9/22(日)に技術書典7にサークル参加するので、それに向けて同人誌を作った。
まだ完成品を見てはいないけど、入稿も無事終わって一段落といったところ。
今回、初めてのことや考えたことがいろいろあったので、そういった振り返りを少しやっていきたいと思う。
まずテーマ選びに関して。
その同人誌を読みたい人はいるのか?
さて、同人誌を出したいというからには、何か書きたい/伝えたいことがあるというのは疑いないと思う。
ただ問題となるのはそれを読みたい人/知りたい人はいるのかということ。
例えば、技術書典とは関係ないんだけど、次のようなツイートを見かけた。
ちょっと目にしたツィートで、「プロは本当に自分のやりたいことはやらない」みたいなことが書いてあったけど、この歳になって思うことは、むしろ「長続きするプロほど、どんな企画にでも自分のやりたいことを捻り込んでしまう」という方が本当だと思う。業界のトップを常に走っている人ほどそうだ。
— 小林信行 Nobuyuki Kobayashi (@nyaa_toraneko) 2019年9月8日
つまり「プロは読者の読みたいことを優先して自分の書きたいことは書かない」という意見に対して、「プロは読者の読みたいことを書くのは当然としてなんとか自分の書きたいことも捻り込むものだ」という主張といえる。
この主張は個人的には正しいと思うけど、今の議論ではあまり重要ではなくて、「読者の読みたいこと」と「著者の書きたいこと」の2軸が存在することが重要。
読みたいこと vs 書きたいこと
この2軸を図にするとこうなる:
分かりやすいのは「読者も読みたいし著者も書きたい」領域と「読者も読みたくないし著者も書きたくない」領域。
前者は書けばいいし、後者は書かなければいい。
問題となるのは「読者は読みたいけど著者は書きたくない(読者優先)」領域と「著者は書きたいけど読者は読みたくない(著者優先)」領域をどう扱うべきか。
このギャップ領域がほとんどなければ幸せで何も考えなくていいんだけど、大きい場合はいろいろ考えないといけない。
はてさて、どうすべきなのか?
「読者優先」と言い切れない理由
ここで「それは当然『読者優先』の一択でしょ」となりそうなんだけど、そう言い切れないのが難しいところ。
著者は書きたいことがあるから書いているわけで、書きたいことが書けないなら何のために書いてるのか分からなくなる。
このモチベーションの問題は大きい。
一方で、モチベーションに関しては別の問題もあって、せっかく書いたのに売れないと何のために書いたのか分からなくなる。
もちろん、リソース(執筆時間&ページ数)がいくらでもあるなら全部書けばいいんだけど、そうでないときはこの2つはジレンマとなって立ちふさがってくる。
そして、前者を優先するなら著者優先になるし、後者を優先するなら読者優先になる。
レーゾンデートル(存在理由)
基本的には読者を優先すべきだと思うけど、この文章を書きながら少し考えが変わってきた。
やっぱり書きたいことは何がなんでも捻じ込まないとダメだ。
なぜかというと、そうしないと「その同人誌が存在する理由」つまりレーゾンデートルが存在しないから。
自分が書きたかったことが書かれてない同人誌なら、それは自分が書く必要は何もない。
他の人が書けばいい。
けど、そうではないわけで。
なので、何がなんでも書きたいことは入れないとダメ。
もちろんその度合いはあって、ここでの主張は「読者:著者=100:0」にするのだけはダメというもの。
また「読者:著者=0:100」にしろという主張でもない。
例えば、読者の読みたい(けど著者は書きたくない)ことが100あって、著者の書きたい(けど読者は読みたくない)ことも100あって、リソース的に50しか書けないとなったとき、「読みたいこと」を50書いて「書きたいこと」を0にするのだけは絶対にダメ。
そして「読みたいこと」を0にして「書きたいこと」を50書けと言っているわけでもない。
読者を優先するなら「読みたいこと」を40「書きたいこと」を10書くとかがいいだろうし、どうしても書きたいんだというなら「書きたいこと」を50書いてもいいと思う(ただしその場合はたくさん売るのは諦める)。
価値を提供する
とはいえ、読者を大切にするのを忘れてはダメで。
何でもいいからちゃんと価値を提供すること。
これ大事。
いろんなところで言われてるから、自分が改めて書くことでもないけど。
なので、以下のようにするのがいいと思う:
- 基本的は読者の読みたいことを書く。
- けど、自分の書きたいことを何がなんでも捻り込む。
それが出来ないならその本を書く意味はない。
おそらく2軸で考える必要あるんだろうなと今回原稿書いてて思った。読者が読みたいものと、著者が書きたいもの。両者が一致してれば問題ないけど、実際にはズレがある。そのときは読者を優先して、でも書きたいこともねじ込むのがよさそう。まずは価値を届け、刺さる人には書きたいことも伝える。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) 2019年9月10日
そして、この観点で結城浩先生の『数学ガール』を見返すと、面白いことに気づく。
『数学ガール』の内容は主に前半と後半に分けることが出来て、前半は後半で必要になる内容、後半は本のサブタイトルの内容(フェルマーの定理とか乱択アルゴリズムとか)となっている。
これは、前半は基本的な内容を伝えていて多くの人に価値を提供していて、後半はけっこう難しいので全員が読めるわけではないけど、サブタイトルにしてるくらいで結城先生が書きたかったことなんだろうと推測できる。
こんな感じで、多くの人に価値を提供する→書きたいことを書いて刺さる人には刺さる、というのがいいんだと思う。
