いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『足の裏に影はあるか? ないか?』を読んでみた。

最近、入不二先生の『あるようにあり、なるようになる』を読んでる。

こちらの感想はまた別に書こうと思うのだけど、以前、同じく入不二先生の『足の裏に影はあるか? ないか?』を読んでいたので、そちらの感想をまず書いておこうと思う。

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

なお、読んでるときに思ったことをツイッターにツイートしていたので、それを引用しつつ、必要なら説明を付け足す感じで進めていく。

あと、最初に断っておくと、偉い先生の著書に対してこういうのもなんだけど、正直なところ、考えが足りていない部分が多いので、そういった考えが抜けている部分を指摘する内容が多くなっている。
かなりケチョンケチョンにこき下ろしてるので、注意。

地平線と国境線

「国境線」は越えられるのに、「地平線」は越えることが出来ない、という話。

「私たち」に外はない

「私たち」と「私たちでないもの」を区別しようとしたとき、それらは「同じ土俵に」並べられるものになっているので、その土俵はまた別の「私たち」を指し示すものになっている。
これが繰り返されるので、どこまでいっても「私たち」の「外」というものはない、という話。

足の裏に影はあるか? ないか?

著者の子供が小さいときときに、著者に向かって「足の裏に影はあるの? ないの?」という質問をした、という話。
それに関して、いろいろと考察がされてるんだけど、自分の思ったところは以下。

思い切って質問を極端なものに変えることで、本質的な条件を炙り出すというのがこの考え方。
このように答えが曖昧な問題の場合には、答えが自明で「真」「偽」となるレベルの質問を用意してその様子をぶつけ合うことで、本質的な条件というものが見えてくる。

この問題の場合、問題を難しくしているのは、「足」と「地面」がくっついたり離れたりするということ。
「常に離れてる」場合には明らかに影があるので、これに戦わせる質問として、「常にくっついているものの間に影はあると考えるのか?」というものを用意してやればいい。
それが、「頭の中に、影はあるか? ないか?」というもの。

これは別に頭の中である必要はなくて、例えば(中身のぎっしり詰まった)木の中に影はあるのか、とか、(中身のぎっしり詰まった)鉄の塊の中に影はあるのか、とかでもOK。
ここで、(中身のぎっしり詰まった)と注釈をつけているのは、そこに空洞があったりすると「影がある場合もあるんじゃない?」と、やはり曖昧な答えが出てくる可能性があるからで、こういった曖昧な答えが出てくるのを防ぐようにしている。

さて、このように自明な質問を用意して戦わせると、見えてくるのは、「影」が出来るには「表面」が必要だ、という隠れた条件。
考えてみればこれは当然で、影というのは光が何かに遮られた結果、何かしらの「表面」に現れるものだから。
その「表面」を生み出す隙間が存在しなければ、影は存在できないことになる。

なので、足の裏に影はない、となる。

ただ、ツイートでもちょっと触れてる通り、これは定義次第ともいえる問題。
例えば、影の定義を「光の当たっていない部分全体」とするなら、そのときは木の中にも影はあることになり、足の裏にも影はあることになる。(ただし、この定義の場合、影は「平面的」ではなく「立体的」になる)
このあたりは、どちらの定義の方がより妥当かという話。
科学なら、ちゃんと定義して、その定義にしたがってる限りはいずれの定義でも問題ないんだけど、こういった議論の場合、妥当性の議論になるので、かなり微妙な話になってくる。

無関係という関係

関係の非対称性の話・・・なんだけど、これを「非対称」と見ている理由がよく分からない。
区別は同時的に発生してるわけだから、別にそれ自体には非対称性は存在しない。
問題は区別の発生にあるわけではなくて、単に区別された一方の集団から他方の集団に対して絡む人が多いか少ないかというだけの話だと思う。
それは、哲学の問題じゃなくて、人間性の問題。

