いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『存在』を生むもの。

昨日は『ちょびっツのツの字』に投稿した文章を紹介した。

この文章には「関係性」の哲学がよく表れているんだけど、いろいろ足りていない部分がある。
その足りていない部分に関する、当時の自分の問題意識を書いた散文を紹介してみる。
書いたのは2003年の8月とか。


lain』を見たわけだけど、やはり日本のアニメ・マンガ業界(?)では一般とされる(CLAMPも例外ではない)存在論(といっていいのかどうかは微妙だけど)が用いられてた。

具体的な話は「大切な『ココロ』。」の話になるんだけど、つまりは意識体が対象物を意識体自身の中に投射することによって対象物は存在すると認識されるというもの。
そして意識体自身も意識体自身の中に意識体自身を投射することによって自己を把握する、というもの(ただし、把握しきれるということにはならない)。

ただ、この『lain』という作品を見ていて思ったことは、じゃあ意識体自身の存在を生むものはなんなのか、ということ。
上に述べた存在論というのは『我思う、ゆえに我あり』の拡張版、もしくは修正版ということが出来るわけだけど(というのも、カント的な不可知論が含まれていて、すくなくとも大陸合理論ではもはやないから)、この『我』という初期条件とでも言えるものを与えるものはなんなのか、ということ。

この理論は一見再帰的だけど、初期条件が与えられないのでは再帰的な定義とは言えなく、ただのトートロジー、もしくは無限の言及があるのみになってしまう。

この理論自体はとても強力で、色々な応用も利き、また現実にとても合ってと言えるので、捨てがたいのだけど、この理論をしっかりしたものにするにはこの初期条件というものをもっと考える、もしくはどこかの条件を弱くしたり、なにかを分離して考えることを止めたりするなどの改良が必要だなぁ、と思った。

・・・と色々言ってみたけど、ついてこれる人、いるのかなぁ?(不安)


この問題は、『哲学散歩道III 「身体性」へ還る』の最初の章「『はじまり』の問題へ」にまとめてある。

 しかし、素朴な疑問が浮かびませんか?
「なら、その『関係性』を立ち現れさせているものは、何なのだろう?」
 一つ考えられるのは、「心」や「意識」が世界を認識することで「関係性」が立ち現れるということでしょう。「心」や「意識」がまず最初にあって、そこから認識を通して「関係性」が生まれてくる、という考え方です。
 しかし、その考えには疑問が残ります。はたして、認識を行っていないときに「心」や「意識」といったものは存在しているのでしょうか? 認識を行っていないときというのは眠っていて夢すら見ていないときですが(夢を見ているときは、意識は「夢」を認識しています。その夢を覚えていられるかは別ですが)、それはつまり意識を失っている状態です。そう、「心」や「意識」といったものは常に確固としてあるものではなく、失っている状態がある不確かなものなのです。むしろ、「認識する」という行為自体が「関係性」を立ち現れさせるのと同時に「心」や「意識」を存在させているようにすら見えます。
(中略)
 さて、そうなると「関係性」を立ち現れさせているのは「認識する」という行為なのでしょうか? しかし、依然として疑問が残ります。
「それでは、『認識する』という行為を生んでいるものは何なのだろう?」
 素朴に考えるなら、それは物理的な反応でしょう。物理的な反応の結果として脳が働き、そして認識するという行為が生まれ、その連続が意識となり、また同時に関係性が立ち現れる、と。
 けど、ちょっと待ってください。そもそも「正しさ」を支えるものとして「関係性」を挙げた理由を思い出してください。それは「自分が知ることが出来るのは自分と世界との間にある『関係性』だけであり、『本当の正しさ』なんてものは知りようがないから」でした。なら、そこに物理反応という客観的な世界の話を持ってきてしまっていいのでしょうか? モノからコトへの転換——物そのものではなく、関係性を重視するという思考の転換——を行っていたにも関わらず、これではいつの間にか元に戻ってしまっています。知覚の外側の存在が本当に存在するのかどうかは分からなかったはずです。そういった存在を「関係性」を生み出すものとして認めてしまってもいいのでしょうか?
(『哲学散歩道III 「身体性」へ還る』より引用)

つまり、関係性だけではーー現象学的な「現象」、または、構造主義的な「構造」だけではーーこの「『はじまり』の問題」への回答は得られない、ということ。
これが当時の自分の問題意識だった。
そして、このあたりが「関係性」の哲学の限界で、それを突き破るために「身体性」の哲学は生まれてきている。

今日はここまで!