いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『人工知能のための哲学塾・未来社会編 第参夜「人工知能は文化を形成するか?」』に参加してきた。

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このブログでも何度か紹介している、『人工知能のための哲学塾』。

その第三弾ということで、未来社会編が現在進行形で開催されている。

その第参夜が1/29(火)に開かれて、自分も参加してきたのだけど、ちょっと考えたことがあったので、それについて書いてみたい。

未来社会編について

まずは、未来社会編って何なのか、ということについて、ちょっと説明。

西洋哲学編、東洋哲学編では、「個」としての人工知能について考えてきた。
しかし、よくよく考えると、一つ(一人?)の人工知能がある日突然「あ、これが『自分』なんだ」と自我を発見することなんてあるのか、という疑問が浮かぶ。
むしろ、多数の人工知能(あるいは人間)との関わり合いの中から「あ、これが『自分』で、あれは『他人』なんだ」と「自我」と「他者」を発見するんじゃないかな、と。
そんな問題意識に基づいて、人工知能と社会(これは人工知能自身の社会を含む)との関わり合い、関係性の観点から、考えを進めていこうとしているのが、未来社会編の内容となっている。

自分としては、CLAMPの『ちょびっツ』から人工知能について考え始めたところがあるので、こういった「関係性」から人工知能について考えていくというのは、ちょっと不思議な感じもしたりする。
というのも、その「関係性」による議論に限界を感じて、「身体性」による議論に移っていった経緯があるから。

ちなみに、『ちょびっツ』は人工知能を考える上でも名作だと思うので、マジおすすめ。

自分の書いた記事だと、以下の記事で「関係性」による「ココロ」について言及してる:

そして自分自身の『心』は自分自身がその『心』を感じることで、また他人によって『心』を見て取られることで初めて『心』が生まれる。

この辺りは、三宅先生のスライドにも出てくる「主我」と「客我」によって「自我」が成り立つ、という話そのもの。

他にも、人工知能とは人間にとってただの「道具」なのか、それとも「パートナー」と呼べる存在なのか、や、人と人工知能との恋愛は可能なのか、人工知能は幸せになれるのか、といった、未来社会編と非常に関連の深い話が展開されている。

第参夜「人工知能は文化を形成するか?」

閑話休題

第参夜は、人工知能と文化についてがテーマで、まず三宅先生の講演、大山先生の講演があり、そのあとグループディスカッションが行われた。

ニコ生は以下:

また、講演資料は以下で公開されている:

三宅先生の講演をざっくりと要約すると、以下のような感じ:

文化とは「世代を超えて引き継がれる知識や価値」であると、ここでは定義する。
この「継承される」というのが重要な要素。
例えば、ビーバーの作るダムや蟻の作る蟻塚は、立派な構造物となっているけど、これらはその様式が世代を超えてより立派になっていくということはない。
一方、文化は世代を重ねることで、継承され積み上がり、より立派になっていく。

文化は、以下のように形成されていく:
まず、個人が環境から経験を得て、それが何度も繰り返されることで、経験は観念となり、そしてその観念が社会に共有され、世代を超えていくことで、文化になる。
そうすると、今度は文化が各個人の観念に影響を与え、各個人の行動を変えていく。
そして、その行動から次の文化が積み上げられ、このフィードバックループによって文化はより発展していく。

こういった様子をアルゴリズムに応用したものとして、文化アルゴリズムとがある。
これは、進化アルゴリズムを文化レベルで行うようなもので、ある世代で獲得した知識を文化として吸い上げ、次の世代へ継承する、というもの。

