いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

言語の限界について考えてみた。(その5)

前回の続き。

今回が最後で、書いたのは2007年の12月30日。


言語に対するモデル

「犬をください」これは授業で扱ったプリントに載っていた四コマの出だしである。
この後、店員はどんな種類の犬を欲しがっているのかを尋ねるのだが、客の主張はどんな種類の犬でもなく「犬」が欲しいというのだ。
これに対して店員はほとほと困ってしまうというのが四コマのオチである。

この四コマは重要な示唆を含んでいる。
すなわち、「犬」というと「これが犬だ」という具体的な何かがありそうなものであるが、「犬」なるものが実際に存在するわけではない、ということだ。

実際に存在するのは、「そのもの自体」でしかない。
それを人は「犬」や「猫」などに分類していっていると考えられる。
つまり、「言葉」というのは世の中に分類を与えるものに他ならない。

しかし、気をつけなければならないことが一つある。
このような書き方をしてくると、分類というのは静的でハッキリと与えられているもののように思われるかもしれないが、実際には動的で曖昧なものであり、またこの分類は逐次的に行われることでしか見えてこないということだ。
このことは、「犬を描いてください」と言われたときに大体のイメージでしか描くことが出来ないことや、犬と猫が具体的にいればどっちが犬でどっちが猫であるのかを指摘することは出来ても、その分類の決め手が何なのかをハッキリと述べることが難しいことからも見て取れる。

ここまでのことを一度まとめておこう。

「言葉」というものは世の中に対してーー「色」に関する考察を踏まえれば、私が見たり、聞いたり、経験した感覚に対してもーー分類を与えるものである。
その分類は、しっかりと定まったものが存在するわけではなく、具体的なものが与えられたときに行われ、またそうすることでしか表面的に現れないものである。

これは、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』において行っていた「投影法」に関する議論が不十分であることを指摘もしている。

ここで、「立方体」という語を聞くと、ある像が浮かぶとしよう。
それはたとえば立方体のスケッチだとしよう。
どのようにして、この像は、「立方体」という語の使用と適合したり、適合しなかったりできるのだろうか。
ーーきみはこう言うだろう。
「それは簡単だ。ーーそうした像が私に浮かんでいるとき、私がたとえば三角プリズムを指して、これは立方体だというならば、「立方体」という語のこの使用は像と適合しない。」
だが、適合しないというのは本当だろうか?
私がこの例をわざわざ選んだのは、こうした像が適合するような投影方法を想像することがきわめて簡単だからである。
立方体の像は、ある使用をわれわれに示唆していた。
しかし、私はその像を別の仕方でも使用できたのである。

ウィトゲンシュタインは、像の投影方法というものが無数にあることから、ある代表的な投影方法に対してだけ適さないからといって、本当にその語を適用出来ないとしてしまっていいのか、としている。
しかし、これは言葉による分類が静的に存在しているとしてしまっていることがそもそもの間違いである。
それが立方体であるのかどうかというのは、ある固定された像との比較によって行われるのではなく、他の分類との兼ね合いから動的に決定されるものである。

では、この動的な分類はどう行われるのか、というのが問題になるかもしれない。
しかしそれは、「色」についての考察を考えてみれば分かるとおり、「こう感じられる」というその感覚と、人間のパターン認識能力によるとしか答えようがない。
けれどもこれは多くの人が納得のいく感覚であろう。
(これは犬だ、と思うときに、これこれこういった理由だから、と理由を挙げることが出来るだろうか?)

文法についても、同様のことがいえる。
飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』では、ふさわしいイメージを持つことがその言葉を理解するための必要条件ではないことを示すために、「てにをは」の例を出しているが、「てにをは」にしても、それを使うことが妥当なのかということは動的にしか判断されないということを考えるべきである。
例えば、「が」を使うべきか、「は」を使うべきかは、実際に言おうとしたときのその自分の伝えたいイメージに近い方が用いられているはずである。
(もちろん、そうしたことは無意識のうちに行われているだろうが。)

長く横道に反れてしまったが、言語に対するモデルの話に戻そう。

先ほど、「犬を描いてください」と言われたとき、大体ではあってもイメージを描けるという事実に注目してみよう。
このことから、実際にはある言葉に対してある程度のイメージを常に持っていることが考えられる。
実際に言語を使って考えていくときには、(意識されることはないだろうが)このイメージが用いられていると考えられる。

気をつけなければならないのは、このイメージというのも動的に変化しうるということだ。
自分が今考えていく中で一番適したイメージというものが実際には使われていく。
ウィトゲンシュタインが心配したようなことは、起こらないのである。

まとめよう。

「言葉」というものは世の中に対して分類を与えるものである。
その分類は、しっかりと定まったものが存在するわけではなく、具体的なものが与えられたときに行われ、またそうすることでしか表面的に現れないものである。
言語を使うときには、動的にそれにあったイメージというものが喚起される。
ただし、それらは普段無意識に行われ、何も意識せずに行われたように表面上は見える。

最後の部分を考えると、ウィトゲンシュタインの言っていたこともあながち間違いではないことが分かる。
わざわざ意識しないで言語が用いられたときには、そこで起こっていることはウィトゲンシュタインの言っている通りだろう。
しかし、それは言語の様子の一部であり、全体を説明することは出来ない。
なので、それでは不十分なのだ。

さて、先ほど先送りした、言語に対して考察を加えるというとき、その対象となっているものというのは具体的にはなんなのかという問題に戻ろう。
この答えは、「言語」というものに対して動的に与えられたイメージに他ならない。
実際、その場その場で「こういう状態なら」という適切な言語の例が挙げられてきているところに注意してもらえれば、これは納得してもらえると思う。

