりFGOの周回をしているところなんだけど、ふと、真正面の様子が目に映った。
あっ、みんな首を下に向けている。
武蔵野線のホームは対面式で、中央に線路を挟んで、ホームが向き合う形になっている。
なので、線路の向こうを眺めれば、反対側のホームで待っている人たちの姿が見えてくる。
電車がちょうど行ってしまったこちら側とは違って、対面はもうすぐ電車がやってくるタイミングだったので、それなりの人がホームに並んで待っていたのだけど、眺めれば眺めるほど、その誰もが目線を下に落としていた。
そう、みんながみんな、スマホを見てる。
それは、あまりにも当たり前な光景なんだけど、その当たり前な光景を自分はこれまで見たことがなかった、ということに気づいて、すごい衝撃を受けた。
それは当然で、だって、自分だって今目の前に見えている人たちと同様に、スマホをいじっているのが当然だったから。
この「当たり前」であるはずの風景を生み出す行為を行なっている限り、この「当たり前」の風景は、決して見ることが出来ない。
なので、この「当たり前」な、「どこにでもある」はずの風景は、しかしながら、ほとんどの人に見られることがない。
この妙な感覚、分かるだろうか・・・?
どこにだって転がっている、何の珍しさもない風景。
ふっ、と目を少しあげさえすれば、誰だって、いつだって、見ることが出来であろう、何の面白みもない風景。
けど、人は目をあげない。
それゆえ、目の前に広がっているこの光景に、気づくことが出来ない。
そんな、どこにでもあるはずなのに、誰にも見つからずにいる風景を、ふとしたはずみで見つけてしまった、このワクワク感。
その風景は、何も特別なものではないはずなのに、誰も見つけてないであろうというそれだけで、何か特別なものに思えてくる。
誰か、自分と同じようにこの風景を「見つけた」人はいないかな、と、しばらく向かいのホームを眺めていたのだけど、誰とも目は合わなかった。
目が合えば、「共犯者」を見つけたような、そんな喜びを感じられたんじゃないかな、とも思うのだけど。
今日はここまで!