いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『14歳からの哲学入門』を読んでみた。

飲茶さんの新刊、『14歳からの哲学入門』を読み終わったので、その紹介と感想など。

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

コンセプトとか

「14歳からの〜」というタイトルなので、中高生向けの哲学入門書なのかと思えば、そんなことはないw

この本のコンセプトは簡単。

「偉大な哲学者は、みんな厨二病だったんだよ!」
ΩΩΩ < な、なんだってー!?

つまり、世の中のことなんかよく知りもしないくせに、世界に対して斜に構えて反逆するような、14歳の頃にありがちな発想が哲学の根っこにあるんだよ、とw

・・・といっても、このコンセプトがありありと出てるのは、第1章のニーチェくらい。
そのあとの章では、ちょこちょこと思い出したようにフレーズとしては出てくるけど、そこまで強調されてはいない感じ。
基本的には、哲学が歴史的に行ってきた「前の偉大な哲学者を批判することで、新しい哲学が生まれてきた」という流れを追っている。

とはいえ、そこは飲茶さん。
とても分かりやすくポイントがまとめられていて、かつ、ユニークな喩え話もたくさん出されているので、とても分かりやすい。
西洋哲学の大きな流れを追うにはとてもいいと思う。

レイアウト・・・

ただ、本当に残念なのが、レイアウト。

自分が最初に本を開いて思ったのは、「あれ? 装丁ミスかな?」ということ。

というのも、まず上下の余白の空き方がどうにもおかしい。
上の余白がやたらと狭く、かわりに下の余白がやたらと広い。
脚注などを入れるのであれば、このようなレイアウトもありなのだけど(ただ、仮にそうだとしても、上の余白が狭すぎ・・・)、ページを捲っていっても脚注はなし・・・
裁断のときにズレたのかなとも思ったのだけど、一番最後のページの既刊の紹介を見てみると、上下の余白は均等に空いているので、裁断ミスというわけでもない。
なので、純粋にレイアウトのバランス崩れ。
これは酷い・・・

さらに目を引いたのが、ページ番号の入れ方。

こういった書籍の場合、見やすいようにページ番号はページの外側に置くものだけど、なんとこの本ではページの内側に置かれている。
見にくいったらありゃしない。
左右のレイアウトを間違えたとしか思えないレベル。

そして、読み進んでいく途中で「あれ?」となったのが、節の見出しのフォント。

見出しのフォントは、地の文に比べて目立たせるために、太めのフォントを使ったり、あるいはゴシック体を使うことが多い。
場合によっては、全体的に太いフォントを使い、さらに強調したい単語にはゴシックを使うということもある。
が、しかし。
この本だと、漢字のみゴシック体を使い、その他(カタカナ、ひらがな)には明朝体を使うという、変な規則が使われていた。
ブラウザでイメージを再現してみると、

デカルト存在証明」の真価

という感じ。
デカルト」の文字だけやたら細く見えてしまって、しっくりこない。

今から思えばこれはまだマシな方で、一番酷かったのは、

記号消費社会仕組

えっと、なんで「み」だけ明朝体なの!?
DTPやった人は、これを見て気持ち悪く思わなかったのだろうか。

2刷のときに改善されればいいんだけど・・・

現代哲学に関する感想

さて、内容に関して、ちょっと思ったことなど。

現代哲学(ポスト構造主義)の章を読んでいて思ったのが、「哲学の沼の部分にハマり込んでるなぁ」ということ。

ちょっと引用してみる。

「おまえらは、次々と生み出される有りもしない見せかけの記号(ゴール)に踊らされて、社会という小さな枠の中で死ぬまで走り回ってるだけなんだよ!
そして、それが永遠に続き、おまえらは、もうそこから抜け出せないんだよ!」

でもだ、そんなに記号消費社会が不毛な繰り返しだと言うなら、その記号を生み出している誰かを排除するという案はどうだろうか。
(中略)
何を言おうと、何をしようと、全部ダメ。
こんなふうに「はい、それも記号です(あなたは記号に捕らわれています)」の一言で、すべてを記号消費社会の活動に還元できてしまうのだから、どうあがいたって「記号消費社会の手の内」になる。

その意味で、ボードリヤールの「だから、人間は記号消費社会から逃れられない、その外側には出られないのです」という哲学は、「どんな反論も受け付けない」という点において、そてもずるい説だと言える。

だが、実のところ、ずるいのはボードリヤールだけではない。
どちらかというと、このずるさは、現代哲学者全員に共通したやり口だと言えよう。
(中略)
決して反論を許さない洗練された最強の哲学……
お前らは誰一人、社会というシステムから、そして、オレの考えた哲学から逃れる術はないのだという絶望的な哲学……

「どこまでいっても抜け出せない」
「反論のしようがない」

というのは、確かに絶望に感じるかもしれないけど、そうなんだろうか?

