この前、言語の限界に関する考察を書いた。
この中で、時間論について少し触れた。
なので、昔書いた時間に関する思考実験を少し。
書いたのは、2004年11月3日。
時間についての、自分の考えをとりあえずまとめたもの。
とりあえず、思考実験を。
問1.
もし時計が一つだけあるだけで、完全に外界から隔離された部屋があるとする。
もちろん窓もない。
寝るときに時計は12時を指していて、起きたら9時を指していた。
何時間寝ていた?
問2.
周りの時間だけをストップさせる魔法を覚えた。
さっそく唱えてみると、みんなピタっと動きを止めた。
時間が再び動き始めたとき、止まっていた人たちは時間が止まっていたと気付くだろうか?
どうだろう。
質問の意図も考えてみて欲しい。
* * *
問1.について。
普通に考えれば、9時間、と推測するしかない。
けれど、寝ている間に誰かが時計を進ませていれば、もっと短いかもしれないし、時計がゆっくりと動いていればもっと長いかもない。
あるいは、一日以上寝ていて、実は33時間寝ていたのかもしれない。
結局、寝ている=意識がない間に時間がどれだけ過ぎたのかについては、外界の情報(この場合は時計)から推測するしかなく、その間に「本当はどれだけ時間が過ぎたのか」は知ることが出来ない。
(お腹がすいてたから、こんなもん、と推測できる人もいるかもしれないけれど、そんな感覚も結局「外界の情報」なわけで)
このように考えてくると、そもそも何の前提もなしに「時間」なるものがあるのか、という問題がある。
普通の感覚だと、「時間」なるものがあり、それにしたがって運動が行われている、となるだろう。
けれど、上で見たとおりに「時間」というのは「物が動いていたんだから時間も進んでいたに違いない」と推測することでしか得られない。
例えば、太陽がさっきは東にあったけれど今は真南にある、だから時間が経ったんだ、と推測は出来るけれど、本当にそうだと言い切れるのだろうか。
自分の意識のない間に、太陽がすごい勢いで真南に行ってしまっていたという可能性を、どうして消すことが出来るんだろう。
物理とかで運動方程式を習うと、物が時間をパラメータにして運動方程式にしたがって動くように思われるけれど、実際はその逆で運動の様子を運動方程式に当てはめることで時間が得られているといえる。
* * *
問2.について。
じゃあ、物の運動によって時間が定められるのであれば、物の運動が連続であれば、時間も連続であると言い切れるのか、というのが問2.の意図。
時間が止まっていたことに、当然止まっていた人たちは気付きようがない。
なぜなら、「時間が止まっている」ということを認識する「意識」が働くためには「時間が動いていないといけない」から。
よくマンガであるように、物の場所が変わっていれば気付く、という意見もありそうだけど、問1.での帰結どおり、物が動いていたらそれは時間が(自分の知らぬ間に)過ぎてしまったんだと推測するしかない。
(目の前から急にコップが消えていたとしても、今度は時間が過ぎてしまっていたのではなく、コップがワープしたと考えるだろうし。そして、超常現象でワープが起きたのか、それとも時間が止まっていたのかは知ることが出来ない)
これはさらに言ってしまえば、時間が巻戻りを繰り返していたとしても、それを知ることが出来ないことにもつながる。
例えば、時間があるところまでいって、そこから1日逆戻りをしたとする。
でも、時間が戻ってしまえば、時間がそこから1日進んでいたという事実を経験している人は時間が戻ってしまったんだからいなくなり、時間が1日分戻ったことを知っている人はいなくなる。
まとめると、以下のようになる:
- 運動が時間に従うのでなく、運動から時間が得られる。
- 時間が止まっている瞬間というのが存在するかどうかは、知ることが出来ない。
- 時間が逆戻りをしているかどうかは、知ることが出来ない。
「時間が早く感じる」などの問題は、自己同一性の問題と絡んで、現象学的なアプローチで説明が出来る。
この思考実験を踏まえると、言語の限界で書いた時間論というのが、なんとなく伝わってくるんじゃないかな、と。
今日はここまで!