いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

言語の限界について考えてみた。(その5)

前回の続き。

今回が最後で、書いたのは2007年の12月30日。


言語に対するモデル

「犬をください」これは授業で扱ったプリントに載っていた四コマの出だしである。
この後、店員はどんな種類の犬を欲しがっているのかを尋ねるのだが、客の主張はどんな種類の犬でもなく「犬」が欲しいというのだ。
これに対して店員はほとほと困ってしまうというのが四コマのオチである。

この四コマは重要な示唆を含んでいる。
すなわち、「犬」というと「これが犬だ」という具体的な何かがありそうなものであるが、「犬」なるものが実際に存在するわけではない、ということだ。

実際に存在するのは、「そのもの自体」でしかない。
それを人は「犬」や「猫」などに分類していっていると考えられる。
つまり、「言葉」というのは世の中に分類を与えるものに他ならない。

しかし、気をつけなければならないことが一つある。
このような書き方をしてくると、分類というのは静的でハッキリと与えられているもののように思われるかもしれないが、実際には動的で曖昧なものであり、またこの分類は逐次的に行われることでしか見えてこないということだ。
このことは、「犬を描いてください」と言われたときに大体のイメージでしか描くことが出来ないことや、犬と猫が具体的にいればどっちが犬でどっちが猫であるのかを指摘することは出来ても、その分類の決め手が何なのかをハッキリと述べることが難しいことからも見て取れる。

ここまでのことを一度まとめておこう。

「言葉」というものは世の中に対してーー「色」に関する考察を踏まえれば、私が見たり、聞いたり、経験した感覚に対してもーー分類を与えるものである。
その分類は、しっかりと定まったものが存在するわけではなく、具体的なものが与えられたときに行われ、またそうすることでしか表面的に現れないものである。

これは、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』において行っていた「投影法」に関する議論が不十分であることを指摘もしている。

ここで、「立方体」という語を聞くと、ある像が浮かぶとしよう。
それはたとえば立方体のスケッチだとしよう。
どのようにして、この像は、「立方体」という語の使用と適合したり、適合しなかったりできるのだろうか。
ーーきみはこう言うだろう。
「それは簡単だ。ーーそうした像が私に浮かんでいるとき、私がたとえば三角プリズムを指して、これは立方体だというならば、「立方体」という語のこの使用は像と適合しない。」
だが、適合しないというのは本当だろうか?
私がこの例をわざわざ選んだのは、こうした像が適合するような投影方法を想像することがきわめて簡単だからである。
立方体の像は、ある使用をわれわれに示唆していた。
しかし、私はその像を別の仕方でも使用できたのである。

ウィトゲンシュタインは、像の投影方法というものが無数にあることから、ある代表的な投影方法に対してだけ適さないからといって、本当にその語を適用出来ないとしてしまっていいのか、としている。
しかし、これは言葉による分類が静的に存在しているとしてしまっていることがそもそもの間違いである。
それが立方体であるのかどうかというのは、ある固定された像との比較によって行われるのではなく、他の分類との兼ね合いから動的に決定されるものである。

では、この動的な分類はどう行われるのか、というのが問題になるかもしれない。
しかしそれは、「色」についての考察を考えてみれば分かるとおり、「こう感じられる」というその感覚と、人間のパターン認識能力によるとしか答えようがない。
けれどもこれは多くの人が納得のいく感覚であろう。
(これは犬だ、と思うときに、これこれこういった理由だから、と理由を挙げることが出来るだろうか?)

文法についても、同様のことがいえる。
飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』では、ふさわしいイメージを持つことがその言葉を理解するための必要条件ではないことを示すために、「てにをは」の例を出しているが、「てにをは」にしても、それを使うことが妥当なのかということは動的にしか判断されないということを考えるべきである。
例えば、「が」を使うべきか、「は」を使うべきかは、実際に言おうとしたときのその自分の伝えたいイメージに近い方が用いられているはずである。
(もちろん、そうしたことは無意識のうちに行われているだろうが。)

長く横道に反れてしまったが、言語に対するモデルの話に戻そう。

先ほど、「犬を描いてください」と言われたとき、大体ではあってもイメージを描けるという事実に注目してみよう。
このことから、実際にはある言葉に対してある程度のイメージを常に持っていることが考えられる。
実際に言語を使って考えていくときには、(意識されることはないだろうが)このイメージが用いられていると考えられる。

気をつけなければならないのは、このイメージというのも動的に変化しうるということだ。
自分が今考えていく中で一番適したイメージというものが実際には使われていく。
ウィトゲンシュタインが心配したようなことは、起こらないのである。

まとめよう。

「言葉」というものは世の中に対して分類を与えるものである。
その分類は、しっかりと定まったものが存在するわけではなく、具体的なものが与えられたときに行われ、またそうすることでしか表面的に現れないものである。
言語を使うときには、動的にそれにあったイメージというものが喚起される。
ただし、それらは普段無意識に行われ、何も意識せずに行われたように表面上は見える。

最後の部分を考えると、ウィトゲンシュタインの言っていたこともあながち間違いではないことが分かる。
わざわざ意識しないで言語が用いられたときには、そこで起こっていることはウィトゲンシュタインの言っている通りだろう。
しかし、それは言語の様子の一部であり、全体を説明することは出来ない。
なので、それでは不十分なのだ。

