前回の続き。
今回は(3)で、書いたのは2007年10月21日。
言葉と意味、知っているということ
言葉の意味とは何であろうか。
この問いに対して、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』によれば、後期のウィトゲンシュタインは次のように考えていたという。
スローガン的に言えば、それは、「言葉の意味とはその使用だ」ということになる。
言葉に意味を吹き込むのは、「意味すること」、「理解すること」、「解釈すること」といった心的過程ではない。
言葉が意味をもつのは、まさにそれが使用されている限りにおいてのことである。
具体的な議論はここでは述べないが、その本質は、独断論的思考の否定ーー表面上の違いの背後には、必ず「隠された」違いが存在していなければならない、という考えの否定ーーを通して行われている。
そして、言葉を理解しているということは、その言葉を使えるようになることであるという結論が得られている。
だがしかし、先ほどの「色」に関する議論を思い出そう。
色のない世界の住人は、「色」の意味を知ることは出来るのだろうか?
先程も述べたとおり、「色」というものがどういったものなのかは、色のない世界の住人にも理解できるだろう。
知識さえあれば、りんごは赤いものだとか、水は透明なものだとか、その言葉を使用することは出来る。
しかし、色の感覚が分からない以上、それは色の意味を理解できているとは言えないのではないだろうか?
こういうと、次のような反論が来そうである。
色の感覚が分からなくても、例えば光の周波数というものを常に知ることが出来て、それぞれの周波数に対応する色の名前を知っておけば、それは色の感覚を持っているのと同じとみなせるのではないか、と。
しかし、それこそ気を付けなければならない独断論的思考である。
物理量というのはあくまで感覚を与える原因の一つにしか過ぎず、それを知ることがすなわち結果である感覚というものを知るということではないということに気をつけなければならない。
次の図(※5)を見て欲しい:
この図のAの部分とBの部分の色は、同じだろうか、それとも違うだろうか。
どう見てもAの部分の方が暗い色で、Bの部分の方が明るい色に見える。
しかし、実はAの部分もBの部分も同じ色である。(※6)
同様に、次の図も見て欲しい:
おそらく地の部分は4 色で塗り分けが行われているように見えるだろうが、実は上と下とで地の部分は同じ色である。(※7)
さて、この印象の違いというものを、どうやったら色のない世界の住人に伝えることが出来るだろうか?
この感覚そのものを体験しないことには、理解出来ないのではないだろうか?
このことから見えてくることは、周波数を知ることが出来れば色のない世界の住人でもそれが何色なのかを理解することは出来るだろうが、色というものがどういうものなのかは決して理解できないということに他ならない。
その状態は、はたして色の意味を知っていると言えるのだろうか?
普通は、そのような状態を色の意味を知っているとは言わないだろう。
色というものが何なのかは、それを実際に見ることが出来なければ理解することが出来ない。
議論の流れを見ていると、ウィトゲンシュタインは独断論的思考に捉われないようとしようとするあまり、心的過程などというものは存在してはならないんだ、という別のベクトルの独断論的思考にはまってしまったとしか思えないところがある。
(※5)
ネット上で有名な騙し絵。
オリジナルはマサチューセッツ工科大学のエドワード・エーデルソン教授によるものらしい。
(※6)
回りの部分を隠してみると、同じ色であることが分かる。
(※7)
やはり、回りの部分を隠してみれば、同じ色であることが分かる。
ここで書いた内容は、以前、人工知能に関する記事を書いたときにも、同様のことを書いている。
これは、「理解する」という行為が、その運用という、言語の中にある関係性だけを理解していれば済むという話ではないことを指摘しているもので、それがそのまま、人工知能においても、関係性だけを扱っていれば済むという話ではないという指摘になっているから。
記号論を超えた議論がないと、言語についても、人工知能についても、重要なことは見えてこない。
今日はここまで!
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