言語の限界

ここまで準備することで、やっと「色」について行った考察で得られた“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” ということがどういった類の限界を意味するのかについて議論することが出来る。

だがその前に、もう一つだけ重要なことを示しておきたい。
それは、言語で指し示せないものはないという事実だ。

これは、簡単な論理で示すことが出来る。
もし、言語で指し示せないものがあったとしよう。
しかし今、そのものを「言語で指し示せないもの」と指し示せたのであるから、これは矛盾。
よって、言語で指し示せないものはない。

このことは、言語というものが本質的に分類を与えていることからも明らかである。
「世の中には2 種類のものしかない。ビールとビール以外のものだ」なんていうジョークがあったが、これは同様のことを暗に示している。

さて、では“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” とはどういった類の限界なのであろうか。
これは、自分の言語の限界であり、言語自体の限界から生じる限界ではない。
このことは、先に示したことより分かる。

そして、その分割はどうやって与えられていたのかというと、自分の世界に対する認識の限界によるものであった。

なので、ウィトゲンシュタイン

私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。

と言ったが、これはこう言われるべきではないだろうか。
私の世界の限界が、私の言語の限界に現れる、と。

* * *

ということで、言語の限界に関する考察シリーズはこれでおしまい。

最後の部分(言語のモデル云々の話)はレポート提出ギリギリになってしまったためにかなり議論がお粗末で、さらに推敲もされてないので結構支離滅裂状態だったりするけど、とりあえずそのまま載せた。
同じ内容の文を書くのに、普通なら少なくとも2~3時間はかけて推敲しつつ執筆するところを、確か1時間もかけずに書いたので、自分の中で言いたいことは出揃っているけれど、どう伝えたるのがいいのか、というところにまで気が回っていない。
今自分が読んでも、議論の流れがどうつながっているのかが不明瞭だし、根拠・具体例に欠くところがある。
表現が足りていないところもあるし。
そのうち、書き直せたらいいんだけどねぇ。
(けど、そうしたら軽く数十時間がふっとぶだろうけれど)

今回の考察では、自分が行ってきた考察のいろんなところと絡ませて議論を進めていく、という形を取っている。
それは、必要性があったというのもそうなんだけど、実はもっと大きな枠から得られる議論を、言語に関する部分だけ抜き出して再構成しているせい。
パッと見では、いろいろな言説が集まって言語に関するひとつの理論を構成しているようだけど、そうではなく、より大きな理論のアプリケーションとして、言語に関して述べているだけということ。
そして、そのより大きな理論という部分こそが『哲学における身体性の復興』だったり。
どこかで体系的に書ければいいんだけど、さすがに大仕事すぎて・・・
自分は遅筆なんで、そんなことをしていたら本業がぜんぜん進まなくなるしね。
ただ、いつかは書いてみたいと思うけど。
そして、どうせ今回の議論を書き直す必要があるのなら、その中で書いていきたいと思う。


ということで、当時書いたあとがき的なものも入れて、おしまい。

あとがき的なところで書いてる「どこかで体系的に書ければ」の成果が(体系的かはちょっと微妙だけど)『哲学散歩道』シリーズだったわけだけど、結局この中で言語論は書いてないなぁ・・・(時間論も)
なので、依然として議論は整理されてないまま(^^;

ここでの議論を軽く整理しておくと、まず言語のモデルを与え、次にその言語のモデルから「言語で指し示せるもの」の限界について考察を行なって(これは言語の限界について考えてみた。(その3) - いものやま。で整理した、この文章で言及している3つの「言語の限界」の1つ目)、最後に「言語で伝えられるものの限界」(3つの「言語の限界」の3つ目)について言及している。
もっとも、最後の言及は結論だけポツンと置いているような感じになってしまっているので、全然議論になっていないのだけど(^^;

最後の主張をちゃんと議論するなら、『哲学散歩道 III』で最後に行なった「正しさ」を支えているものがなんなのか、に似た議論が必要になってくるかな。
すなわち、ここでいう「言語のモデル」というのは、「言語とは、『この自分(この身体)』によって世界に対して生み出された関係性という分類の顕れである」というものなので、当然、その限界は、「この身体」が世界をどう切り分けることが出来るのか、というところに依ってくる、と。
まぁ、これだけだとやはり端的すぎるんで、伝わらないと思うけど。

ちなみに、最後のウィトゲンシュタインの言葉と自分の言葉で何が違うのか、というのがあると思うので、補足。
(というか、自分もたまに「何が違うんだっけ?」となる)
ウィトゲンシュタインの方は、まず実際の行動で示される「言語」(つまり「語りうるもの」)があって、それが自分自身の世界の限界も意味するんだよ、となっている。
一方、自分の方は、「この身体」によって生まれる自分の世界の限界というものが潜在的に存在していて、その限界は(自分が実際に語る)言語の限界として顕在化されるんだよ、となっている。
なので、矢印の方向が逆というか。
私の言語の限界→私の世界の限界、というのがウィトゲンシュタイン、(「この身体」による)私の世界の限界→私の言語の限界、というのが自分。
伝わるかな・・・?