さて、先ほど先送りした、言語に対して考察を加えるというとき、その対象となっているものというのは具体的にはなんなのかという問題に戻ろう。
この答えは、「言語」というものに対して動的に与えられたイメージに他ならない。
実際、その場その場で「こういう状態なら」という適切な言語の例が挙げられてきているところに注意してもらえれば、これは納得してもらえると思う。

言語の限界

ここまで準備することで、やっと「色」について行った考察で得られた“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” ということがどういった類の限界を意味するのかについて議論することが出来る。

だがその前に、もう一つだけ重要なことを示しておきたい。
それは、言語で指し示せないものはないという事実だ。

これは、簡単な論理で示すことが出来る。
もし、言語で指し示せないものがあったとしよう。
しかし今、そのものを「言語で指し示せないもの」と指し示せたのであるから、これは矛盾。
よって、言語で指し示せないものはない。

このことは、言語というものが本質的に分類を与えていることからも明らかである。
「世の中には2 種類のものしかない。ビールとビール以外のものだ」なんていうジョークがあったが、これは同様のことを暗に示している。

さて、では“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” とはどういった類の限界なのであろうか。
これは、自分の言語の限界であり、言語自体の限界から生じる限界ではない。
このことは、先に示したことより分かる。

そして、その分割はどうやって与えられていたのかというと、自分の世界に対する認識の限界によるものであった。

なので、ウィトゲンシュタイン

私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。

と言ったが、これはこう言われるべきではないだろうか。
私の世界の限界が、私の言語の限界に現れる、と。

* * *

ということで、言語の限界に関する考察シリーズはこれでおしまい。

最後の部分(言語のモデル云々の話)はレポート提出ギリギリになってしまったためにかなり議論がお粗末で、さらに推敲もされてないので結構支離滅裂状態だったりするけど、とりあえずそのまま載せた。
同じ内容の文を書くのに、普通なら少なくとも2~3時間はかけて推敲しつつ執筆するところを、確か1時間もかけずに書いたので、自分の中で言いたいことは出揃っているけれど、どう伝えたるのがいいのか、というところにまで気が回っていない。
今自分が読んでも、議論の流れがどうつながっているのかが不明瞭だし、根拠・具体例に欠くところがある。
表現が足りていないところもあるし。
そのうち、書き直せたらいいんだけどねぇ。
(けど、そうしたら軽く数十時間がふっとぶだろうけれど)

今回の考察では、自分が行ってきた考察のいろんなところと絡ませて議論を進めていく、という形を取っている。
それは、必要性があったというのもそうなんだけど、実はもっと大きな枠から得られる議論を、言語に関する部分だけ抜き出して再構成しているせい。
パッと見では、いろいろな言説が集まって言語に関するひとつの理論を構成しているようだけど、そうではなく、より大きな理論のアプリケーションとして、言語に関して述べているだけということ。
そして、そのより大きな理論という部分こそが『哲学における身体性の復興』だったり。
どこかで体系的に書ければいいんだけど、さすがに大仕事すぎて・・・
自分は遅筆なんで、そんなことをしていたら本業がぜんぜん進まなくなるしね。
ただ、いつかは書いてみたいと思うけど。
そして、どうせ今回の議論を書き直す必要があるのなら、その中で書いていきたいと思う。


ということで、当時書いたあとがき的なものも入れて、おしまい。

あとがき的なところで書いてる「どこかで体系的に書ければ」の成果が(体系的かはちょっと微妙だけど)『哲学散歩道』シリーズだったわけだけど、結局この中で言語論は書いてないなぁ・・・(時間論も)
なので、依然として議論は整理されてないまま(^^;

ここでの議論を軽く整理しておくと、まず言語のモデルを与え、次にその言語のモデルから「言語で指し示せるもの」の限界について考察を行なって(これは言語の限界について考えてみた。(その3) - いものやま。で整理した、この文章で言及している3つの「言語の限界」の1つ目)、最後に「言語で伝えられるものの限界」(3つの「言語の限界」の3つ目)について言及している。
もっとも、最後の言及は結論だけポツンと置いているような感じになってしまっているので、全然議論になっていないのだけど(^^;

最後の主張をちゃんと議論するなら、『哲学散歩道 III』で最後に行なった「正しさ」を支えているものがなんなのか、に似た議論が必要になってくるかな。
すなわち、ここでいう「言語のモデル」というのは、「言語とは、『この自分(この身体)』によって世界に対して生み出された関係性という分類の顕れである」というものなので、当然、その限界は、「この身体」が世界をどう切り分けることが出来るのか、というところに依ってくる、と。
まぁ、これだけだとやはり端的すぎるんで、伝わらないと思うけど。

ちなみに、最後のウィトゲンシュタインの言葉と自分の言葉で何が違うのか、というのがあると思うので、補足。
(というか、自分もたまに「何が違うんだっけ?」となる)
ウィトゲンシュタインの方は、まず実際の行動で示される「言語」(つまり「語りうるもの」)があって、それが自分自身の世界の限界も意味するんだよ、となっている。
一方、自分の方は、「この身体」によって生まれる自分の世界の限界というものが潜在的に存在していて、その限界は(自分が実際に語る)言語の限界として顕在化されるんだよ、となっている。
なので、矢印の方向が逆というか。
私の言語の限界→私の世界の限界、というのがウィトゲンシュタイン、(「この身体」による)私の世界の限界→私の言語の限界、というのが自分。
伝わるかな・・・?

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)