(まぁ、結城先生にとっては前半の内容は別に書きたくないことではないだろうけど)
お手本にした数学ガールをそうやって振り返ると、前半の議論は後半の議論のベースでありながら、普通の読者に十分に価値を与えてる。そのうえで後半の議論はおそらく結城先生自身が知りたくて勉強してそれを伝えたくて書いたものになってる。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) 2019年9月10日
そもそも読者は読みたいものを知っているのか
他に考えておきたいのがそもそも読者は読みたいものを知っているのか。
当たり前なんだけど存在を知らないものは知りたいと思うことがまず不可能。
存在を知って初めて知りたいと思える。
つまり、次の3つのステージがある。
- そもそも存在を知らない
- 存在は知ってるけど詳しくは知らない
- ある程度知っていてより深く知りたい
そして読者が読みたいと思うのは2.か3.になったもの。
2.なら入門書、3.なら応用書を手に取ることになる。
けど、1.の状態ではそもそも読者が手に取らないーーというか取れない。
そして読者のほとんどが1.の状態ならそもそも読者が読みたいものが存在しない。
存在しないんだから、読者の読みたいものを書くということ自体が出来ない。
なのでそれが読者の読みたいものなんだと気づかせる必要があるとなってくる。
自分の場合、『哲学散歩道』で書いた身体性の議論とかはかなりそういう面が・・・
今回書いた『Math Poker Girl』でもあとがきで「ソクラテスってこんな気分だったのかな」と書いたのだけど、分かってないことを分かってないと、そもそも分かりたいと思わないというか・・・
この先、Lucid本も書きたいと思ってるけど、Lucid本もそうなんだよなぁ・・・
なんでこうもアーリーアダプターのさらに前でばっかり本を書いてるんだろう(^^;
あっ、気づいてる人が他にいなそうだから伝えたいと思うのが原因か。。。
読者は1人だけじゃない
あともう一つ考えておきたいのが、読者は1人だけじゃないということ。
読者にだって多様性がある。
多くの人には刺さらなくったって、刺さる人がいるならその人のために書くというのは全然ありだと思う。
多くは売れないと思うけど、心を強く持って・・・(自分への励まし)
ニッチ本の生存戦略
そういったニッチ本の場合、普通にやってると継続的な活動は出来ないと思う。
- 売れなくて心が折れる
- 印刷にかかった費用や諸経費を回収できない
なので、少し特殊な生存戦略を考える必要がありそう。
需要を喚起する
「なぜこれがあなたに必要なのか」を強く訴える必要がある。
読者はそれが自分に必要なものだということにまず気づけていない。
そういった読者に刺さるようなアピールをして少しでも需要を喚起しないとダメ。
例えば、自分の『哲学散歩道』は、構成として最高のものになっていると思っているけど、それは「普通の本」ならの話。
ニッチ本だと構成が美しいだけだと生きていけない。
タイトルから変えて、構成もより多くの人に「これはあなたに必要な本なんだ」と伝わる形にしないとダメ。
あと、煽りの付け方を工夫するとか露出を増やして認知してもらう機会を増やすとかいった努力が不可欠。
価値の提供を忘れない
最低限、一つだけでもいいから、何か読んだ人に価値を提供する。
そうすれば「読んだけど何の役にも立たなかった」というのだけは避けられる。
これは読んでくれた人への礼儀というもの。
値段を少し高くする
刺さる人が少ないなら、値段を高くして回収できる費用を大きくするのも手だと思う。
刺さる人は値段が少し高くても買ってくれると信じて。
売れて欲しいからと値段を下げるのはダメだと思う。
ーーいや、売れないの嫌だから、めっちゃ値段下げたいんだけどね!
今でも値段下げるべきかめっちゃ悩んでるけどね!!
でも、値段下げたら買ってくれるような人は、そもそも読んでもあまり面白いと思ってくれない。
逆に、読んで面白いと思ってくれる人は、値段が少し高くても買ってくれる(はず)。
それなら値段を少し高くしても、本当に欲しいと思ってくれる人にちゃんと届けて、自分も次の活動に向けてちゃんとお金を得る方がいいと思う。
「安さが理由なら買うべきではない」とよく言われるけど、その裏として「安さを理由として売るべきではない」も正しいと思う。
安かったから売れたというのではなく、買ってくれた人にとって価値があったから売れたとなるようにしないと。
『Math Poker Girl』に関して
さて、今回の『Math Poker Girl』に関しては、自分が書きたいことを書いている中で、読者が読みたいだろうことからめちゃくちゃ乖離してることに気づいてめちゃくちゃ悩んだ。
たぶん読者が一番望んでるのは「数学的にこうすればいいよ」という安直な結論。
対して、自分が書いてて至った結論は「世間で一般的にこうすればいいと言われてるけど、数学的に検討するとその主張には根拠がないよ」ということ。
定性的にはある程度正しいことまでは示せたんだけど(これ自体おそらく世界初の仕事)、定量的に正しいことまでは言えなかった(し、おそらく正しくない)。
読者は「安直な結論」を望んでいて、自分は「安直な結論なんかない」ことを書きたいとき、どうする???
どうしたものかと悩んだけど、自分に嘘はつけないということでそのまま書いてる。
いろいろ耐えられずに言い訳じみた節をつけたくらい・・・
(自分の書いたキャラの赦しの言葉に思わず泣きそうになった)
とはいえ、きっと数学の議論の部分が刺さる読者もいると思う。
たぶん。
そういう人に届いてくれればと思う。
というわけで、宣伝。
気になった人はチェックをつけてもらえると自分が喜びますm(_ _)m
今日はここまで!