いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

哲学書の「難しさ」に関して思ったこと。

自分は哲学が好きだけど、哲学者本人の書いた、いわゆる「哲学書」というのはほとんど読まない。
なぜって、理由は簡単で、「難しい」から。
なので、哲学に関する本を読むとしても、それは(例えば飲茶さんが書いた『14歳からの哲学入門』のような)「哲学解説書」であることが多い。

けど、やはり「この哲学についてもっとよく知りたい」となると、原著にあたる「哲学書」を読まざるをえないわけで。

今までに実際に手に取ってみた哲学書は、レヴィ=ストロースの『野生の思考』、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』など、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、ケインズの『貨幣改革論』、それと『老子』『荘子』くらい。
(こうやって実際に挙げてみると、ホントに少ないな)

哲学書の「難しさ」

ところで、哲学書は「難しい」というけど(そして、実際に「難しい」と感じることが多いけど)、どうして「難しい」んだろう、というのが思ったこと。
というのも、例えばケインズの『貨幣改革論』は(積読になってしまっているけど)「難しい」とは感じなかったし、哲学解説書の解説を読んでも(哲学が)難しいと感じることはほとんどないから。

一般に、哲学書が難しいのは、使われる用語が特殊だからとか、その考え方が特殊で理解しづらいから、と言われることが多いと思う。
でも、それが理由であるとしたら、本質的に同じ内容を扱っている哲学解説書についても「難しい」と感じてもおかしくないはず。
けど、実際には哲学解説書の行っている説明を理解できないということはほとんどない。
なので、「内容が難しいから」という理由で哲学書が「難しい」と感じているわけではなさそうに思える。

もちろん、哲学解説書の深さと、哲学書の深さというものを同列に扱ってはいけない、というのはあるかもしれない。
例えば、数学で「極限」を扱うことを考えたときに、高校レベルの「極限」(limを使った「直感的」(≠直観的)な計算)と、大学レベルの「極限」(ε-δ論法を用いた「厳密」な計算)では、同じ「極限」を扱うにしても、難しさに雲泥の差がある。
前者が理解できたからといって、後者も理解できるかというと、必ずしもそうとは限らない。
(もっとも、これは「慣れ」と「根気」の問題が大きい。厳密な議論を読んでいくのは、かなり根気が必要なので)

ただ、それを差し引いても、哲学書を「難しい」と感じる理由は他にあるんじゃないかな、というのが最近思ったこと。
それは何かというと、「翻訳」の問題。
外国語を日本語に翻訳したときに、その質が悪いのが原因で、哲学書を難しいものにしてしまっているんじゃないかな、と。

滑る文章

哲学書を読んでいるときに感じる感覚として、「文章がすんなり頭に入ってこない」というのがある。
文を目で追うのだけど、ツルツルと滑ってしまって、その意味が頭に入ってこない、という感じ。

哲学書以外でも、こうした感覚を受ける文章にたまに出会うことがある。
具体的には、奈須きのこの『空の境界』の冒頭は、自分にはまったく読めなかった記憶がある。
なんというか、本当にとにかく文字が滑る。
書いてある文字の内容が空虚というか、何度目を通しても「うん、つまり何?」という感覚が離れなくて、最初の1ページを数分格闘して、結局そのときは読むのを諦めた。
(今、改めて読んでみると、そうでもないのだけど・・・おそらく、一度「理解」が入っているので、「どう理解すればいいのか」というところから逆算で文章が読めるようになっているのだと思う)

何はともあれ、自分が哲学書を読んでいるときに感じていた「難しさ」を改めてちゃんと見つめてみると、「内容的な難しさ」というよりか、「文章がまともな日本語として読めない難しさ」の方が、圧倒的に大きいように感じる。
それは、哲学書の内容云々以前の問題だ。

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

そもそも、どうしてこのようなことを思ったのかというと、今、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んでみようと、ちょっと格闘しているから。

