最近、入不二先生の『あるようにあり、なるようになる』を読んでる。
- 作者: 入不二基義
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/07/29
- メディア: 単行本
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こちらの感想はまた別に書こうと思うのだけど、以前、同じく入不二先生の『足の裏に影はあるか? ないか?』を読んでいたので、そちらの感想をまず書いておこうと思う。
- 作者: 入不二基義
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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なお、読んでるときに思ったことをツイッターにツイートしていたので、それを引用しつつ、必要なら説明を付け足す感じで進めていく。
あと、最初に断っておくと、偉い先生の著書に対してこういうのもなんだけど、正直なところ、考えが足りていない部分が多いので、そういった考えが抜けている部分を指摘する内容が多くなっている。
かなりケチョンケチョンにこき下ろしてるので、注意。
地平線と国境線
「国境線」は越えられるのに、「地平線」は越えることが出来ない、という話。
地平線の話。自分がいなければ、地平線は存在しない。自分がいなくても、国境線は存在する。定義が「自分」に依存しているか、していないかが、越えられないか、越えられるかという、この差の一番の根っこの部分だと思う。その指摘がないのはちょっとさみしい。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
「私たち」に外はない
「私たち」と「私たちでないもの」を区別しようとしたとき、それらは「同じ土俵に」並べられるものになっているので、その土俵はまた別の「私たち」を指し示すものになっている。
これが繰り返されるので、どこまでいっても「私たち」の「外」というものはない、という話。
入不二先生の論法は、イプシロンデルタに似てる。「限りなく大きい」とは、どういうことなの? という問いに対して、どんな地点をとってきても、それより大きいものがとれるよ、と答える論法を以って、「外がない」っていうのはどういうことなのかを説明してる。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
足の裏に影はあるか? ないか?
著者の子供が小さいときときに、著者に向かって「足の裏に影はあるの? ないの?」という質問をした、という話。
それに関して、いろいろと考察がされてるんだけど、自分の思ったところは以下。
足の裏。多分、問いの立て方が悪い気がする。「頭の中に、影はあるか? ないか?」…いや、腫瘍的な何かの話ではなくて。つまり、影が存在するには、実は「表面」というものが必要。理想的な密着状態では「表面」というものがなくなるので、光が当たっていなく、かつ、影がないという状態が生まれる。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
ただ、定義の問題でもあるのが微妙なところ。科学的な議論ではないので、「納得できる」「感覚にあう」というのが評価のポイントになってしまうので。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
思い切って質問を極端なものに変えることで、本質的な条件を炙り出すというのがこの考え方。
このように答えが曖昧な問題の場合には、答えが自明で「真」「偽」となるレベルの質問を用意してその様子をぶつけ合うことで、本質的な条件というものが見えてくる。
この問題の場合、問題を難しくしているのは、「足」と「地面」がくっついたり離れたりするということ。
「常に離れてる」場合には明らかに影があるので、これに戦わせる質問として、「常にくっついているものの間に影はあると考えるのか?」というものを用意してやればいい。
それが、「頭の中に、影はあるか? ないか?」というもの。
これは別に頭の中である必要はなくて、例えば(中身のぎっしり詰まった)木の中に影はあるのか、とか、(中身のぎっしり詰まった)鉄の塊の中に影はあるのか、とかでもOK。
ここで、(中身のぎっしり詰まった)と注釈をつけているのは、そこに空洞があったりすると「影がある場合もあるんじゃない?」と、やはり曖昧な答えが出てくる可能性があるからで、こういった曖昧な答えが出てくるのを防ぐようにしている。
さて、このように自明な質問を用意して戦わせると、見えてくるのは、「影」が出来るには「表面」が必要だ、という隠れた条件。
考えてみればこれは当然で、影というのは光が何かに遮られた結果、何かしらの「表面」に現れるものだから。
その「表面」を生み出す隙間が存在しなければ、影は存在できないことになる。
なので、足の裏に影はない、となる。
ただ、ツイートでもちょっと触れてる通り、これは定義次第ともいえる問題。
例えば、影の定義を「光の当たっていない部分全体」とするなら、そのときは木の中にも影はあることになり、足の裏にも影はあることになる。(ただし、この定義の場合、影は「平面的」ではなく「立体的」になる)
このあたりは、どちらの定義の方がより妥当かという話。
科学なら、ちゃんと定義して、その定義にしたがってる限りはいずれの定義でも問題ないんだけど、こういった議論の場合、妥当性の議論になるので、かなり微妙な話になってくる。
無関係という関係