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

言語の限界について考えてみた。(その4)

前回の続き。

今回は(6)で、書いたのは2007年12月27日。


時間はどこからやってくるのか

「時間はあっという間に過ぎ去ってしまう」「一年はあっという間だった」という言葉はよく聞かれる。
しかし、なぜそう感じるのかということを考えてみると、これは不思議な話である。
実際にはたくさんの出来事があったはずであるし、一年間であれば物理的に一年間分の時間を過ごしてきているはずである。
しかし、思い起こしてみればそれは全て一瞬のことに思えてくる。
これはなぜか。

また、「現在」とは何なのであろうか。
ゼノンのパラドックスではないが、「今」ということを意識した瞬間には、その「今」は既に「過去」になってしまっている。
なぜこのようなことが起こるのか。

答えから言ってしまえば、このようなことが疑問に思えるのは、自分たちが時間の中に存在しているという誤解があるからに他ならない。

物理学での時空間モデルに慣れてしまっていると、時間というものがもともと存在していて、時間にしたがって世の中は動いていくと思いがちである。

しかし、時間というものについてしっかりと考えていこうとするならば、このモデルはいろいろな問題を孕む。
先程の、「現在」とは何であるのかということについて、このモデルでは答えの持ちようがない。

次のように現象学的なモデルを考えると、時間に関する謎というものについては大体説明がつくようになる。

時間というものがもともと存在しているわけではない。
自分たちは、何らかの活動を行う。
その行動を通して「今」という瞬間が刻まれていくことでしか、時間は生まれてこない。

「過去」というものは、潜在的にしか存在していない。
「想起する」という行為によって初めて、潜在的な過去は「想起しているという今」に「過去」として具現される。

なぜ過去のことは一瞬に思われるのか。
それは、想起されるときの「今現在」の時間が当時の時間と比べて圧倒的に短いからである。
(なんなら、当時と同じ時間だけリアルタイムで想起してみればいい。過去が短かったなんてとても思えないだろう。)

「現在」とは何なのか。
それは、今まさに行為を行っているということでのみ指し示されるものである。
「今」ということを意識した瞬間、「今」というのはその「意識しているという今」になってしまい、その意識している対象の「今」は想起されたものーー過去として具現されたものーーになってしまうので、その「今」は既に「過去」になってしまうのである。

このモデルは、一つ重要な帰結を導く。
すなわち、「考察をしている今」において、その「今」自身を考察することは原理的に不可能である、ということである。
なぜなら、その「今」自身を考察しようとした瞬間、その「今」は想起されて「過去」になってしまうからだ。
「今」について考察を行おうとすれば、その考察対象となりうるのは、過去の「今」の積み重ねによって生まれた「イメージとしての今」のみなのである。

言語考察の限界

これまでの「時間」に対する考察を見てくれば、次のことは明らかだろう。
すなわち、「今まさに考察を加えている言語」というものを今現在の考察の対象にすることは出来ない。
そしてこれは、言語の考察に対する限界の限界を示している。


ということで、時間論。

ベースとなる現象学の議論も思考実験もすっ飛ばしてしまっているので、正直これだけ読んで伝わるのかというと、かなりキビシイと言わざるを得ない・・・(^^;

『哲学散歩道』でも時間論に関しては書いてないから、どこかで書きたいとは思うんだけどね。

一応、思考実験は昔のブログで少し書いてて、あと、昔書いた以下の記事の「『ものさし』の恍惚と不安」「数と時と思考」で少し言及はしていたり。

基本となる考え方は、「『時間』が経っている(いた)ことを知るのに、『何』が必要なのか」ということ。
これを考えると、「過去」とか「未来」というのは存在していなくて(正しく言うと、存在しているのかどうか分からなくて)、「現在進行形の(幅を持った)今」だけが存在し、その「今」の中に記憶として潜在的な過去は存在していて、そして思い出す(想起する)ことで「過去」が「この今」に現れる、ということが見えてくる。
また、そこから、「過去」と「未来」の非対称性も見えてきたり。
(過去は「今」に潜在的に存在しているけど、未来は「今」にも存在していない)
あと、世界五分前仮説という有名な話があるけど、この仮説が正しいかどうかではなくて、どうしてこの仮説を立てることが可能なのか、という問いに対して、このモデルは明確に答えを与えてくれたりする。

それはさておき、言語の限界の話に戻すと、最後の部分は少し言葉足らずなところが。

ここでは、

「今まさに考察を加えている言語」そのものを考察の対象にすることは出来ない。

とだけ書いたけど、時間論に関して、

「今」について考察を行おうとすれば、その考察対象となりうるのは、過去の「今」の積み重ねによって生まれた「イメージとしての今」のみなのである。

と書いたとおり、「今」そのものは考察できないけど、「イメージとしての今」、すなわち「今のモデル(時間のモデル)」については考察可能だということに注意しないといけない。
すなわち、「言語」についても同様に、「今使っている言語」そのものは考察できないけど、「言語のモデル」については考察可能だったりする。

ということで、次はその「言語のモデル」についての話。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

言語の限界について考えてみた。(その3)

前回の続き。

今回は(4)と(5)で、書いたのはそれぞれ、2007年11月10日、11月24日。


「限界」のモデル

ところで、「限界」という言葉を何気なく使ってきたが、これからより厳密な議論を行っていくために、この「限界」という言葉について、考察を加えておきたいと思う。

昔、友達は限界のイメージについて次のように語っていた。

限界というのは、自分の回りを取り囲む壁である。
自分はその壁の中であれば自由に動きまわれるが、その外側では活動することが出来ない。
努力をするということは、その壁を押していくことで自分の動きまわれる範囲を押し広げていくことだ。

限界を壁に例えるという話はよく聞く。
しかし、このモデルの優れている点は、それを押し広げていくことで自分の動ける範囲を広げていく、という観点を導入したことだと思う。
このモデルはとても納得のいく部分が多い。

例えば、数字の概念の拡張拡張などというものは、このモデルの言っている通りに思われる。
まずは自然数という概念しか存在しなかったが、そこに0の概念が入ってきて、有理数、実数、さらには複素数と、限界を外へ外へと押し広げてきた感じがある。

