いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

キーボード。

自分が昔ブログに書いた文章を見ていて、そういえばこんな記事も書いてたよなというのがあったので、こちらでも。
以下の記事の中で引用している文章は、ホントに素晴らしいと思う。
書いたのは2005年9月20日。


先日、母校の文化祭に行って手に入れた文芸誌より。

17日に母校の文化祭に行ってきた。
そして、今年も『浦高文芸』をゲット。
(今年も、といっておきながら、実は去年のは手に入れていないんだけど・・・でも、例年良作がまぎれていることが多く、これがいいんだよね)

ざっと読んだんだけど、小説はまぁまぁという感じ。
どちらかというと純文学っぽい感じが強く、ただ、魅力的と思えるものはあまり・・・
でも、例年にはない短歌や詩があったりで、なかなかだとは思った。

さてさて、タイトルの『キーボード。』
これがなにかというと、実はこの文芸誌の中で自分が一番感銘を受けた(?)のが編集後記だったんだけど、そこで扱われていたのがキーボードに関する話で、

 先日、不思議な夢を見た。パソコンのキーボードになってしまうという夢だ。僕はキーボードの視点を通して(なぜかそのキーボードには目がついていたのだ)、目の前に座っているもうひとりの僕を見上げていた。僕は、それまでに感じたことのないような恐怖を覚えた。
 視界を埋め尽くすほどの大きな手が伸びてきて、途端に目の前が真っ暗になったかと思うと、手は数十個のキーを立て続けに叩いていく。僕はそれを認識して、コンピュータに情報を送る。何のことはない日常のひとコマであるはずなのに、いざキーボードの身になってみると、とても堪えられたものではなかった。
 何が怖いって、とにかく人間の目が怖い。人間の姿をしたもうひとりの僕は、終始うつろな目で画面を見つめ、ひたすらキーボードを打ち続ける。そこにはいっさい言葉がない。それなのに、キーボードである僕が情報を取り次ぐと、パソコンには言葉が宿る。言葉と言葉が連なって、やがてひとつながりの小説となる。機械となった僕には、それがこのうえなく不思議なことのように思えて仕方がなかった。さらに怖いことには、あれだけ無骨な表情をしていたはずの人間が、笑ったり泣いたり、小説の中では表情豊かな人間を描き出しているのだ。それまで気づきもしなかったが、小説を書くという行為は、傍から見るとどこか不気味で、怖い。
(『浦高文芸2005』、編集後記より引用。 著者:大沼貴英)

言われてみれば確かに、という感じ。
キーボードの視点になってみれば、という発想もすごいけれど、同時にその状況下でその怖さの原因の根本を抉り出しているのが、なんとも言えない。

怖い、というから、最初は単純に、キーボードの視点に立ってみて指が迫り来るのが怖いのかなぁ、と思っていた。
でも、さらに深いところまで洞察が行われていて、キーボードから見れば、人間がただひたすらに、『無表情のままに』表情豊かな人間を描き出しているというその部分が怖さの原因だ、と。
これには自分も「なるほどなぁ」とひどく感銘を受けた。


今日はここまで!