関係の非対称性の話・・・なんだけど、これを「非対称」と見ている理由がよく分からない。
区別は同時的に発生してるわけだから、別にそれ自体には非対称性は存在しない。
問題は区別の発生にあるわけではなくて、単に区別された一方の集団から他方の集団に対して絡む人が多いか少ないかというだけの話だと思う。
それは、哲学の問題じゃなくて、人間性の問題。
ツイートは特になし。
関係ないけど、以前「論客コミュニティ」で「『無表情』ってどんな表情?」というスレが立ったことがあって、その議論の方がよっぽど哲学的と思った。
「さとり」と「おおぼけ」は紙一重
仏教の「入不二法門品」についての話。
これは、「悟る」とはどういうことかについて、何人もの修行僧が語り合うのだけど、最後の僧は何も語らなかった、というお話。
悟りとおおぼけ。これ、難しい話なんだよねぇ。自分も中学の頃に般若心経にハマった時、「とらわれない」ことにとらわれてたからなぁ。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
ゲームの階梯
俗に言う「言わんのバカ」クイズの話。
ツイートは特になし。
あらかじめ失われた……
『あらかじめ失われた恋人たちよ』という映画を題材に、二番目が一番目を生む、という話。
この論理を簡単に書いておくと、
- 一番目に相当するものが存在するだけでは、それは「一番目」とされない
- 二番目に相当するものが生まれたとき、遡って一番目に相当するものは「一番目」となる
- よって、二番目が一番目に生まれ、一番目は二番目に生まれる
という感じ。
詭弁も甚だしいw
あらかじめ失われた。光と闇のどちらが先に生まれたのか、という問いならば、同時に、と自然と答えられるのに、下手に論理立てて考えてしまうから、思考の流れに従って、二番目が一番であると考えてしまう。ここでの一番と二番は対立項で、発生のタイミングは同時。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
思考の順番と、実際の発生のタイミングは関係ないのに、それが関係あるように考えてしまうという誤謬のいい例。
さまざまな「迷信」
著者の家族が引っ越しするときに、見つけた土地が俗に言う事故物件だったことに関する話。
なんかいろいろ書いてるけど、まぁそうよね、というくらいで、哲学的に際立った話は特になし。
科学や哲学に慣れてない人だと、これくらいの話でも哲学的に感じるのかもしれないけど。
特にツイートなし。
「ものさし」の恍惚と不安
メートル原器の話と、それに関連して、時間を計るというということに関する話。
ものさし。これは、「逆転」を起こしてしまっている。基準があって測られるのではなくて、測るために基準がある。長さという物自体が、基準の前に存在している。時間も同じ。「この身体」を通しての現象がまず第一にあって、その中での構造を見ていく中で基準は生まれていく。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
ものさし続き。長さの方はよく分かると思え、時間はよく分からないと思えてしまうのは、何でなんだろう。どちらも実は「よく分からないもの」を比較して「よく分からないもの」を測ろうとしているだけなのに。(「1m」って何?)
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
数と時と思考
この章は内容がいくつかの節に分かれているので、それごとに。
まずは、順序に関する話から。
数と時の思考。これは、どれも全順序の構造をしているから。名前というか役割というかは、そのものそれ自体ではなく、構造から生まれてくる。例えば、関係a<bを、bをaは割り切れる、と定めると、この場合、全順序の構造ではなくなるので、2も3も二番目になる。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 18, 2011
本だと「(奥の)順序」とか言ってるけど、「順序構造」とは何なのか、というのが数学的にちゃんと議論されてるわけで、そういった構造に関する議論を知らないとしか思えない言説。
次に、「未来」はやってくるのか、という話。
未来について。入不二先生の最初の論調は地平線の話の論調なんだけれど、最後の方は、地続きである時点で地平線は地平線ですらないという論調に変わってる。この否定は前半とレベルの違う否定で、そもそも前半の議論が間違っているという話になってしまっている。どちらが本意なのか、よく分からない。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 19, 2011
この議論はまさに、序盤にあった「地平線」は越えられない、という話と関係があって、つまり、「未来」はやってきた時点で「現在」に変わってしまうのだから、「未来」がやってくることはない、というのが最初の論調。
けど、そこから、「現在」から地続きであるのは「未来」でない(「未来」は「現在」と繋がっていない)という論調になっていて、これを地平線の話に置き換えると、地続きである限り、その「地平線」は「地平線」でないという話になるので、じゃあ、これまで話してた「地平線」っていうのは何なんだよ、という話になってしまってる。
ここら辺の話は『あるようにあり、なるようになる』でも話されてるんだけど、本質的には述語論理が理解できてないんだな、という感じ。
述語論理で∀と∃の順番が違うということがどういう違いを生むのかということが理解できていない(混同している)から、このようなトンチキな話になってるように思う。
(例えば、が真になるのに対して、は偽になるんだけど、この両者の区別がついていないと、後者の偽を以って前者も偽と思ってしまうという誤謬をしてしまう)
その次は、「一」に複数の意味があるよ、という話。
「一」の意味の多重性。これは、どの構造で捉えているのか、というので、「一」の持つ意味が変わってくるから。素朴なところでは、集合の要素としての「一」なんだけれど、集合の集合を考えると、「部分だけど全体」という性質が出てくる。順序構造を入れたり、代数構造を入れたりしたときも同様。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 21, 2011
もうこれはツイートのまま。
数学的に考えれば、同じ集合であっても複数の構造を持つことが出来るので、どの構造で捉えるかによってその「役割」は変わってくるというだけの話。
この辺りも、数学の構造主義的な考え方が出来てないんだなぁ、と。
『あるようにあり、なるようになる』も「言葉遊び」感が非常に強いのだけど、おそらく、根本にはこの問題(「構造」というものが理解できていない)が大きいのだと思う。
本の方は、そこから時間の話に繋がっていく。
で、時間との関連の議論が続いているけれど、これがちょっと微妙。というのも、時間に関する議論の部分は概ね同意なのだけれど、「一」の持つ多重性の構造と、時間に関する議論の構造って、実は全然別のもの。時間に関する議論は、類推ではなく、別の視点で進めないとダメ。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 21, 2011
もうちょい詳しく。「一」の多重性は、「一」が多重な構造に属して、それぞれで別の役割があるから。一方、「時間」の方は、そもそも「現在」の外側を考えることが出来るのか、というのが出発点。現象学的に、「時間の流れ」の矢印を一度忘れた上で、議論を進めていく。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 21, 2011
「過去」や「未来」が「表象」として「現在」に現れてきていることに気づき、そこから、今まで「現在」と「その外側(過去・未来)」と考えてきたけれど、「現在」の外側に時間はなく、「現在」が「全体」で、かつ、分割不可能な「一」である、となる。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 21, 2011
だから、「外側」を考えて多重性を生み出している「一」と、「外側」を考えない(否定する)ことで多重性を生み出している「時間」では、構造が全然別もの。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 21, 2011
まず、先に行っている「一」の多重性に関する議論がダメダメなので、それを元にして議論しようとしている時点でダメなんだけど、それを差し引いても、「時間」に関してはより現象学的なアプローチで考えていかないとダメだろうね、というのがこのツイート。
この辺りの話をちゃんと説明するのは、ちょっと大変かな・・・いろんな思考実験からの考察とかが必要になってくるから。
一回性と反復
ヘラクレイトスの「同じ川に二度入ることはできない」という言葉を叩き台として、「一回性」と「反復」に関する考察を行ってる。
一回性と反復。んー、なんで「二回目」という言葉について、もうちょい考察を加えないのだろう? 何かが「変わる」というのは、「変わっていない」部分があって初めて成り立つのに。一回性が反復するのも、何も矛盾してなくて、正しいことなのに。下手に否定に走ってしまうのは、もったいない。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 23, 2011
これはツイートの通り。
ポイントは、「何かが『変わる』というのは、『変わっていない』部分があって初めて成り立つ」ということ。
この気付きはけっこう重要で、最初の方の「『私たち』に外はない」の章も、本質的にこれと同じ論理(=何かと何かを比較して「違う」と判断するのには、まず比較対象となるだけの「同じ」がある必要がある)を使ってるのに、こちらの章ではそのことに気付けていないのは、おマヌケというか。
「変わる」ことによって「一回性」は生まれるけど、そのとき同時に「変わっていない」部分もあるので、それが「反復」を生み出す、というだけの話で、これは全然矛盾した話になってない。
「とりあえず」ということ
「とりあえず性」というものについての話。
「とりあえず」ということ。とりあえず、宣伝だった。続きはこの本で! …アンサイクロペディアの「たらい回し」みたいになりそう。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 24, 2011
とツイートした通り、後半は『時間は実在するか』という、著者の本の宣伝w
過去と未来、そして現実と仮想
著者が山口から東京に戻ってきて、「やはり東京で暮らす方がいいですか?」と聞かれたことに関する話。
今は東京で暮らしていて、山口で暮らしているわけではないのだから、その両者は比べられない、と。
このあたり、偏屈だよなぁとも思ってしまう。
質問者が聞きたいのは、山口で暮らしていた「過去」と東京で暮らしている「現在」の比較であって、仮に山口で暮らし続けたであろうときの「仮想の現実」と東京で暮らしている「実際の現実」の比較を聞きたいわけではないだろうに。
ただ、哲学的には、ちょっと面白い話。
というのも、次のツイートのような話と繋がってくるから。