だがしかし、このモデルにはいくつかの欠点がある。
それは、以下の2つ:

  • 壁の向こう側にあるものが何なのかが分からない
  • 限界の限界に対する考察がなされていない

1つ目の欠点は、特に言語について考えていく場合は重要である。
すなわち、言語の限界の外側にあるものはなんなのか、という問題がまさにそれに対応するからである。

前期のウィトゲンシュタインも、おそらく限界に対して同じようなイメージを持っていたのであろう。
論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは言語の外側を「無意味」と定義し、そのような外側というものについて言うことは出来ず、言語の言語というものはただ「示す」ことしか出来ないんだということを示すので精一杯であったように見える。
このことは、『論考』の序文、

…よって、言語のなかにおいてのみ、限界を定めることができる。
そして、この限界の彼方にあるものは、端的に無意味である。

や、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』での

『論考』を最後まで読む者には、大きなどんでん返しが待っている。
それまでの頁で書かれていることのすべてがじつは「無意味だ」という断言に出会うからである。
その結果、どのような言語表現が意味をもち、どのような言語表現が意味を持たないのかを言うこと、そのこと自体が、「無意味」となる。
(中略)
このとき残される唯一の道は、意味ある言語表現だけを用いること、ウィトゲンシュタインの言い方では、「語りうること」だけを語ることである。

という文章に見て取れる。

2つ目の欠点は少し分かりにくいかもしれないが、次のようなことを考えれば納得がいくと思う。

例えば、練習をすれば人はいくらでも速く走れるようになるのだろうか。
どう考えても、これ以上は速くなれない、という限界がやってくるだろう。
そう、単に「限界」といっても、現時点における限界と、その限界の限界という2つの限界が存在するのだ。

そこで、これら2つの欠点を克服するようなモデルが求められる。

自分が提唱したモデルというのは、次のようなものである。

努力していくということは、石器を鋭利にしていくことである。
現在の石器の鋭利さこそが現在の限界を意味し、またその石器はその石器自身の鋭利さの限界を内包する。

このモデルでは、外側というものはそもそも存在しない。
あるのは、どこまで精錬されているのかという現在の状況と、どこまで精錬することが出来るのか、という限界の限界のみである。
しかも、どれだけ精錬されているのかというのは同時に自由度がどれくらいであるのかということも意味しているから、これは最初のモデルの目指した所を内包していることになる。

今後、限界について考えていくときにはこのモデルが念頭にあることを覚えておいてもらいたい。

自己言及問題

さて、言語について考察を加えていくときに、重要なことが一つある。
それを示すために、次の問題を見てもらいたい:

次の枠内に
数字がいくつずつあるかを
括弧内に数字で記入しなさい。
+--------------------+
| 0 (  )      5 (  ) |
| 1 (  )      6 (  ) |
| 2 (  )      7 (  ) |
| 3 (  )      8 (  ) |
| 4 (  )      9 (  ) |
+--------------------+

自分はこの問題を自己言及問題と呼んでいる。

この解答の一つは、以下の図のようになる:

次の枠内に
数字がいくつずつあるかを
括弧内に数字で記入しなさい。
+--------------------+
| 0 ( 1)      5 ( 1) |
| 1 ( 7)      6 ( 1) |
| 2 ( 3)      7 ( 2) |
| 3 ( 2)      8 ( 1) |
| 4 ( 1)      9 ( 1) |
+--------------------+

実際に数えてもらえば分かると思うが、確かに枠内に0の個数は1個、1の個数は7個、・・・とちゃんとした答えになっている。

この問題で重要なのは、数字の二面性である。
すなわち、この問題において数字は数えるものであると同時に数えられるものでもあるということである。

例えば、1の括弧の中に入る数字は、この枠内に1が何個あるのかというのを数えるものであるが、それと同時にその数字は数えられる数字でもあり、解答例の場合、それは7という数字の1つとして数えられている。
そして、この二面性こそがこの問題に動的な要素を与え、この問題を困難なものとしている。(※8)

さて、言語について考えていこうとしたとき、言語にも同様な二面性があることに気がつくと思う。
すなわち、今言語について考えていこうとしているわけだが、そのとき何を用いているのかといえば、それは今まさに考えようとしてる対象でもある言語に他ならない。

この二面性は、次のような困難を生むことになる。

(※8) これに引数を与える問題を考えてたとき、括弧に入る数字を1桁と限定した場合にはある程度のアルゴリズムが考えられるが、その限定を外したときどう解いたらいいのかは自分には見当もつかない。
・・・とレポートには書いたのだけれど、そのあと整数計画問題として記述出来ることが分かった。

言語について考えること

言語について考察を加えることを考えよう。
そのとき、考察は当然言語を通して行われる。
では、その考察からなんらかの結論が得られたとして、その考察のときに用いた言語も、その結論をちゃんと満たしているのだろうか?

こう言うと、「考察のときに用いた言語」に対して検証を行えばいいだけなのではないか、という声が聞こえてきそうである。
しかし、その検証はどうやって行えばいいのだろうか?

