いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

文章を書くということ。

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この間、MacBook Airを買ったので、今、iMacからの移行をやっている。
そんな中で、過去のデータを漁っていたら、懐かしい文章が出てきた。

それは、大学のときに所属していた将棋サークルの部誌に関する文章なのだけど(自分はサークル内で部誌を担当する係をやっていた)、その中で、文章を書くことに関する自分の考えを書き残してあったので、ここにも残しておきたいと思う。


おわりにーー文章を書くということ

長々とまじめな話を続けてきましたが、最後に。

思うに、物を書くというのは何かしらの足跡を残していくことなんじゃないかなぁ、と。
そして、その足跡は基本的に後々まで残っていく。
となれば、可能な限りいいものを残していかなければな、と思うわけです。

どこで見かけたのか忘れたのですが、俳句は絵画であり、詩は音楽である、というような表現がありました。
自分はさらに、文章においてもそれと同様のことが言え、それは一つの楽譜であり、読者の能動的で即時的な「読む」という行為によってその音は紡ぎ出されるんじゃないかなぁ、と思うわけです。
不思議なもので、同じ文章を読んだとしてもそのときの気分や時期などによって受ける印象がガラリと変わってしまったり、あるいはすでに読んでいるはずなのにまた新たな発見があったりするわけですしね。

それでは、この文章が誰かによって奏でられんことを願って。


ポエム感がすごいのはご愛嬌ということでw

それはともかく、この考えは今も変わっていなくて、例えばフリーペーパーとして作成した『注文の多い哲学書』なんかには、この考えが思いっきり出ている:

そういえば、すっかり自己紹介を忘れておりました。
私は、あなたが今手に取っている、この哲学書でございます。

いや、哲学書の姿をしているが、実際にはこの文章を書いた著者ではないかと、思われるでしょうか。
しかし、それは違うのです。

なんなら、私を誰か他の人に渡して読んでもらってください。
それは、明日のあなたでも構いません。
その人が見ている私の姿と、今あなたが見ている私の姿は、まったく同じであるはずなのに、きっとずいぶん違います。

その、他の誰かによって読まれた私は、私でありながら、しかし、この私ではないのです。

私は著者によって生み出されましたが、今のあなたによって命を与えられています。
そして、親と子が違うように、著者と私もーー当然、あなたと私もーー別の存在なのです。
(『注文の多い哲学書』より引用)


思い返してみると、なんだかんだで自分はけっこう文章を残してきてるよなぁ、と思う。
このブログも然りだけど、その前にもブログで記事は書いてたし(このブログは残念ながらサービス終了でなくなってしまった)、それ以外で書いた文章も、けっこう手元に残していたりする。
サークルで出した部誌も、いまだに手元に残ってるしw

以前書いたリシュルートの歴史の記事も、同様にリシュルートを残していたからこそ書けた記事だったりする:

他にも、高校のときに図書委員で広報係をしていたのだけど、そのときの原稿がやはり残ってて、以下のような記事を書いたりもした:

なんだかんだで、何かを表現して、それを人に伝えるのが自分は好きなんだと思う。
まぁ、自分のために書いてる部分も大きいのだけどw
(実際に書いてみることで、曖昧だった部分が見えてきたり、理解が補強されたりする)

そして、そうやって書いたものをあとで見返してみると、とても面白かったりする。
自分で書いたはずなのに、読み直してみると、また新たな気づきがあったり。

なので、今後もいろいろな文章を書き残していきたいな。

今日はここまで!