過去と未来、そして現実と仮想。これは、「最大多数の最大幸福」に対する反論と同じ構造。何が最善「だった」のか、と現在から過去を振り返り、さらに起こりうるであろうはずだった様々な現在を比較することが出来るだろうか、というのがその論旨。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 24, 2011
「最大多数の最大幸福」を求めようとしたとして、実際に得られる未来は「一つ」でしかないのだから、その選択が「最善」の選択「だった」のかというのは、答え合わせのしようがない。
なので、「最大多数の最大幸福」を求めるというのは、原理的に不可能ではないか、と。
ここで、もし仮に、この「最大多数の最大幸福」を「現在の人間」だけに限定して考えるならば、それは近似的に最善に近い答えが得られるかもしれないけど、そうした場合、今度は遠い将来の人間の幸福というのは無視されることになってくる。
そうなると、昔に決定を行った世代の責任を、その決定の結果を受けることになった将来の世代の人たちは、どのようにして問いただすことが出来るのか、という問題が出てくる。(「世代間倫理」の問題)
例えば、年金の話なんかは「世代間倫理」の問題に関連が深くて、これは「未来も人口は増え続ける」という予測のもとで正常に機能するシステムなので、その予測が外れたときにはシステムが崩壊してしまうわけだけど、じゃあそのことを昔の人が予期できたかというとそれは難しい話だし、そもそも年金システムを立ち上げた当時の人たちに現状の責任を取らせることが出来るかというと、そんなことはもう出来なくなってしまってる。
それに、現状として年金は酷いことになってるけど、もしかしたらもっと酷いことになっていた可能性も否定は出来ない。
入不二先生自体の関心が運命論に向かってしまっているので、こういった倫理学に関する話題が出てきてないのは、ちょっともったいないと思ってしまう。
Love Letter 〜 Memoranda 1991-1992
この部分はほとんどエッセイ。
各章に対して特にツイートは残してない。
この部分全体に関して、以下のコメント:
後半のエッセイみたいなやつの方が、なんか読んでて自然だし、何が面白いのかは言い表せないけど、読んでて楽しい。下手に議論に向かわないからかもしれない。「これが入不二です」という呼吸が感じられるのかな…?
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 24, 2011
「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス
プロレス論。
プロレスに対して、「フレーム」という考えを使って分析したトンプソンの論文を叩き台として、それに批判を加えていっている。
この批判に対する自分の評価は、以下のツイートを参照。
プロレス論。最初の方を少し読んだけれど、反論がダメ。トンプソンの分析の場合、同じフレームが多重に捉えられることがあるという指摘をしないと。プロレスのフレームが「偽装」であり、かつ、「変形」である、という分析を行い、そこから、一方の見方だけでは決定出来ないことを指摘するのが重要。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
例えば、「歴史映画」のフレームを考えると、基礎フレームは「史実」になるけれど、1.映画は史実そのものではないから、偽装フレームになる 2.映画は映画そのものなのだから、変形フレームになる、と二通りの分析が可能。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
そもそも、「史実」だって、記されたものならば、それがすでに変形/偽造になっているし、「さて、その史実が『作られた』ものなのか」(=変形なのか、偽造なのか)というのをどう判定すればいいのか、という問題が残っている。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
プロレスの場合、プロレス好きの人は、あのパフォーマンスや勝敗の事前決定を喧嘩の変形(プロレスを喧嘩から差異化させている要素)と捉えるだろうし、プロレス好きでない人は、あのパフォーマンスや勝敗の事前決定を喧嘩の偽造(本物からの乖離)と捉える。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
というか、入不二先生、もっと本音のところで語ればいいのに、と思ってしまう。その方が説得力があって、論文としても価値が高いと思うのに。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
例えば、演劇のこととか考えてみると、あれって、最初から終わりがどうなるかなんて決まっているわけですよ。場合によっては、結末がどうなるのかを観客も知っていたりする。けれど、それをもって、この芝居は八百長だ、と批判されることがあるのか、と考える。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
登場人物たちが、ストーリーもなしに、その場その場で動き、物語を作っていく、なんてことをやろうとしたら、演劇はとたんに崩壊しますよ。演劇は、最初から筋書きが決まっている。けど、なら演劇は八百長なのか、というと、違う。「筋書きが決まっているのが演劇」なわけです。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