やはり言語を用いて検証が行っていくのでは、今度はそこで用いられた言語について検証を行わなければならないだろう。
そして、その検証においても言語が用いられたのなら、今度はさらにそこで用いられた言語について検証を行わなければならないだろう。
これでは、無限に続く言及に陥ってしまう。
これは、言語を用いて言語に対して考察を加える以上、それが本当にどんな言語に対しても成り立っているのかということは、決して検証出来ないということを意味する。

これは方法論の問題で、もっとうまい別の検証方法があるのだろうか。
それとも、これは言語の考察に対する一つの限界の限界を意味するのだろうか。

このことについて、少し違った視点からアプローチしていってみたいと思う。


ここで、「限界」のモデルに関して言及している。
内容は、「自分探し」に関する記事で書いたのと同じ。

また、上記の文章では、これまた昔書いた記事で紹介した「自己言及問題」についても言及している。

ちょっといろいろ詰め込みすぎな感じはするけど(^^;

実際、ここでは一言で「言語の限界」と言いつつ、いくつかの限界について言及してるので、内容が盛りだくさんになってる。
(そして、当時はレポートを提出しないといけなくて時間もなかったのもあって、きちんと整理しきれてない)

この一連の文章で言及している「言語の限界」は、以下の3つ:

  • 言語で指し示すことが出来るものの限界(この言及はまだ登場してない)
  • 言語考察に関する限界(今回の記事で言及している内容)
  • 言語で伝えることが出来るものの限界(前回までの記事で言及していた内容)

今から思うと、この3つをちゃんと区別して書けばよかったかも・・・

ちなみに、それぞれ順に「関係性」「正しさ」「身体性」と関係のある議論だったりする。
なので、この自己言及問題ではないけど、同様の自己言及に関する話題は『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』の中でも書いている。
というのも、「正しさ」に関して議論するということは、その議論自体の正しさも問う必要があるという自己言及性がやはりあるから。

次は、この自己言及の問題に関して、「言語」でも「正しさ」でもなく、「時間」の観点から議論していく。
(つまり、時間論まで言及していたw 当時の自分、欲張りすぎ!)

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

言語の限界について考えてみた。(その2)

前回の続き。

今回は(3)で、書いたのは2007年10月21日。


言葉と意味、知っているということ

言葉の意味とは何であろうか。
この問いに対して、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』によれば、後期のウィトゲンシュタインは次のように考えていたという。

スローガン的に言えば、それは、「言葉の意味とはその使用だ」ということになる。
言葉に意味を吹き込むのは、「意味すること」、「理解すること」、「解釈すること」といった心的過程ではない。
言葉が意味をもつのは、まさにそれが使用されている限りにおいてのことである。

具体的な議論はここでは述べないが、その本質は、独断論的思考の否定ーー表面上の違いの背後には、必ず「隠された」違いが存在していなければならない、という考えの否定ーーを通して行われている。
そして、言葉を理解しているということは、その言葉を使えるようになることであるという結論が得られている。

だがしかし、先ほどの「色」に関する議論を思い出そう。
色のない世界の住人は、「色」の意味を知ることは出来るのだろうか?

先程も述べたとおり、「色」というものがどういったものなのかは、色のない世界の住人にも理解できるだろう。
知識さえあれば、りんごは赤いものだとか、水は透明なものだとか、その言葉を使用することは出来る。
しかし、色の感覚が分からない以上、それは色の意味を理解できているとは言えないのではないだろうか?

こういうと、次のような反論が来そうである。
色の感覚が分からなくても、例えば光の周波数というものを常に知ることが出来て、それぞれの周波数に対応する色の名前を知っておけば、それは色の感覚を持っているのと同じとみなせるのではないか、と。

しかし、それこそ気を付けなければならない独断論的思考である。
物理量というのはあくまで感覚を与える原因の一つにしか過ぎず、それを知ることがすなわち結果である感覚というものを知るということではないということに気をつけなければならない。

次の図(※5)を見て欲しい:

f:id:yamaimo0625:20170306225041j:plain

この図のAの部分とBの部分の色は、同じだろうか、それとも違うだろうか。
どう見てもAの部分の方が暗い色で、Bの部分の方が明るい色に見える。
しかし、実はAの部分もBの部分も同じ色である。(※6)

同様に、次の図も見て欲しい:

f:id:yamaimo0625:20170306225243j:plain

おそらく地の部分は4 色で塗り分けが行われているように見えるだろうが、実は上と下とで地の部分は同じ色である。(※7)

さて、この印象の違いというものを、どうやったら色のない世界の住人に伝えることが出来るだろうか?
この感覚そのものを体験しないことには、理解出来ないのではないだろうか?

このことから見えてくることは、周波数を知ることが出来れば色のない世界の住人でもそれが何色なのかを理解することは出来るだろうが、色というものがどういうものなのかは決して理解できないということに他ならない。
その状態は、はたして色の意味を知っていると言えるのだろうか?

普通は、そのような状態を色の意味を知っているとは言わないだろう。
色というものが何なのかは、それを実際に見ることが出来なければ理解することが出来ない。

議論の流れを見ていると、ウィトゲンシュタイン独断論的思考に捉われないようとしようとするあまり、心的過程などというものは存在してはならないんだ、という別のベクトルの独断論的思考にはまってしまったとしか思えないところがある。

(※5)
ネット上で有名な騙し絵。
オリジナルはマサチューセッツ工科大学エドワード・エーデルソン教授によるものらしい。

(※6)
回りの部分を隠してみると、同じ色であることが分かる。

(※7)
やはり、回りの部分を隠してみれば、同じ色であることが分かる。


ここで書いた内容は、以前、人工知能に関する記事を書いたときにも、同様のことを書いている。

これは、「理解する」という行為が、その運用という、言語の中にある関係性だけを理解していれば済むという話ではないことを指摘しているもので、それがそのまま、人工知能においても、関係性だけを扱っていれば済むという話ではないという指摘になっているから。
記号論を超えた議論がないと、言語についても、人工知能についても、重要なことは見えてこない。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