この「継承」に注目した議論は、確かに面白い。
文化アルゴリズムという具体的な話も出てくるし。

けど、聞いてて違和感を覚えたのも事実。
というのも、継承されないものは文化じゃない、というのは、ホントだろうか、と思ったから。

継承されない文化は存在しないのか

例えば、学校のクラスについて考えてみる。

クラスって、1年も経つと、そのクラス独自の文化というものが生まれてきたりする。
何々がよく遊ばれてるとか、何々についてよく話されている、といった流行とは違って、こういうときはこうするもんだ、といった、考え方や行動様式というものに特徴が出てきたりする。
それは、各クラスでのキャラクター、ロールの確立によるものだったり、あるいは、クラス替えによって起こるローカルルールの違いの擦り合わせによるものだったり。
あるいは、先生の指導の影響によるものだったり。

そんなの、文化と呼ぶには弱いんじゃない?という声もありそうだけど、自分はそうとは思わない。

例えば、自分の場合、小学校から中学校に上がったときに、すごい衝撃を受けたことがある。

自分は地元の中学校に進んだのだけど、その中学校には、自分のいた小学校の他に、もう一つ別の小学校から上がってくる生徒もいた。
で、そのもう一つの小学校から上がってきた生徒たちの考え方、行動が、自分たちとはあまりに違いすぎて、ビックリした。
自分のいた小学校は、良くも悪くも牧歌的で、先生の言ったことは守るものだし、ルールはちゃんと守るものだ、という感じが強かった。
もちろん、ガラの悪いのも2, 3人はいたけど、少数派で、そういったキャラも、別にみんなとは仲良く遊んでいる感じ。
が、もう一つの小学校の生徒は、もうちょい都会的というか、スレている感じで、先生に表立って反抗はしないけど、従順に話を聞いたりはしなくて、やらなきゃいけないことも怠けられるなら怠けたい、という感じだった。
そんな生徒がいて、それも2, 3人がそうというわけではなく、全体的にそういう雰囲気があるというのは、まさにカルチャーショックと呼ぶにふさわしいものだった。
学校が違うと、ここまで違うものなのか、と。

あるいは、『ピタゴラスイッチ』で有名な佐藤雅彦さん(と竹中平蔵さん)の著書で、『経済ってそういうことだったのか会議』というのがあるのだけど、その中で書かれている「牛乳瓶のフタ」の話は、流行という言葉で終わるようなものではなく、文化と呼ぶレベルのものになっていると思う:

佐藤
小学校のとき、給食で牛乳が配られますよね。 その牛乳瓶のフタを僕があるときから集め出して、みんなのももらって机に入れてたんですね。 そのうちにそれが僕のまわりでも流行り始めた。 そうするとフタの価値がどんどん上がっていくわけです。
そうすると、フタの交換だけにおさまらず、かっこいい消しゴムをフタ10枚と交換するとか、そうじ当番を20枚で交代するなんてことがクラスに起こってきたり、僕自身、机の中の特に大切なフタを、帰るときにカバンに入れて持ち帰ったりしてました。冷静に考えれば、たかがフタごときに、ですよ。
(『経済ってそういうことだったのか会議』より引用(一部省略))

クラスの中で「牛乳瓶のフタ」に関する共通の認識が形成され、貨幣として流通しだした、というこの話は、非常に興味深い。
しかも、これはクラスの中でだけ通じるものであるから、そのクラス固有の文化となっている。

さて、じゃあ、そんなクラスの文化は、「継承されるのか」。

これを考えてみると、重要なことに気づくかもしれない。
継承されていると判断するための比較対象は、「どのクラス」になるのか。

例えば、3年1組というクラスがあったとする。
1年経つと、各学年は進級するわけだけど、クラス替えはないものとして、旧3年1組は新4年1組になり、旧2年1組が新3年1組となる。
はて、「旧3年1組」のクラスの文化が継承されたかどうか検討するには、「新4年1組」を見ればいいのか、それとも、「新3年1組」を見ればいいのか。

「文化は『世代』を超えて継承されるもの」とするなら、比較すべきは、旧世代の「旧3年1組」と、新世代の「新3年1組」だ。
けど、当然そこに「継承」なんて起こりえない。
だって、「旧3年1組」と「新3年1組」には、何の接点もないのだから。
「新3年1組」は「旧3年1組」とは全く異なる文化を形成することになる。