同じように、「筋書きが決まっているのがプロレス」でもあるわけです。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
けど、じゃあそのことでプロレスの魅力が失われるのか、というと、それは違うわけです。あの迫力が失われるわけではない。むしろ、筋書きがあるからこそ、あの迫力や、ワクワクする試合展開があるわけです。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
トンプソンの分析に戻って、じゃあ「プロレスの八百長試合」というものが考えられるのか、という考察を行なうと、これは難しいわけです。なぜなら、八百長の要素をプロレスが最初から持っているからです。そういう意味で、トンプソンの分析も間違ってはいないのです。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
重要なのは、「じゃあ、八百長が入っていてはいけないのか」という部分。「八百長=いけない」という刷り込みの論理こそが問題であって、否定されるべきはここの論理です。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
人生だって、物理的に考えれば、どう進んでいくのかなんて最初から決まっているわけです。そういう意味でいえば、人生だって八百長なわけです。けど、じゃあ八百長であったからといって、その人生の輝きが同時に損なわれてしまうのかというと、そうではありません。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
ニーチェにつながっていきますが、たとえ決まった人生でも「もう一度!」と臨めば、それは活き活きしたものになります。そこから、純粋に今繰り広げられている激しい闘いを楽しめばいい、と主張をもっていけば、「公の言葉」で隠されてしまった入不二先生の「本音」が表現出来たはずなんですけどね。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
そして、そこまで踏まえて、「何を『本当』とするのか」は、それぞれの人が決めている、という部分を指摘すれば、トンプソンの分析だと一意に分析が定まらないということから、反論が成立します。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 25, 2011
プロレス論。後半はもはや妄言で、読むに絶えない。何か論を述べているようにみせて、「何も述べていない」状態になっている。あるのは、プロレスこそが本物なんだ、というただの独りよがりな叫びだけ。論理も説得力も何もない。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 26, 2011
その論点のすり替えというのが姑息で、正直怒りを覚えるレベル。そして、相対主義とかの分析を取り出して、ごまかしを始めているのがまたひどい。(よく見ると、分析だけ行って、何も反論していない。「この視点はダメだよね」と片付けているだけ。)
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 26, 2011
結局、「八百長」を認められずに、別の論理で「八百長じゃないよ、プロレスのあの呼吸こそが本物に通じる道なんだよ」と、述べているだけ。「八百長だっていいんだ」というそこのブレークスルーがなくて、むしろ、入不二先生が「プロレスは八百長じゃないんだ」ということをいうのに躍起になっている。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 26, 2011
三段の変化でいう獅子の姿であって、聖なる肯定がない。後ろめたさへの反逆としての論理展開に終始している。あの構造を持ち出すことは、プロレスは本物だと主張するのと同時に、あの構造から考えることで、暗に、他のスポーツを偽物(本物の強さを追求できないもの)と貶めている。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 26, 2011
端的に言えば、左翼の内ゲバでよくあった「自分の解釈こそ『本物』なんだ」みたいな論調でトンプソンの分析を批判してるんだけど、もうダメダメすぎてどうしようもないというか・・・
全体を通して
最後に、全体を通しての感想。
とまぁ、あとがきまで読んで、『足の裏に影はあるか?ないか?』読了。面白い本ではあったけれど、突っ込みどころが多すぎるというか・・・数学の素人が、下手に数学のレトリックを使うのは、ダメだと思う。正直、数学的教養のなささ加減に呆れ返ってしまった部分が多いというか。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 26, 2011
一方、第三部のエッセイ的なところは、凄い素直に読めた。もっとエッセイだらけの本にしたら良かったのに。入不二先生の呼吸というか、ふと立ち止まっての素朴な思索の方が、面白いと思う。
— やまいも@技術書典7【え23C】(3階Cホール) (@yappy0625) July 26, 2011
ということで、哲学的な部分については正直ダメダメ。
でも、それ以外の部分は面白かったかな。
哲学者の書いた本として、それじゃダメだと思うんだけどね(^^;
今日はここまで!
- 作者: 入不二基義
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