言語の限界について考えてみた。(その1)

この前、「自分探し」に関する昔の記事を紹介した。

この中で、「限界」のモデルについて言及している部分があったけど、それに関連したこれまた昔の記事を紹介。
書いたときのタイトルは『言語の限界に関する考察。』で、(1)〜(7)の長編だったので、ここでも何回かに分けて紹介したいと思う。

まずは2007年10月7日と8日に書いた、(1)と(2)から。

一応、最初に補足しておくと、この記事は言語学に関する授業で書いたレポートを基にしていて、レポートの課題は飯田隆先生の『ウィトゲンシュタインーー言語の限界』を読んで、その感想や考察を書く、というものだったはず。

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)


はじめに

この文章では、言語について考えていくことで得られた自分なりの結果を述べていく。
それは、ウィトゲンシュタインからすれば、背景世界の存在を仮定しているように見えるだろうから、批判の対象にもなりうるだろう。
哲学探究』には、次のようにある。

われわれは決して理論を提示してはならない。
われわれの考察に仮説的なものはいっさいあってはならない。
説明はいっさい止め、記述がそれにとって代わらねばならない。

ウィトゲンシュタインの目的意識としては、本当は問題ではないことを、問題と思ってしまうことがいけないというものであったと思える。

確かにこの考えは大切ではあるが、自分が思うことは、ウィトゲンシュタインこそがこのことにとらわれすぎてしまっていたように思われる。

ただ単にあることそのものが正しい。
それはそうだろう。
ならば、問題があると思うのならその考え自体も正しいのではないだろうか。
重要なのは、何が正しいかというのは分からなくても、納得できるだけの答えをそこに与えることである。
正しいかどうかなんていうのは、二の次なのだ。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、次のようになるだろう。

問題への哲学者の対処は、病気への対処と似ている。

重要なのは背景世界の存在を仮定することをかたくなに拒むことではなく、それがあくまで仮定であることを認めた上で、それを活用することである。

(注、「はじめに」と書いてあるけれど、書いたのは一番最後で、提出ギリギリだったせいでかなり端折ってる^^; 自分の哲学の態度が構造主義的であることを示してる)

上下左右のない世界

さて、言語について考えようとすると、決まって思い出す文章がある。
それは、高校のときの国語の教科書に載っていた、「上下左右のない世界」(※1)という文章である。
残念ながら、原本が今手元にないので正確に引いてくることが出来ないのだが、内容は次のようなものであったと記憶している。

その文章では、まず次のようなエピソードが紹介されている:

ある宇宙飛行士がテレビの番組で自分の宇宙での経験を語った。
そのとき、ある識者が次のような指摘をしたという。
「あなたは今、頻繁に『上へ』とか『下へ』という言葉を使っていましたが、宇宙空間に上下なんかあったのですか?」
今まで雄弁に語っていた宇宙飛行士は、自分の短慮に気がついて黙り込んでしまったという。

そして、このエピソードを受け、次のように文章の著者は指摘していた:

私たちは普段何も考えずに「上」や「下」という言葉を使う。
しかし、よく考えてみれば「上」や「下」という言葉が意味を持つのは重力があってこそだ。
重力のない世界では「上」や「下」という言葉は意味を持たなくなってしまう。
これはちょっと考えれば気がつきそうなものであるが、重力のある世界が当たり前となってしまっている私たちにはなかなか気付けないことだ。

このことからさらに発展して、普段何気なく使っている言語というものが、いかに生活や文化に根ざしたものであるのかということを、この文章では述べている。
その例として、「太陽の色」の話(※2)が取り上げられていたと思う。
そして、言語について考えるときには、その背景となっている生活様式や文化についてまで考慮していくことが必要だ、とその文章はまとめていた。

(※1)
確かこのタイトルだったと思うのだが、検索をしても見つからないので、もしかしたら違うタイトルだったかもしれない

(※2)
日本の子供に太陽を描かせると赤い太陽を描くが、アメリカの子供に太陽を描かせると黄色い太陽を描く、という話

疑問と根本的な限界

自分はこの文章を読んだときに、なるほどと思うと同時に、次のような疑問を感じざるを得なかった。
「ならばその宇宙飛行士は、どうやって自分の宇宙での経験を語ったらよかったのだろうか?」

まず考えたのは、タイトルには「上下左右のない世界」とあるが、宇宙に行ったときに左右という概念はなくなるのだろうか、ということだった。
少し考えてみれば分かるが、宇宙に行ったとしても左右という概念はなくならない。
なぜなら、左右という概念は重力によって生じる概念ではなく、人間の体の構造から生じる概念だからである。
宇宙に行こうと、人間の体の構造が変わってしまわない限り、(トートロジー的な言い方ではあるが)右手のある方が右であり、左手のある方が左である。

ならば、本来は重力によって生じる上下の概念を、体の構造から生じる概念に拡張してしまえばいいのではないか、というのが当時の自分の行き着いた考えである。
すなわち、本来は空のある方を上とし、地面のある方を下としていたわけだが、頭のある方を上とし、足のある方を下と定義し直せばいいのではないか、というわけである。
これは普通であれば本来の重力による定義と矛盾することもせず、また宇宙空間での体験を語ることも出来るようになる。
こう考えると、上下という概念を拡張することを考えなかった識者の方が短慮であったのではないかとさえ思えてくる。(※3)

太陽の色にしても、確かに文化によって何色とみなすかは変わってくるかもしれないが、太陽の色そのものが変わってしまうわけではないのだから、それぞれの文化において太陽を何色と見なすのかという事実さえ知っていれば特に問題は起きないと思われる。

このことから、お互いの言語が何を指しているのかということに対して共通認識を得ることこそが重要であり、もしその共通認識が得られたのであれば、たとえ生活様式や文化が違っていたとしてもお互いの感覚を伝えあうことは可能なのではないかと自分は考えた。

しかし、これではダメなのだ。

上のような考えを発表した自分に対して、国語の先生は次のように指摘した:

確かに文化による色の違いはお互いに共通認識が得られるかもしれない。
太陽が黄色いと主張されたとしても、納得できる部分はある。
けれど、次のような場合はどうだろう。
色のない世界の住人に自分の見ている世界(色のついた世界)の説明を求められたとしたら、どう答えればいい?