一方、「旧3年1組」と「新4年1組」を比較するならば、その文化には明らかな連続性が観測できる。
だって、それぞれの集団を構成する人員は、同じなのだから。

ただ、それだと集団の「名前」が変わっただけで、集団の中身は何も変わっていないのだから、継承も何もないとも言える。

なら、クラス替えをした場合はどうだろう。

3年から4年への進級の時にはクラス替えが発生し、「新4年1組」は「旧3年1組」の半数と「旧3年2組」の半数で構成されるとする。
この場合に、「旧3年1組」(もしくは「旧3年2組」)の文化は、「新4年1組」へ継承されるだろうか。

これは、継承されるだろう。
ただそれは、継承というよりかは、遺伝子の交配に近いものとなる。
旧3年1組と旧3年2組それぞれに文化があり、それらが混じり合う形で、ある文化はそのまま継承され、もしくは廃れてしまい、そしてある文化は姿を微妙に変えて生き残り、あるいは全く新しい文化が生まれたりもするだろう。

ただ、「世代を超えて」引き継がれるのが文化なのだとしたら、この「継承」は「世代を超えて」行われたものなのだろうか・・・?

それについて考えていると、「そもそも『世代』ってなんなんだ?」となってくる。

上の様子は、「旧3年1組」という集団と「旧3年2組」という集団が親になって、「新4年1組」という集団が子として生まれてきている、と見ることが出来る。
そう見るならば、「旧3年1組」と「旧3年2組」が旧世代の集団、「新4年1組」が新世代の集団となり、確かに「世代を超えて」文化は継承されていると言えるだろう。
けど、そのような集団の交差を、集団の世代が変わったと普通言うだろうか・・・?

こうやって考えていると、何かモヤモヤするのが分かるだろう。

ただ、そうやって考えている中で、気がついた。
もっとシンプルに考えればいいのではないか、と。

世代とかについて考えるのをやめて、もっとシンプルに「文化は集団に生まれるものである」と考えてみる。
そうすると、スッキリする。

多くの長く存在する集団というのは、その人員が常に一定ということはなく、古い人は抜けていき、一方で新しい人も入ってきて、世代が移り変わっていく。
つまり、世代を超えて存在することになる。
すると、そういった集団に生まれた文化は、世代を超えて継承されていくことになる。

他方、クラスという集団では、そういった人員の交代は起こらない。
なので、その集団に「世代」という概念は存在しないし、「世代」という概念が存在しないのだから、当然、文化が世代を超えて継承されるということもない。
しかし一方で、学年が上がったり、クラス替えがあったりするという特徴を持つ。
なので、文化は学年を超えて継承されたり、クラス替えによって混じり合ったりすることになる。

つまり、逆なのだ。
「世代を超えて引き継がれるから、文化である」のではなく、「集団が世代を超えて存在するから、その集団の文化も世代を超えて引き継がれる」のだ。
「世代を超える」というのは、「文化の特徴」ではなく、「集団の特徴」というわけだ。
なので、世代を超えるという特徴を持たない集団であれば、当然そこに生まれる文化は、世代を超えるという特徴を持たないことになる。

文化とは何なのか

であれば、文化とは一体何なのか、となってくる。
というのも、「集団が出来たところに生まれるもの」というだけでは、何でもかんでも文化になってしまうから。

つまり、話の流れとしては、次の形になっているのが理想だ:

  1. 文化とはXXXである
  2. なので、文化は集団に生まれてくる
  3. それゆえ、文化には集団の特徴が表れる
  4. これにより、
    1. 世代を超えて存在する集団では、文化は世代を超えて引き継がれるし、
    2. 集団が混じり合えば、各集団の文化も混じり合う

この「XXX」が何であるのかを、明らかにしたい。

文化の伝わり方

ところで、先程のクラス替えの話をもう少しじっくり観察してみる。

「旧3年1組」と「旧3年2組」から「新4年1組」が生まれ、遺伝子が交配されるかのように文化が混じり合い、新しい文化が生まれたわけだけど、では、そこで文化を伝えたのはーー文化の「遺伝子」として働いたのはーー何なのか、を考えてみる。
これは一見、「旧3年1組」「旧3年2組」それぞれに属していた、生徒たちであるように見える。

ただ、これはもうちょっと注意して見る必要があって、これをもって生徒たち自身が文化の遺伝子であるとするのは早計で、というのは、生徒たちは文化を運んではいるけど、同時に、文化を運ばれてもいるから。
何を言っているのかというと、「旧3年1組」の生徒であれば、たしかに彼らは「旧3年1組」の文化を運んではいるのだけど、同時に、「旧3年2組」の文化を運び込まれてもいる、ということ。
生徒たち自身が文化の遺伝子だと考えてしまうと、これはちょっとスッキリしない。

これに関しては、生徒たちによって遺伝子が交配されたと見るよりか、生徒たちがウィルスに感染しあったと見る方が、実はスッキリする。

つまり、「旧3年1組」の生徒たちは、「旧3年1組」の文化を形成する、いくつかのウィルスに感染していた、と考えてみる。
ウィルスは、感染した本人に影響を与えるのは当然、周りにも伝染し、周りにも影響を及ぼすことになる。
なので、クラス替えが発生すると、「旧3年1組」の生徒たちは、「旧3年1組」の文化を形成するいくつかのウィルスを、「新4年1組」に運んでくることになる。
と同時に、「旧3年2組」の生徒たちから運び込まれた、「旧3年2組」の文化を形成していたいくつかのウィルスに感染することになる。
その中で、ウィルス間での(つまり文化間での)生存競争で、あるウィルスは生き残り、あるいは廃れ、変異し、場合によっては全く新しいウィルスが生まれたりもして、「新4年1組」の生徒たちが感染している、「新4年1組」の文化を形成する一連のウィルスというものが定まってくることになる。
それによって、「新4年1組」の新しい文化は生まれてくることになる。

この「文化はウィルスのように感染するものである」という見方は、いろいろしっくりくるものがある。

例えば、世代を超えて引き継がれる文化を考えてみると、集団に新しく加わった人たちは、その集団の持つ文化に感染することになる。
そして、今度はその人たちが感染源として、さらに新しく加わった人たちにその文化を感染させる。
そのようにして、文化は世代を超えて感染ーーすなわち、引き継がれていくことになる。

また、すでに上の例で見たように、複数の集団が混じり合ったときの文化の混じり合いも、これで説明がつく。

よくよく考えると、人は複数の集団に属している。
それは、家族であったり、学校や会社であったり、あるいは、趣味のサークルや地域のグループ、さらには、国だったり。
そして、文化がウィルスのように感染するという性質を持つならば、感染者は同時に感染源になり、属する複数の集団に影響を与え、また同時に、影響を受けることになる。
これにより、文化は感染者を介して複数の集団に伝播していくことになるし、また、感染者を介して集団内の複数の世代に伝播していくことになる。

文化の感染

ただ、この「文化はウィルスのように感染するものである」というのは、まだ文化のもつ性質であって、文化とは何なのかという問いの回答にはなっていない。
その問いについて考えるには、「文化に感染する」と、一体どのような変化が起こるのか、について考えてみるといい。

まずは、「文化」ではなく、普通のウィルスーー例えば、インフルエンザウィルスーーに感染するときの様子を見ておく。

インフルエンザウィルスに感染した人は、インフルエンザを発症する。
ここで重要なのは、「インフルエンザウィルス」というウィルスと「インフルエンザ」という症状は、それぞれ別物ということだ。
「インフルエンザウィルス」というウィルスは、「インフルエンザ」という症状を伝播させる「外的な存在」であるのに対し、「インフルエンザ」という症状は、発熱や咳などといった、個人の身体に現れる「内的な変化」となっている。
そして、インフルエンザを発症した人は、今度は自身がインフルエンザウィルスを周りに撒き散らし、新たな感染源になっていく。

次に、「文化」に感染すると何が起こるのかを考えてみると、それは個人の持つコンテキストが変わるという「内的な変化」が起こっていることに気づく。
ここでいう「コンテキスト」というのは、何に価値を見出すのかという価値観だったり、普通はこうするものだという常識だったり、言葉や仕草の意味をどう受け取るのかという解釈だったりを指す。

もう少し詳しくいうと、言語学の用語で「シニフィアン」と「シニフィエ」というものがある。
シニフィアン」というのは「記号表現」とも訳され、外的に表現されたシンボルのことであり、「シニフィエ」というのは「記号内容」とも訳され、内的に想起される意味のことである。
wikipediaの例を借りると、「『海』という文字や『うみ』という音声」が「シニフィアン」であり、「海のイメージや海という概念ないしは意味内容」が「シニフィエ」。
そして、「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係には恣意性があることが知られていて(例えば、日本語だと「お湯」と「水」は区別されているけど、英語だとどちらも「water」と表記される)、その結びつきをここでは「コンテキスト」と呼んでいる。

例えば、日本人であれば、「1,000円紙幣」というシニフィアンを見れば「これは1,000円分の価値を購入できる紙だ」というシニフィエが想起されるわけだけど、それは「1,000円紙幣」というシニフィアンと「1,000円の価値を持つ紙」というシニフィアを結びつけるコンテキストが存在するからで、もしそのコンテキストがなければーー紙幣の文化に感染していなければーー「1,000円紙幣」というシニフィアンも「ただの紙」というシニフィアにしか結びつかない。

さて、実際に文化に感染する様子を眺めてみる。

例えば、外国人が日本にやってきて、ぺこりと頭を下げられたとする。
この「おじぎ」は日本の文化なわけだけど、その外国人はそれの意味するところを知らないーーすなわち、「おじぎ」のコンテキストを持っていないので、「おじぎ」という仕草のシニフィアンと、「挨拶である」というシニフィエが結びつかず、「?」となる。
そこで、その仕草は何なんだ?と質問して、「おじぎ」が日本の文化であり、挨拶であることを知るだろう。
これにより、「おじぎ」の文化に感染して、「おじぎ」の仕草と「挨拶」を結びつけるコンテキストが外国人の内面に形成されることになる。
つまり、「おじぎ」という外的な仕草によって、内面のコンテキストが変化させられることになる。
そして、内面のコンテキストが変化させられた外国人は、日本人に挨拶をするときにおじぎをするようになるだろう。

ところで、そんなふうにおじぎをするようになった外国人が、あるときいつもと同じようにおじぎをしたところ、その相手が実は外国人で、その外国人もまたおじぎを知らなかったとしたら、どうなるだろう?
きっと、おじぎを知らなかった外国人は、おじぎをした外国人に「それは何なんだ?」と尋ね、そして、おじぎをした外国人は、おじぎを知らなかった外国人におじぎの意味を教えるだろう。
つまり、おじぎの文化に感染した外国人は、今度は感染源となって、新たにおじぎの文化を感染させることになる。

この様子を、先程のインフルエンザの感染の様子と比較してみる。

まず、「インフルエンザウィルス」という、インフルエンザを感染させる「外的な存在」に相当するものは、「おじぎ」という仕草、つまり「外的シンボル」(シニフィアン)となっている。
そして、「インフルエンザ」という症状に相当するものは、「おじぎ」というシニフィアンと「挨拶である」というシニフィエを結びつけるコンテキストの形成、つまり「内的な変化」となっている。
さらに、インフルエンザに感染した人がインフルエンザウィルスを撒き散らして新たな感染源となるように、おじぎの文化に感染してコンテキストが形成された人は、今度は感染者自身が「おじぎ」をし始めて、新たな感染源となっている。

ミーム、コンテキスト、文化

ここまで分析してくれば、もうだいぶ見通しがよくなっていることに気づくと思う。

まず、文化を眺めるときには、2つの側面があることに気づく。
それは、外的な側面と、内的な側面である。
外的な側面とは「外的シンボル(シニフィアン)」であり、これが文化を伝播(感染)させることになる。
そして、内的な側面とは「外的シンボル」と「意味(シニフィエ)」を結びつける「コンテキスト」であり、「外的シンボル」に触れて文化が伝播(感染)させられると、「コンテキスト」に変化が生じることになる。

大山先生の講演で、文化の定義に関して、外的なものなのか、内的なものなのか、というものがあったけど、こうして整理してみれば、スッキリする。
つまり、文化を伝播させる外的シンボルに注目すれば、それは外的なものと捉えられるし、伝播させられた結果として各個人の内面に形成されるコンテキストに注目すれば、それは内的なものとして捉えられる

また、同じく大山先生の講演で、文化を伝播させる遺伝子のようなもの、ということで、「遺伝子(gene)」をもじって「ミーム(meme)」というものをドーキンスは考え出した、という話があり、このミームを巡っては、具体的に何を指しているのかが曖昧なこともあって、賛成派と反対派がいる、という話もあったけど、これもここまで整理してしまえば、スッキリする。
見ての通り、ミーム」と呼ぶに相応しいのは、「外的シンボル」それである
ただし、それは、これまでの議論で見てきて分かる通り、文化を集団内の世代間で継承するだけのものではないことに注意しないといけない。
ミーム」は「遺伝子」というよりかは「ウィルス」であり、集団間での文化の伝播においても、仕事をする。

(思い出したように書いておくと、クラス替えの例で文化を伝播させたのは「ミーム(外的シンボル)」で、それぞれのクラスの「ミーム」に感染した生徒たちがそれぞれの「ミーム」をアウトプットし、お互いに感染し合うことで、それぞれの内的コンテキストが変化して、新しい文化が生まれたことになる)

そして、「文化」とは「集団内で共有されるコンテキスト」に他ならない

お互いに「ミーム」を交換し合う中で、「集団内で共有されるコンテキスト」が形成されることになる。
これが「文化」である。
そして、「文化」が形成されると、その集団ではそのコンテキストにおいて「ミーム」が使われるようになり、それが文化の外面的な様子として観測されることになる。
また、そこで使われる「ミーム」によって、コンテキストの共有の再生産が行われ、この共有されたコンテキスト、すなわち「文化」は、世代を超えて引き継がれたり、集団を超えて伝播したりすることになる。

それと、共有されるといっても、その範囲は文化によっても異なることに注意したい。
例えば、「おじぎ」の文化は日本全体で共有されているコンテキストなので日本の文化となっているけれど、「牛乳瓶のフタが通貨として流通しだした」という話は、そのクラスでしか共有されていないコンテキストなので、そのクラス特有の文化になっている。
逆に言えば、コンテキストが共有されている範囲が、その文化がどの集団の文化なのかを定めるとも言える。

なぜ文化が生まれるのか

では、なぜそのように「文化」が生まれるのか。

それについては、まず、なぜ「ミーム」がコンテキストを変化させるのか、を説明しておきたい。

これは簡単で、「ミーム」はそれ単体だと何の意味も持たないから。
例えば、「駆逐艦ハイエースされた」という文は、コンテキストがないと全く意味不明な文になっている。
それが、コンテキストを知っていれば、「駆逐艦が擬人化された幼女がハイエースで誘拐された」ということなのね、と理解できる。
このように、ミーム」はそれを解釈可能な「コンテキスト」があって初めて意味を持つので、ミームを理解したいという欲求が、そのミームを解釈可能なコンテキストの形成を促すことになる。