ツイートは特になし。

関係ないけど、以前「論客コミュニティ」で「『無表情』ってどんな表情?」というスレが立ったことがあって、その議論の方がよっぽど哲学的と思った。

「さとり」と「おおぼけ」は紙一重

仏教の「入不二法門品」についての話。
これは、「悟る」とはどういうことかについて、何人もの修行僧が語り合うのだけど、最後の僧は何も語らなかった、というお話。

ゲームの階梯

俗に言う「言わんのバカ」クイズの話。

ツイートは特になし。

あらかじめ失われた……

『あらかじめ失われた恋人たちよ』という映画を題材に、二番目が一番目を生む、という話。

この論理を簡単に書いておくと、

  • 一番目に相当するものが存在するだけでは、それは「一番目」とされない
  • 二番目に相当するものが生まれたとき、遡って一番目に相当するものは「一番目」となる
  • よって、二番目が一番目に生まれ、一番目は二番目に生まれる

という感じ。
詭弁も甚だしいw

思考の順番と、実際の発生のタイミングは関係ないのに、それが関係あるように考えてしまうという誤謬のいい例。

さまざまな「迷信」

著者の家族が引っ越しするときに、見つけた土地が俗に言う事故物件だったことに関する話。
なんかいろいろ書いてるけど、まぁそうよね、というくらいで、哲学的に際立った話は特になし。
科学や哲学に慣れてない人だと、これくらいの話でも哲学的に感じるのかもしれないけど。

特にツイートなし。

「ものさし」の恍惚と不安

メートル原器の話と、それに関連して、時間を計るというということに関する話。

数と時と思考

この章は内容がいくつかの節に分かれているので、それごとに。

まずは、順序に関する話から。

本だと「(奥の)順序」とか言ってるけど、「順序構造」とは何なのか、というのが数学的にちゃんと議論されてるわけで、そういった構造に関する議論を知らないとしか思えない言説。

次に、「未来」はやってくるのか、という話。

この議論はまさに、序盤にあった「地平線」は越えられない、という話と関係があって、つまり、「未来」はやってきた時点で「現在」に変わってしまうのだから、「未来」がやってくることはない、というのが最初の論調。
けど、そこから、「現在」から地続きであるのは「未来」でない(「未来」は「現在」と繋がっていない)という論調になっていて、これを地平線の話に置き換えると、地続きである限り、その「地平線」は「地平線」でないという話になるので、じゃあ、これまで話してた「地平線」っていうのは何なんだよ、という話になってしまってる。

ここら辺の話は『あるようにあり、なるようになる』でも話されてるんだけど、本質的には述語論理が理解できてないんだな、という感じ。
述語論理で∀と∃の順番が違うということがどういう違いを生むのかということが理解できていない(混同している)から、このようなトンチキな話になってるように思う。
(例えば、 \forall x \in \mathbb{R}, \exists y \in \mathbb{R}, x + y = 1が真になるのに対して、 \exists x \in \mathbb{R}, \forall y \in \mathbb{R}, x + y = 1は偽になるんだけど、この両者の区別がついていないと、後者の偽を以って前者も偽と思ってしまうという誤謬をしてしまう)

その次は、「一」に複数の意味があるよ、という話。

もうこれはツイートのまま。
数学的に考えれば、同じ集合であっても複数の構造を持つことが出来るので、どの構造で捉えるかによってその「役割」は変わってくるというだけの話。
この辺りも、数学の構造主義的な考え方が出来てないんだなぁ、と。
『あるようにあり、なるようになる』も「言葉遊び」感が非常に強いのだけど、おそらく、根本にはこの問題(「構造」というものが理解できていない)が大きいのだと思う。

本の方は、そこから時間の話に繋がっていく。

まず、先に行っている「一」の多重性に関する議論がダメダメなので、それを元にして議論しようとしている時点でダメなんだけど、それを差し引いても、「時間」に関してはより現象学的なアプローチで考えていかないとダメだろうね、というのがこのツイート。
この辺りの話をちゃんと説明するのは、ちょっと大変かな・・・いろんな思考実験からの考察とかが必要になってくるから。