自分はこう言われて初めて宇宙飛行士の置かれていた立場に気がついた。
そう、彼の置かれていた立場というのは、自分の体験した色のある世界というものを色を見たことがない人々に対して説明しなければならない立場にいたのだ。

確かに、色のない世界に存在する概念だけを用いて色について説明をすることは可能かもしれない。
しかし、どうやったらこの色を見たときに感じる「感覚」(※4)というものを、色のない世界の住人たちに伝えることが出来るだろうか?

同じように、確かに「上」や「下」という言葉の定義を拡張すれば、無重力空間というものがどういうものであったのかということを説明することは出来るかもしれない。
しかし、どうやったらその無重力空間での「感覚」というものを無重力を経験したことがない人たちに伝えることが出来るだろうか?

説明をすることは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない。
この事実は言語に対して一つの限界を与えているように思われる。
しかしこの限界というのは、本当に「言語そのものの限界」から生じている限界なのだろうか?
これについてはまた後で考察を加えたいと思うのだが、その前にこの“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない”ということに対して考察を加えていきたい。

(つづく)

(※3)
「上」や「下」という言葉を使ってしまっては「正しい向き」というものを勝手に想定してしまい、宇宙空間における空間の使用に対する思考の自由度を下げてしまう。
識者の指摘したかったことは、まさにこのことであったと思われる。
なので、この狙いを実現させるために上下の概念を拡張することを主張しなかっただけであり、決して上下の概念の拡張自体を考えなかったわけではないと思う。

(※4)
例えば、りんごを見たときに「赤い」と感じる、まさにその「感覚」。
哲学用語を使えば、「クオリア」のこと。


ちなみに、ここに書いてある「上下左右のない世界」の話は、自分の同人誌の『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』の中でも紹介していて、そこでは「正しさ」の限界を定めているものは何なのか、という問題提起を行うのに使っていたり。

それなら、人間の「正しさ」というのは、どの世界まで届くことが出来るのでしょうか?
人間は「正しさ」をどこまで求めることが出来るのでしょうか?
(『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』より引用)

これは、この文章の後の方でも出てくるんだけど、この文章自体が、自分の身体性の哲学の適用の一例として書かれたもののせい。
(もっとも、この文章を書いたときは、まだ『哲学散歩道』シリーズは世に出ていなかったのだけど)

元々は、『哲学散歩道』で扱った「『正しさ』の限界は何によって定まるのか」という議論があって、その議論が「言語の限界は何によって定まるのか」という問題に対しても同様に適用できるので、ここでもこの話を問題提起として使ってる。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

花田苑にまた行ってきた。

以前紹介した、埼玉県越谷市にある日本庭園、花田苑。

この中で、「梅の頃もキレイだったかも」と書いたけど、ちょうど梅の時期だったので、また行ってみた。

以下、写真垂れ流しでw

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いやぁ、よかったw

ちなみに、なんか刀剣乱舞の撮影オフがあったみたいで、コスプレした人が何人かいたw
こういった和風な庭園は珍しく、人もそれほど多くないので、撮影オフにはぴったりなのかもw

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今日はここまで!

「自分探し」について考えてみた。

前回、PULLTOP繋がりの昔の記事を紹介した。

この中で言及している記事をこのブログではまだ紹介していなかったので、その紹介。
書いたのは2004年11月5日で、そのときのタイトルは『自分探し?。』。


「自分探し」なるものについて。

他のブログを読んでいて、「自分探し」なるものについて言及されていたので、自分なりに思ったことを。

まぁ、「自分探し」に関連して最近のニュースで思い浮かべるものといえば「香田さん」のニュースなわけだけれども、(この事件についてはとりあえず言及しないことにしておいて)実際のところどうなんだろうかな、と。
(※参考:イラク日本人青年殺害事件 - Wikipedia 真相は分からないけど、当時、香田さんは「自分探し」で危険なイラクへ行っていたという話があった。そして、「自分探し」の善し悪しを問う議論が行われてた)

個人的には、この「自分探し」については否定的じゃない。
むしろ、やる必要はあるだろう。
というか、「やられる」必要があると思う。

上の言葉尻のちがい、これは一般的な「自分探し」と、本来的な意味での「自分探し」による。

一般的に言われる「自分探し」――今の自分は、本当の自分じゃなくて、もっとすごい自分になれるんだ、という「思い込み」――は、全くもって意味が無い。
これは、いろんなところで批判されているとおり。
「じゃあ、本当の自分って何なの?」と聞かれたら、そんなものはどこにもないわけで。
(「願望」や「現状に対する不満」を垂れ流しているだけじゃ、意味が無い)
(※補足:当時は関係性の哲学を重視していたので、「本当の自分」なんてものはなくて、ただ関係性だけによって「この自分」が定められているんだ、と考えていた)

じゃあ、本来的な意味での「自分探し」ってなんなのかな、というと、かじった程度の発達心理学から考えれば、それは「自己同一性の確立」。
そして、これが一般的な「自分探し」とどのように異なるのかというと、「自己同一性の確保」というのは、「可能性の削除」だということ。

