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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

「自分探し」について考えてみた。

前回、PULLTOP繋がりの昔の記事を紹介した。

この中で言及している記事をこのブログではまだ紹介していなかったので、その紹介。
書いたのは2004年11月5日で、そのときのタイトルは『自分探し?。』。


「自分探し」なるものについて。

他のブログを読んでいて、「自分探し」なるものについて言及されていたので、自分なりに思ったことを。

まぁ、「自分探し」に関連して最近のニュースで思い浮かべるものといえば「香田さん」のニュースなわけだけれども、(この事件についてはとりあえず言及しないことにしておいて)実際のところどうなんだろうかな、と。
(※参考:イラク日本人青年殺害事件 - Wikipedia 真相は分からないけど、当時、香田さんは「自分探し」で危険なイラクへ行っていたという話があった。そして、「自分探し」の善し悪しを問う議論が行われてた)

個人的には、この「自分探し」については否定的じゃない。
むしろ、やる必要はあるだろう。
というか、「やられる」必要があると思う。

上の言葉尻のちがい、これは一般的な「自分探し」と、本来的な意味での「自分探し」による。

一般的に言われる「自分探し」――今の自分は、本当の自分じゃなくて、もっとすごい自分になれるんだ、という「思い込み」――は、全くもって意味が無い。
これは、いろんなところで批判されているとおり。
「じゃあ、本当の自分って何なの?」と聞かれたら、そんなものはどこにもないわけで。
(「願望」や「現状に対する不満」を垂れ流しているだけじゃ、意味が無い)
(※補足:当時は関係性の哲学を重視していたので、「本当の自分」なんてものはなくて、ただ関係性だけによって「この自分」が定められているんだ、と考えていた)

じゃあ、本来的な意味での「自分探し」ってなんなのかな、というと、かじった程度の発達心理学から考えれば、それは「自己同一性の確立」。
そして、これが一般的な「自分探し」とどのように異なるのかというと、「自己同一性の確保」というのは、「可能性の削除」だということ。

一般的な「自分探し」が「(本当の自分なら)これもできるはず、あれもできるはず」と、ありもしない虚像を追う姿であれば、本来的な「自分探し」とは、「これは自分には出来ない、あれは自分には出来ない」と見限っていく姿になる。
そのなかで、「これだったら自分は出来るんだ」という確固たる自信、自己のオリジナリティ(アイデンティティ)が、研ぎ澄まされていくことになる。

そして、「可能性の削除」というのは、自分でいろいろと挑戦していく中で、サンクション(賞罰)にさらされることで「行われる」ものであり(「行う」ものではないーーというのは、評価するのは他者だから)、社会の荒波・競争の中でもまれる(価値にさらされる)ことで、強制的に「行われる」ものになっている。
それが最初に「自分探し」は「やられる」必要がある、と受動態で書いた意味。

これは、映画『耳をすませば』がすごい参考になる。
(というか、この映画のテーマが、まさに本来的な意味での「自分探し」)

主人公の女の子が、骨董屋の主人(?)から宝石の原石をもらうのだけれど、そのとき、一見きれいそうに見える部分は実はダメなところで、そういった「偽物」を削って、削って、そして本当に価値のあるものに変えていく、磨いていく、ということを言っていたと思う。
この原石こそがまさに才能の例えで、そしてその中から偽物をなくしていき、本当の才能というものを見つけ出し、そして磨き上げていくというのが大切だ、ということを示している。

これに関連して、昔友達と「限界」について話したことがあったのを思い出した。

友達曰く、「人間の能力というのは壁に囲まれた空間のようなもので、『限界』という壁を押し広げていくことで、人はより自由になれる」と。

けど、自分がこれに対して思ったのは、その「限界」は「一時的な限界」だよな、ということ。
そして、そういった「『一時的な限界』の限界」を考えると、上のモデルだとそういった限界は存在しないことになる。

そこで、自分は「人の能力は、石の塊みたいなもので、人はこれを削り、磨いていくことで、よりいろんなことが出来るようになる」と考えた。
ようは、道具をより洗練させていく、という感じ。
このモデルだと、確かに「一時的な限界」は存在していて、石をさらに削り、磨き上げ、鋭利にすることでどんどん能力は高くなるんだけど、鋭利にすることにも限界が訪れる、すなわち、「『一時的な限界』の限界」=「究極的な限界」も存在することになる。

そして、さっきの才能の話は、この限界のモデルにすごく似ていることが分かると思う。
すなわち、才能というものも元は「石の塊」で、どんどん余計なものを削り、磨き上げることで、より鋭利にしていくものなのかな、と。
そして、「究極的な限界」というものがやはり存在するんだろうな、と。

「自分探し」ということに関して、SMAPの『世界に一つだけの花』という歌がある。

ナンバーワンにならなくってもいい。
もともと特別なオンリーワン。

という歌詞で、これは競争を嫌った負け犬の歌だ、とけっこう議論になったと思う。
そして、そういう意味でとる人も少なくない。
「ナンバーワンにならなくったっていいんでしょ。だって、僕はもともと特別なオンリーワンなんだからね」みたいな。

けど、あえて問うなら、「本当に自分がオンリーワンだと言い切る自信があるのかな?」と。

例えば、今死んでしまったとして、世界は何か変わるのか?
「平凡な」「どこにでもいるような」「生きていようが死んでいようがかまわない」ただ一人の間が死んだだけ、と片付けられてしまうだけなんじゃないか?
そうならない、自分が特別なオンリーワンな存在だと、胸を張って言えるだけの自信があるのか?

――正直、自分にはその自信がない。
本当にオンリーワンになるには――その人が、まさにその人でなければならない、となるには――本来の意味での「自分探し」が絶対的に行われなければいけないし、それは競争を意味するのに他ならない。
つまり、負け犬推奨の歌なんかじゃ全然ない。

「どの花もみんなキレイだ」と謳っていて、もちろん、咲いている花に優劣をつけることは難しいし、そこでナンバーワンを決める、あるいはナンバーワンになろうとすることには、あまり意味がない。
けど、これはあくまで「咲いてるから」キレイなのであって、少ししか咲かなかったもの、咲く前に枯れてしまったもの、芽すら出てないものなどを比較すれば、咲いているものはもちろん「オンリーワン」だけど、そうでないものは・・・

その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

オンリーワンになるための努力をしなくていいとはどこにも謳っていないことに気をつけないと。


改めて読むと、最後の方の内容はかなり過激だな・・・(^^;
関係性の哲学のダークサイドが滲み出てるw

今でも「自分探し」に関する考え方は変わってないけど、自分自身がオンリーワンかどうかという部分に関しては、ちょっと違う感じ。

当時は補足にも書いたとおり「関係性」によって「自分が何者であるか」が定まると考えていたので、その関係性の中で自分自身の存在理由(レーゾンデートル)を作り上げていけないとダメだよね、という感じで、こういう強い書き方になってる。
けど、これは「この自分」の存在に気付けていない、関係性の哲学の病理ともいえる部分で。

確かに、世の中に人はたくさんいて、それぞれの人が「自分」を「自分」だと思っているわけだけど、今、こうして生きていて、楽しいとか辛いとか感じている「自分」は、そのどの「自分」でもなくて、「この自分」でしかない、というのが、重要なポイント。
もうそれだけで、「この自分」というのは特別な存在だったりする。
だから、自分の価値観は自分で決めればいいんじゃないかな、と。

今日はここまで!