この本自体は、大学のときの一般教養科目(講義名は何だったかなぁ・・・?)でテキストとして購入させられた本で、ずっと持っていたものなのだけど、読まずに積読になってた。
けど、最近メルロ=ポンティを非常に読みたいと思って、ならばその源流にあたるフッサールの本もちゃんと読んでおこうかなと思ったので、再び手に取ってみた。

ただ、いざ読み始めると、読みにくい読みにくい・・・
まさに「文章が滑る」感じで、文の意味がすんなりと入ってこない。

ところが、冒頭の文章を読んでいて、あることに気がついた。

その冒頭の文章というのが、以下のもの。

 学問のためにささげられたこの場所でおこなうこの講演の「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」という題目そのものからしてすでに異論を呼び起こすであろうことを、わたしは覚悟しておかねばなるまい。〔その異論はほぼつぎのようなものであろう。〕いったい、われわれの学問そのものが危機におちいっているなどとまじめに語られてよいものであろうか。今日よく耳にするこのような言い方は、あまりにも大げさに過ぎないだろうか。学問の危機という以上は、少なくともその真の学問性、すなわち学問がみずからの課題を設定し、その課題をはたすための方法論を形成してきたその仕方の全体が疑問になった、という意味であろう。そのようなことは、なるほど哲学についてなら言えるかもしれない。たしかに哲学は現在、懐疑や非合理主義や神秘主義に屈服しそうになっている。心理学がいまなお哲学的要求をかかげ、単なる実証科学の一つにとどまるまいとしているかぎりでは、それにも同じことが当てはまるかもしれない。だが、だからといって、いきなり、しかも大まじめに学問一般や、したがってまた実証諸科学の危機などといった言い方をすることがどうしてできようか。

これを、以下のようにちょっと書き直してみる。

 学問のためにささげられたこの場所でおこなうこの講演の「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」という題名そのものからしてすでに異論を喚び起すであろうことを、わたしは覚悟しておかねばなるまい。いったい、われわれの学問そのものが危機に陥っているなどとまじめに語られてよいものであろうか。今日よく耳にするこのような言い方は、あまりにも大げさ過ぎないだろうか。
 学問の危機という以上は、少なくともその真の学問性、すなわち学問が自らの課題を設定し、その課題を果たすための方法論を形成してきた その仕方の全体が疑問になった、という意味であろう。
 そのようなことは、なるほど、哲学についてなら言えるかもしれない。たしかに哲学は現在、懐疑や非合理主義や神秘主義に屈服しそうになっている。心理学がいまなお哲学的要求を掲げ、単なる実証科学の一つにとどまるまいとしているかぎりでは、それにも同じことが当てはまるかもしれない。
 だが、だからといって、いきなり、しかも大まじめに学問一般や、したがってまた実証諸科学の危機などといった言い方をすることがどうしてできようか。

やったことは簡単。
文章をいくつかの段落に区切っただけ。
ただ、これだけで読みやすさが格段にアップしていることに気がつくと思う。

段落に区切ることで、文章の「構造」が容易に掴めるようになったというのが、この読みやすさ向上の原因。

一例をあげると、“いったい、われわれの・・・語られてよいものであろうか。”、“今日よく耳にする・・・大げさに過ぎないだろうか。”と、反論例の提示が2つ続いたあとで、段落もなく“学問の危機という以上は・・・”と続くと、この一文が、前の2つの反論例と同列の、3つめの反論例なのか、それとも、別の話題を始めているのかがいるのかが、「日本語では」ぱっと見で分からない。(外国語なら、疑問文かどうかは文頭ですぐに分かることに注意)
けど、ここで段落を区切ることで、“学問の危機という以上は・・・”以降が、直前の2つの反論例と同列のものではないということが、すぐに分かる。
なので、「ここは3つ目の反論例なのかな? それとも、別の話題なのかな?」という疑問を感じたまま文を読む必要がなくなって、読むストレスが激減し、非常に読みやすくなる。