一般的な「自分探し」が「(本当の自分なら)これもできるはず、あれもできるはず」と、ありもしない虚像を追う姿であれば、本来的な「自分探し」とは、「これは自分には出来ない、あれは自分には出来ない」と見限っていく姿になる。
そのなかで、「これだったら自分は出来るんだ」という確固たる自信、自己のオリジナリティ(アイデンティティ)が、研ぎ澄まされていくことになる。

そして、「可能性の削除」というのは、自分でいろいろと挑戦していく中で、サンクション(賞罰)にさらされることで「行われる」ものであり(「行う」ものではないーーというのは、評価するのは他者だから)、社会の荒波・競争の中でもまれる(価値にさらされる)ことで、強制的に「行われる」ものになっている。
それが最初に「自分探し」は「やられる」必要がある、と受動態で書いた意味。

これは、映画『耳をすませば』がすごい参考になる。
(というか、この映画のテーマが、まさに本来的な意味での「自分探し」)

主人公の女の子が、骨董屋の主人(?)から宝石の原石をもらうのだけれど、そのとき、一見きれいそうに見える部分は実はダメなところで、そういった「偽物」を削って、削って、そして本当に価値のあるものに変えていく、磨いていく、ということを言っていたと思う。
この原石こそがまさに才能の例えで、そしてその中から偽物をなくしていき、本当の才能というものを見つけ出し、そして磨き上げていくというのが大切だ、ということを示している。

これに関連して、昔友達と「限界」について話したことがあったのを思い出した。

友達曰く、「人間の能力というのは壁に囲まれた空間のようなもので、『限界』という壁を押し広げていくことで、人はより自由になれる」と。

けど、自分がこれに対して思ったのは、その「限界」は「一時的な限界」だよな、ということ。
そして、そういった「『一時的な限界』の限界」を考えると、上のモデルだとそういった限界は存在しないことになる。

そこで、自分は「人の能力は、石の塊みたいなもので、人はこれを削り、磨いていくことで、よりいろんなことが出来るようになる」と考えた。
ようは、道具をより洗練させていく、という感じ。
このモデルだと、確かに「一時的な限界」は存在していて、石をさらに削り、磨き上げ、鋭利にすることでどんどん能力は高くなるんだけど、鋭利にすることにも限界が訪れる、すなわち、「『一時的な限界』の限界」=「究極的な限界」も存在することになる。

そして、さっきの才能の話は、この限界のモデルにすごく似ていることが分かると思う。
すなわち、才能というものも元は「石の塊」で、どんどん余計なものを削り、磨き上げることで、より鋭利にしていくものなのかな、と。
そして、「究極的な限界」というものがやはり存在するんだろうな、と。

「自分探し」ということに関して、SMAPの『世界に一つだけの花』という歌がある。

ナンバーワンにならなくってもいい。
もともと特別なオンリーワン。

という歌詞で、これは競争を嫌った負け犬の歌だ、とけっこう議論になったと思う。
そして、そういう意味でとる人も少なくない。
「ナンバーワンにならなくったっていいんでしょ。だって、僕はもともと特別なオンリーワンなんだからね」みたいな。

けど、あえて問うなら、「本当に自分がオンリーワンだと言い切る自信があるのかな?」と。

例えば、今死んでしまったとして、世界は何か変わるのか?
「平凡な」「どこにでもいるような」「生きていようが死んでいようがかまわない」ただ一人の間が死んだだけ、と片付けられてしまうだけなんじゃないか?
そうならない、自分が特別なオンリーワンな存在だと、胸を張って言えるだけの自信があるのか?

――正直、自分にはその自信がない。
本当にオンリーワンになるには――その人が、まさにその人でなければならない、となるには――本来の意味での「自分探し」が絶対的に行われなければいけないし、それは競争を意味するのに他ならない。
つまり、負け犬推奨の歌なんかじゃ全然ない。

「どの花もみんなキレイだ」と謳っていて、もちろん、咲いている花に優劣をつけることは難しいし、そこでナンバーワンを決める、あるいはナンバーワンになろうとすることには、あまり意味がない。
けど、これはあくまで「咲いてるから」キレイなのであって、少ししか咲かなかったもの、咲く前に枯れてしまったもの、芽すら出てないものなどを比較すれば、咲いているものはもちろん「オンリーワン」だけど、そうでないものは・・・

その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

オンリーワンになるための努力をしなくていいとはどこにも謳っていないことに気をつけないと。


改めて読むと、最後の方の内容はかなり過激だな・・・(^^;
関係性の哲学のダークサイドが滲み出てるw

今でも「自分探し」に関する考え方は変わってないけど、自分自身がオンリーワンかどうかという部分に関しては、ちょっと違う感じ。

当時は補足にも書いたとおり「関係性」によって「自分が何者であるか」が定まると考えていたので、その関係性の中で自分自身の存在理由(レーゾンデートル)を作り上げていけないとダメだよね、という感じで、こういう強い書き方になってる。
けど、これは「この自分」の存在に気付けていない、関係性の哲学の病理ともいえる部分で。

確かに、世の中に人はたくさんいて、それぞれの人が「自分」を「自分」だと思っているわけだけど、今、こうして生きていて、楽しいとか辛いとか感じている「自分」は、そのどの「自分」でもなくて、「この自分」でしかない、というのが、重要なポイント。
もうそれだけで、「この自分」というのは特別な存在だったりする。
だから、自分の価値観は自分で決めればいいんじゃないかな、と。

今日はここまで!