そして、そのようにコンテキストが形成され、共有されると、コミュニケーションのコストが下がるというのがポイント。

例えば、「おじぎ」が挨拶を意味する、というコンテキストが共有されていなかったとしたら、どうだろう。
まず、挨拶をしようと思っても、何をしたらいいのか分からない。
というのも、何をしたら挨拶になるのかが分からないから。
あるいは、相手が挨拶のつもりでおじぎをしているのに、こちらはその意図が汲めず、何も反応できないということが起こるかもしれない。
そうなれば、相手は「何だこいつ」と思い、ギクシャクした関係になってしまうだろう。

ところで、「おじぎ」という「動作」自体は、何か意味のある動作というわけではない。
なので、「おじぎ」という動作をしなくても、何も困ったことは起きない。
しかし、「おじぎ」の意味が共有されると、それが一種のプロトコルとして働くようになり、その「行為」には意味が出てくる。
つまり、何の意味もなかった「動作」も、コンテキストが形成され共有されることで、それは「行為」に格上げされ、意味を持つようになっている。

このように、コンテキストが形成され、共有されると、外的シンボルの情報量が一気に増えることになる。
これにより、コミュニケーションのコストが下がることになる。
なので、「文化」は生まれてくるのだ。

まとめ

まとめると、以下のようになる:

まず、文化とは「集団の中で共有されるコンテキスト」である。
このコンテキストは各個人の内面に形成される。

そして、ミームとは「文化によって解釈される、外的シンボル(シニフィアン)」である。
この「ミームのもつ意味(シニフィエ)」を解釈するには、それを解釈するためのコンテキストが必要であることから、ミームミームに触れたものにコンテキストの形成を促すことになる。
なので、ミームによって文化は集団内で共有され、あるいは、他の集団へ伝播していくことになる。

このように、文化による現象は、観測可能な外的側面は「ミーム」として、そして、観測不可能な内的側面は「各個人の持つコンテキスト」として、表れてくることになる。

集団が出来ると、その中で「各個人のもつコンテキスト(の一部)」が「ミーム」を介して集団内で共有され、その集団の中で通じる「集団の中で共有されたコンテキスト」が生まれることになる。
これがその集団の「文化」になる。

このように、文化は集団の中に生まれてくるものなので、集団の性質が文化にも表れてくることになる。

例えば、集団が世代を超えて存在するような場合、その集団の文化はミームを介して次の世代へと伝わっていき、世代を超えて引き継がれていくことになる。
あるいは、複数の集団が混じり合えば、お互いのミームを交換し合うことで、各集団の文化が混じり合った新しい文化が生まれてくることになる。

なぜこのように文化が生まれてくるのかというと、コンテキストが共有されることで、コミュニケーションのコストを抑えることが出来るから。
例えば、「おじぎをする」という仕草のミームに対して、「それは挨拶である」というコンテキストが共有されていれば、その仕草をするだけで相手に「自分は挨拶をしていますよ」と伝えることが出来る。
あるいは、もうちょい高次で、「会ったら挨拶をするものである」という価値観のコンテキスト(これは内的)が「会ったら挨拶をするものである」という道徳のミーム(これは外的)として共有されていれば、価値観の違いによる争いを避けることが出来る。
これは、「おじぎ」という仕草が文化となっていない集団とのコミュニケーションや、「挨拶する」という道徳が文化となっていない集団とのコミュニケーションを想像してみると、分かりやすい。

そして、この考えを人工知能に適用すると、人工知能間のコミュニケーションで、そのコミュニケーションコストを低くするためにお互いのコンテキストを共有したり、あるいはルールを作り上げたりしていったりすると、それは人工知能がその集団で独自の文化を作り上げたと言ってもいいことになるだろう。
ここでの考え方なら、人工知能が死ななかったり、あるいは世代を超えていくことがなくても、文化を形成していけることになる。

実際、人工知能同士の会話で、言語が独自の変化を見せた、というニュースが、一時期話題になったことがある:

人間の文化でも、言語はより簡単になっていくもので、こういった言語の変化はよくあることである。
それと同じことを人工知能が行ったのだと考えれば、これは人工知能が独自の文化を形成したと考えることも出来るだろう。

今日はここまで!

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