一回性と反復

ヘラクレイトスの「同じ川に二度入ることはできない」という言葉を叩き台として、「一回性」と「反復」に関する考察を行ってる。

これはツイートの通り。
ポイントは、「何かが『変わる』というのは、『変わっていない』部分があって初めて成り立つ」ということ。
この気付きはけっこう重要で、最初の方の「『私たち』に外はない」の章も、本質的にこれと同じ論理(=何かと何かを比較して「違う」と判断するのには、まず比較対象となるだけの「同じ」がある必要がある)を使ってるのに、こちらの章ではそのことに気付けていないのは、おマヌケというか。
「変わる」ことによって「一回性」は生まれるけど、そのとき同時に「変わっていない」部分もあるので、それが「反復」を生み出す、というだけの話で、これは全然矛盾した話になってない。

「とりあえず」ということ

「とりあえず性」というものについての話。

とツイートした通り、後半は『時間は実在するか』という、著者の本の宣伝w

過去と未来、そして現実と仮想

著者が山口から東京に戻ってきて、「やはり東京で暮らす方がいいですか?」と聞かれたことに関する話。
今は東京で暮らしていて、山口で暮らしているわけではないのだから、その両者は比べられない、と。

このあたり、偏屈だよなぁとも思ってしまう。
質問者が聞きたいのは、山口で暮らしていた「過去」と東京で暮らしている「現在」の比較であって、仮に山口で暮らし続けたであろうときの「仮想の現実」と東京で暮らしている「実際の現実」の比較を聞きたいわけではないだろうに。

ただ、哲学的には、ちょっと面白い話。
というのも、次のツイートのような話と繋がってくるから。

「最大多数の最大幸福」を求めようとしたとして、実際に得られる未来は「一つ」でしかないのだから、その選択が「最善」の選択「だった」のかというのは、答え合わせのしようがない。
なので、「最大多数の最大幸福」を求めるというのは、原理的に不可能ではないか、と。

ここで、もし仮に、この「最大多数の最大幸福」を「現在の人間」だけに限定して考えるならば、それは近似的に最善に近い答えが得られるかもしれないけど、そうした場合、今度は遠い将来の人間の幸福というのは無視されることになってくる。
そうなると、昔に決定を行った世代の責任を、その決定の結果を受けることになった将来の世代の人たちは、どのようにして問いただすことが出来るのか、という問題が出てくる。(「世代間倫理」の問題)
例えば、年金の話なんかは「世代間倫理」の問題に関連が深くて、これは「未来も人口は増え続ける」という予測のもとで正常に機能するシステムなので、その予測が外れたときにはシステムが崩壊してしまうわけだけど、じゃあそのことを昔の人が予期できたかというとそれは難しい話だし、そもそも年金システムを立ち上げた当時の人たちに現状の責任を取らせることが出来るかというと、そんなことはもう出来なくなってしまってる。
それに、現状として年金は酷いことになってるけど、もしかしたらもっと酷いことになっていた可能性も否定は出来ない。

入不二先生自体の関心が運命論に向かってしまっているので、こういった倫理学に関する話題が出てきてないのは、ちょっともったいないと思ってしまう。

Love Letter 〜 Memoranda 1991-1992

この部分はほとんどエッセイ。
各章に対して特にツイートは残してない。

この部分全体に関して、以下のコメント:

「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス

プロレス論。
プロレスに対して、「フレーム」という考えを使って分析したトンプソンの論文を叩き台として、それに批判を加えていっている。

この批判に対する自分の評価は、以下のツイートを参照。

端的に言えば、左翼の内ゲバでよくあった「自分の解釈こそ『本物』なんだ」みたいな論調でトンプソンの分析を批判してるんだけど、もうダメダメすぎてどうしようもないというか・・・

全体を通して

最後に、全体を通しての感想。

ということで、哲学的な部分については正直ダメダメ。
でも、それ以外の部分は面白かったかな。
哲学者の書いた本として、それじゃダメだと思うんだけどね(^^;

今日はここまで!

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想