さて、まず「段落を区切る」という手の入れ方をしてみたけど、これをさらに次のようにしてみる。

 学問のためにささげられたこの場所でおこなうこの講演の「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」という題名そのものからしてすでに、異論を喚び起すであろうことを、わたしは覚悟しておかねばなるまい。いったい、われわれの学問そのものが危機に陥っているなどと、まじめに語られてよいものであろうか。今日よく耳にするこのような言い方は、あまりにも大げさすぎないだろうか。
 学問の危機という以上は、少なくともその真の学問性ーーすなわち、学問が自らの課題を設定し、その課題を果たすための方法論を形成してきたそのやり方全体ーーが疑問になった、という意味であろう。
 そのようなことは、なるほど、哲学についてなら言えるかもしれない。たしかに、哲学は現在、懐疑や非合理主義や神秘主義に屈服しそうになっている。心理学がいまなお哲学的要求を掲げ、単なる実証科学の一つにとどまるまいとしている限りでは、それにも同じことが当てはまるかもしれない。
 だが、だからといって、いきなり、しかも大まじめに、学問一般や、実証諸科学の危機などといった言い方をすることが、どうしてできようか。

やったことは、読点を適当に入れたり、言葉遣いを少し変えたということ。
そして、一番大きいのが、言い換えの文(“すなわち、学問が自らの・・・そのやり方全体”)をダッシュ(ーー)で囲ったということ。
読点に関しては好みの問題が多少あるとは思うけど、全体としては総じて読みやすくなっていることに気付くと思う。

外国語と日本語を比較したときに、大きな違いとしてあるのが、外国語はまず最初に主題を言って、そのあとに補足を続けていくスタイルなのに対して、日本語は言いたいことに必要な要素を全て用意してから、最後に言いたいことを言うというスタイルであるということがあると思う。

この影響が大きいのが、従属節や、カンマ以降に置かれる(あるいはカンマによって挟まれる)補足的な節がたくさん含まれる場合で、外国語であれば主張自体はすぐに掴めて、それで説明が足りていない部分をあとから補っていくので、意味が分かりやすいのだけど、それをそのまま一文で日本語に訳そうとすると、主題とどう繋がってくるのかもよく分からない補足的な説明がズラズラと並べられたあとに主題がやってくるので、まずその境目がどこであるのかが分かりづらく、また主題の主語と述語が離れすぎていて、結局何について話をしていたのかが分からなくなりやすい。

そこで、補足的な内容を別の文に分けたり、主題の主語を述語の直前に持ってきたり、あるいは、括弧で括ったり、ダッシュで囲うといったことをやることで、主題が何なのかが明確になって、文章が読みやすくなる。

こんな感じで、ちょっと直すだけで、読みやすさというのは圧倒的に変わってくる。

「翻訳」の問題?

ところで、こういったことは「翻訳」の問題とは関係ないのでは?という気がするかもしれないけど、一概にそうとはいえない。
というのも、「解説」をちょっと眺めていたら、次のような文があったから。

 いささか私事にわたって恐縮であるが、最後に、本訳書のなった経緯について一言ふれておきたい。もともと本訳書は、筆者の恩師であり、訳者の一人でもある細谷恒夫先生が(略)訳出されたものを基礎にしている。(中略)そこで、先生の御遺志を継いでこの訳業を続行するという大役が、御遺族の御意向により筆者に負わされることになった。(中略)この部分にもある程度の手入れが必要であることに気づいた。というのは、おそらく高校生をも対象にするというシリーズの性格からであろう、相当無理に訳しくだかれているところや、あやうく原意をそこないかねないほど段落を短く切っておられるところが間々目に付くし、(中略)思いきって手を入れることにした。

なに余計なことをやってるんだか・・・

細かく入れられていた段落というものが実際にどのようなものだったのかは分からないけれど、明らかに「読みやすくしよう」という意図によって(翻訳時に)入れられていたであろう段落が、消されていたのね。

日本語と外国語の性質の違い上、原文を出来るだけ忠実に訳すという仕事では、日本語の文章としては非常に読みづらいものになりやすい。
そこで、場合によっては意訳するということも必要である(例えば、無生物主語なんて、直訳なんか絶対してはいけない)のに、それを行わないのは、訳者の怠慢であるとしか言いようがないわけだから。

もうちょっと、ちゃんとした「翻訳」をやってほしいものだよね・・・

それ以外にも

なお、実際に翻訳自体がヘンテコな場合も、割と多い。

例えば、次の文。

いずれにしても、これら一群の科学のもつ「学問性」が、哲学のもつ「非学問性」に対して有している対照の著しさは、だれの眼にも明らかである。

「対照の著しさ」って何だ・・・???

まったく意味が分からなかったので、英訳されたもの(原著はドイツ語)をあたってみると、英語では次のように訳されていた。

At any rate, the contrast between the "scientific" character of this group of sciences and the "unscientific" character of philosophy is unmistakable.

contrast、つまり「対比」とか「差異」ね。

ドイツ原文はさすがに読めないからなんとも言えないけど、英語だとそもそも「学問性」が従属節の主語になっていないし、どうしてこんなヘンテコな訳になったんだ・・・?

英文をそのまま和訳するなら、「いずれにしても、これら一群の科学の『学問性』と哲学の『非学問性』の間にある差は、間違えようがない」、あるいは、もうちょっと気の利いた和訳をするなら、「いずれにしても、これら一群の科学の『学問性』と哲学の『非学問性』との間には、疑いようのない差がある」といった感じか。

なお、その直後の文も、

それゆえわれわれは、この講演の題目に対して、自分たちの方法に自信をもっている科学者たちがまず最初に内心いだくであろう抗議にもあらかじめある権利を認めておくことにしよう。

となっていて、よく分からない。

「抗議にもあらかじめある権利を認めておく」って、どこで区切るんだ?

「抗議にも、あらかじめある権利を認めておく」?
(=抗議に対して、「前もって存在するある種の権利」を認めておく)

「抗議にもあらかじめある、権利を認めておく」?
(=「抗議が前もって持っているであろう権利」を認めておく)

「抗議にも、あらかじめ、ある権利を認めておく」? (=前もって、抗議に対して、ある種の権利を認める)

まぁ、どこで区切ったとしても、意味がヘンテコすぎる。
そもそも、ここでいう「権利」って、一体何の権利だ?

で、英訳文を当たってみれば、

Thus we concede in advance some justification to the first inner protest against the title of these lectures from scientists who are sure of their method.

justification、つまり「正当性」ね。

和訳すれば、「それゆえ、自分たちの方法について自信をもっている科学者たちがこの講義の題目に対して最初に内心抱くであろう抗議について、ある種の正当性をまずは認めておかざるをえないだろう」といったところ。

こういった調子のヘンテコ訳が出てきて、英訳文をあたってみると「あー、そういうことだったのね」というのが、けっこうある。
これは完全に翻訳の問題。
もうちょいなんとかならなかったものか・・・

ところで、この『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の翻訳者は木田元という有名な方で、他にも数々の翻訳書を出されてる。
しかし、こんな感じなので、評判はどんなもんなんだろうと検索してみると、訳に関する不評は全然見つからず、むしろ「原著の意を損なわないまま平易な日本語に訳されてる」みたいな評判があったりで、なんじゃそりゃ、と。
及第点にもいかないと思える翻訳が絶賛なわけだから、他の哲学書の翻訳たるや、どんなに酷いものなのかは推して知るべしなわけで・・・
なので、哲学書が難しいのは、翻訳が悪いという要因がホントに大きいんだろうなと思わざるをえない。

今日はここまで!

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)