確かに、批判をすることで新しい考えを見つけ出していくのが哲学だとすれば、もはや批判が出来ない哲学の存在というのは、哲学の終焉ーー絶望に感じるかもしれない。

けど、それは哲学の沼にハマってる。
帰ってこないと。

自分の作った同人誌『哲学散歩道I』のあとがきに書いたことだけど、ちょっと引用。

それにしても、散歩というのは帰ってこられるからこそ幸せなものなのであり、それだからこそ、ちょっと迷ったって楽しく感じられるのだと思います。
哲学は、ともすれば道を踏み外して、苦しい水の底へ落ちてしまうことがあります。
それは病理であり、回復を志す哲学とは真逆の存在です。
この本の哲学は、どんな深みにはまろうときっと必ず元に帰ってこれるーーそんな願いも込めて、『哲学散歩道』と名づけました。

より深い知見を得たら、その知見に呑まれてしまうのでなく、その知見を活かすようにしないといけない。

どこまでいっても抜け出せない?
反論のしようがない?

なら、それでいいじゃないか。
なんで抜け出す必要があるのか。
なんで反論しなくちゃいけないのか。

仕組みも知らずに、ただ手のひらで踊らされているのは滑稽だけど、仕組みが分かって、しかもそこから抜け出せないということも分かったのなら、開き直ってその手のひらの上で楽しく踊ればいいだけ。

Sound Horizonの『Chronicle 2nd』の歌詞(セリフ?)で、次のようなものがある。

昔々、ある所に一人の男がいました。
彼は破滅の運命に囚われていましたが、苦難の末、その運命から逃れる道を見つけ出しました。
しかし、彼がその運命から逃れることは、別の運命によって定められていました。
その別の運命から逃れられたとしても 更にまた別の運命に囚われてしまいます。
結局はその枠を何処まで広げようと いづれは簡単に絡めとられてしまうのです。

これ、絶望を感じる歌詞のようだけど、実は最初と最後で目的意識が巧妙にすり替えられてる。
彼が逃れたかったのは「破滅の運命」だったのだけど、それがいつの間にか「運命そのもの」から逃れる必要があるかのようにすり替えられていて、その結果、「破滅の運命」から逃れることに成功しているのに、あたかもそれが失敗したかのように聞こえてしまう。

哲学の方も、元々は「誰にも論破されないような最強の理論を作ってやるぜ!」って言っていたのが、それを実現するためにいろんな反論を考えているうちに、いつの間にか「反論すること」が目的になってしまって、「あれれ、もう反論のしようがない、どうしようどうしよう・・・」ってなってる。
それ、主客転倒してるでしょw
ただ、沼にハマり込んでしまうと、こんなシンプルなことにも気づけなくなるのが哲学の怖いところ。

必要なのは、「批判する哲学」ではなく、「肯定する哲学」。

「なるほど、そうか。うん、これは批判のしようがないね。とてもいい考えだ!」
と、批判の出来ない哲学を作り上げることが出来たのなら、それは素晴らしい成果なのだから、それを肯定しないと。

そして、そうやって哲学が作られていくと、それは「たった一つの真理」だけが存在するのではなく、いくつも真理が存在できることになる。

それと、もう一つ思うこと。

記号消費社会に捕らわれて生きることは、悪いことなんだろうか?

CLAMPの『東京BABYLON』を思い出す。

女子高生「嫌よ……『普通』なんてーーみんなと同じなんて嫌!」
女子高生「『その他大勢』になって無視されるのは嫌よ!」
星史郎「勘違いなさっているようですね」
星史郎「この世で一番偉いのは、ちゃんと地に足がついて、一生懸命日々『普通』に『生活』している人たちです」
星史郎「毎日早起きして、毎日学校へ行って、毎日働いて、泣いて笑って悩んで苦しんで、一生懸命『現実』を『生きて』いる……」
星史郎「それほど『普通』の人たちを笑うのなら、貴方たちはその『普通』の人たちと同じように『生きて』いけるんですか?」

記号消費社会に捕らわれていようがいまいが、そうやって生きていく中に喜びも苦しみも悲しみもあるのだから、記号消費社会から抜け出すことにどれほど意味があるのか。
大切なものが何なのかを見失ってしまってはダメだと思う。

今日はここまで!

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト