いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

言語の限界について考えてみた。(その3)

前回の続き。

今回は(4)と(5)で、書いたのはそれぞれ、2007年11月10日、11月24日。


「限界」のモデル

ところで、「限界」という言葉を何気なく使ってきたが、これからより厳密な議論を行っていくために、この「限界」という言葉について、考察を加えておきたいと思う。

昔、友達は限界のイメージについて次のように語っていた。

限界というのは、自分の回りを取り囲む壁である。
自分はその壁の中であれば自由に動きまわれるが、その外側では活動することが出来ない。
努力をするということは、その壁を押していくことで自分の動きまわれる範囲を押し広げていくことだ。

限界を壁に例えるという話はよく聞く。
しかし、このモデルの優れている点は、それを押し広げていくことで自分の動ける範囲を広げていく、という観点を導入したことだと思う。
このモデルはとても納得のいく部分が多い。

例えば、数字の概念の拡張拡張などというものは、このモデルの言っている通りに思われる。
まずは自然数という概念しか存在しなかったが、そこに0の概念が入ってきて、有理数、実数、さらには複素数と、限界を外へ外へと押し広げてきた感じがある。

だがしかし、このモデルにはいくつかの欠点がある。
それは、以下の2つ:

  • 壁の向こう側にあるものが何なのかが分からない
  • 限界の限界に対する考察がなされていない

1つ目の欠点は、特に言語について考えていく場合は重要である。
すなわち、言語の限界の外側にあるものはなんなのか、という問題がまさにそれに対応するからである。

前期のウィトゲンシュタインも、おそらく限界に対して同じようなイメージを持っていたのであろう。
論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは言語の外側を「無意味」と定義し、そのような外側というものについて言うことは出来ず、言語の言語というものはただ「示す」ことしか出来ないんだということを示すので精一杯であったように見える。
このことは、『論考』の序文、

…よって、言語のなかにおいてのみ、限界を定めることができる。
そして、この限界の彼方にあるものは、端的に無意味である。

や、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』での

『論考』を最後まで読む者には、大きなどんでん返しが待っている。
それまでの頁で書かれていることのすべてがじつは「無意味だ」という断言に出会うからである。
その結果、どのような言語表現が意味をもち、どのような言語表現が意味を持たないのかを言うこと、そのこと自体が、「無意味」となる。
(中略)
このとき残される唯一の道は、意味ある言語表現だけを用いること、ウィトゲンシュタインの言い方では、「語りうること」だけを語ることである。

という文章に見て取れる。

2つ目の欠点は少し分かりにくいかもしれないが、次のようなことを考えれば納得がいくと思う。

例えば、練習をすれば人はいくらでも速く走れるようになるのだろうか。
どう考えても、これ以上は速くなれない、という限界がやってくるだろう。
そう、単に「限界」といっても、現時点における限界と、その限界の限界という2つの限界が存在するのだ。

そこで、これら2つの欠点を克服するようなモデルが求められる。

自分が提唱したモデルというのは、次のようなものである。

努力していくということは、石器を鋭利にしていくことである。
現在の石器の鋭利さこそが現在の限界を意味し、またその石器はその石器自身の鋭利さの限界を内包する。

このモデルでは、外側というものはそもそも存在しない。
あるのは、どこまで精錬されているのかという現在の状況と、どこまで精錬することが出来るのか、という限界の限界のみである。
しかも、どれだけ精錬されているのかというのは同時に自由度がどれくらいであるのかということも意味しているから、これは最初のモデルの目指した所を内包していることになる。

今後、限界について考えていくときにはこのモデルが念頭にあることを覚えておいてもらいたい。

自己言及問題

さて、言語について考察を加えていくときに、重要なことが一つある。
それを示すために、次の問題を見てもらいたい:

次の枠内に
数字がいくつずつあるかを
括弧内に数字で記入しなさい。
+--------------------+
| 0 (  )      5 (  ) |
| 1 (  )      6 (  ) |
| 2 (  )      7 (  ) |
| 3 (  )      8 (  ) |
| 4 (  )      9 (  ) |
+--------------------+

自分はこの問題を自己言及問題と呼んでいる。

この解答の一つは、以下の図のようになる:

次の枠内に
数字がいくつずつあるかを
括弧内に数字で記入しなさい。
+--------------------+
| 0 ( 1)      5 ( 1) |
| 1 ( 7)      6 ( 1) |
| 2 ( 3)      7 ( 2) |
| 3 ( 2)      8 ( 1) |
| 4 ( 1)      9 ( 1) |
+--------------------+

実際に数えてもらえば分かると思うが、確かに枠内に0の個数は1個、1の個数は7個、・・・とちゃんとした答えになっている。

この問題で重要なのは、数字の二面性である。
すなわち、この問題において数字は数えるものであると同時に数えられるものでもあるということである。

例えば、1の括弧の中に入る数字は、この枠内に1が何個あるのかというのを数えるものであるが、それと同時にその数字は数えられる数字でもあり、解答例の場合、それは7という数字の1つとして数えられている。
そして、この二面性こそがこの問題に動的な要素を与え、この問題を困難なものとしている。(※8)

さて、言語について考えていこうとしたとき、言語にも同様な二面性があることに気がつくと思う。
すなわち、今言語について考えていこうとしているわけだが、そのとき何を用いているのかといえば、それは今まさに考えようとしてる対象でもある言語に他ならない。

この二面性は、次のような困難を生むことになる。

(※8) これに引数を与える問題を考えてたとき、括弧に入る数字を1桁と限定した場合にはある程度のアルゴリズムが考えられるが、その限定を外したときどう解いたらいいのかは自分には見当もつかない。
・・・とレポートには書いたのだけれど、そのあと整数計画問題として記述出来ることが分かった。

言語について考えること

言語について考察を加えることを考えよう。
そのとき、考察は当然言語を通して行われる。
では、その考察からなんらかの結論が得られたとして、その考察のときに用いた言語も、その結論をちゃんと満たしているのだろうか?

こう言うと、「考察のときに用いた言語」に対して検証を行えばいいだけなのではないか、という声が聞こえてきそうである。
しかし、その検証はどうやって行えばいいのだろうか?

やはり言語を用いて検証が行っていくのでは、今度はそこで用いられた言語について検証を行わなければならないだろう。
そして、その検証においても言語が用いられたのなら、今度はさらにそこで用いられた言語について検証を行わなければならないだろう。
これでは、無限に続く言及に陥ってしまう。
これは、言語を用いて言語に対して考察を加える以上、それが本当にどんな言語に対しても成り立っているのかということは、決して検証出来ないということを意味する。

これは方法論の問題で、もっとうまい別の検証方法があるのだろうか。
それとも、これは言語の考察に対する一つの限界の限界を意味するのだろうか。

このことについて、少し違った視点からアプローチしていってみたいと思う。


ここで、「限界」のモデルに関して言及している。
内容は、「自分探し」に関する記事で書いたのと同じ。

また、上記の文章では、これまた昔書いた記事で紹介した「自己言及問題」についても言及している。

ちょっといろいろ詰め込みすぎな感じはするけど(^^;

実際、ここでは一言で「言語の限界」と言いつつ、いくつかの限界について言及してるので、内容が盛りだくさんになってる。
(そして、当時はレポートを提出しないといけなくて時間もなかったのもあって、きちんと整理しきれてない)

この一連の文章で言及している「言語の限界」は、以下の3つ:

  • 言語で指し示すことが出来るものの限界(この言及はまだ登場してない)
  • 言語考察に関する限界(今回の記事で言及している内容)
  • 言語で伝えることが出来るものの限界(前回までの記事で言及していた内容)

今から思うと、この3つをちゃんと区別して書けばよかったかも・・・

ちなみに、それぞれ順に「関係性」「正しさ」「身体性」と関係のある議論だったりする。
なので、この自己言及問題ではないけど、同様の自己言及に関する話題は『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』の中でも書いている。
というのも、「正しさ」に関して議論するということは、その議論自体の正しさも問う必要があるという自己言及性がやはりあるから。

次は、この自己言及の問題に関して、「言語」でも「正しさ」でもなく、「時間」の観点から議論していく。
(つまり、時間論まで言及していたw 当時の自分、欲張りすぎ!)

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

言語の限界について考えてみた。(その2)

前回の続き。

今回は(3)で、書いたのは2007年10月21日。


言葉と意味、知っているということ

言葉の意味とは何であろうか。
この問いに対して、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』によれば、後期のウィトゲンシュタインは次のように考えていたという。

スローガン的に言えば、それは、「言葉の意味とはその使用だ」ということになる。
言葉に意味を吹き込むのは、「意味すること」、「理解すること」、「解釈すること」といった心的過程ではない。
言葉が意味をもつのは、まさにそれが使用されている限りにおいてのことである。

具体的な議論はここでは述べないが、その本質は、独断論的思考の否定ーー表面上の違いの背後には、必ず「隠された」違いが存在していなければならない、という考えの否定ーーを通して行われている。
そして、言葉を理解しているということは、その言葉を使えるようになることであるという結論が得られている。

だがしかし、先ほどの「色」に関する議論を思い出そう。
色のない世界の住人は、「色」の意味を知ることは出来るのだろうか?

先程も述べたとおり、「色」というものがどういったものなのかは、色のない世界の住人にも理解できるだろう。
知識さえあれば、りんごは赤いものだとか、水は透明なものだとか、その言葉を使用することは出来る。
しかし、色の感覚が分からない以上、それは色の意味を理解できているとは言えないのではないだろうか?

こういうと、次のような反論が来そうである。
色の感覚が分からなくても、例えば光の周波数というものを常に知ることが出来て、それぞれの周波数に対応する色の名前を知っておけば、それは色の感覚を持っているのと同じとみなせるのではないか、と。

しかし、それこそ気を付けなければならない独断論的思考である。
物理量というのはあくまで感覚を与える原因の一つにしか過ぎず、それを知ることがすなわち結果である感覚というものを知るということではないということに気をつけなければならない。

次の図(※5)を見て欲しい:

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この図のAの部分とBの部分の色は、同じだろうか、それとも違うだろうか。
どう見てもAの部分の方が暗い色で、Bの部分の方が明るい色に見える。
しかし、実はAの部分もBの部分も同じ色である。(※6)

同様に、次の図も見て欲しい:

f:id:yamaimo0625:20170306225243j:plain

おそらく地の部分は4 色で塗り分けが行われているように見えるだろうが、実は上と下とで地の部分は同じ色である。(※7)

さて、この印象の違いというものを、どうやったら色のない世界の住人に伝えることが出来るだろうか?
この感覚そのものを体験しないことには、理解出来ないのではないだろうか?

このことから見えてくることは、周波数を知ることが出来れば色のない世界の住人でもそれが何色なのかを理解することは出来るだろうが、色というものがどういうものなのかは決して理解できないということに他ならない。
その状態は、はたして色の意味を知っていると言えるのだろうか?

普通は、そのような状態を色の意味を知っているとは言わないだろう。
色というものが何なのかは、それを実際に見ることが出来なければ理解することが出来ない。

議論の流れを見ていると、ウィトゲンシュタイン独断論的思考に捉われないようとしようとするあまり、心的過程などというものは存在してはならないんだ、という別のベクトルの独断論的思考にはまってしまったとしか思えないところがある。

(※5)
ネット上で有名な騙し絵。
オリジナルはマサチューセッツ工科大学エドワード・エーデルソン教授によるものらしい。

(※6)
回りの部分を隠してみると、同じ色であることが分かる。

(※7)
やはり、回りの部分を隠してみれば、同じ色であることが分かる。


ここで書いた内容は、以前、人工知能に関する記事を書いたときにも、同様のことを書いている。

これは、「理解する」という行為が、その運用という、言語の中にある関係性だけを理解していれば済むという話ではないことを指摘しているもので、それがそのまま、人工知能においても、関係性だけを扱っていれば済むという話ではないという指摘になっているから。
記号論を超えた議論がないと、言語についても、人工知能についても、重要なことは見えてこない。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

言語の限界について考えてみた。(その1)

この前、「自分探し」に関する昔の記事を紹介した。

この中で、「限界」のモデルについて言及している部分があったけど、それに関連したこれまた昔の記事を紹介。
書いたときのタイトルは『言語の限界に関する考察。』で、(1)〜(7)の長編だったので、ここでも何回かに分けて紹介したいと思う。

まずは2007年10月7日と8日に書いた、(1)と(2)から。

一応、最初に補足しておくと、この記事は言語学に関する授業で書いたレポートを基にしていて、レポートの課題は飯田隆先生の『ウィトゲンシュタインーー言語の限界』を読んで、その感想や考察を書く、というものだったはず。

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)


はじめに

この文章では、言語について考えていくことで得られた自分なりの結果を述べていく。
それは、ウィトゲンシュタインからすれば、背景世界の存在を仮定しているように見えるだろうから、批判の対象にもなりうるだろう。
哲学探究』には、次のようにある。

われわれは決して理論を提示してはならない。
われわれの考察に仮説的なものはいっさいあってはならない。
説明はいっさい止め、記述がそれにとって代わらねばならない。

ウィトゲンシュタインの目的意識としては、本当は問題ではないことを、問題と思ってしまうことがいけないというものであったと思える。

確かにこの考えは大切ではあるが、自分が思うことは、ウィトゲンシュタインこそがこのことにとらわれすぎてしまっていたように思われる。

ただ単にあることそのものが正しい。
それはそうだろう。
ならば、問題があると思うのならその考え自体も正しいのではないだろうか。
重要なのは、何が正しいかというのは分からなくても、納得できるだけの答えをそこに与えることである。
正しいかどうかなんていうのは、二の次なのだ。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、次のようになるだろう。

問題への哲学者の対処は、病気への対処と似ている。

重要なのは背景世界の存在を仮定することをかたくなに拒むことではなく、それがあくまで仮定であることを認めた上で、それを活用することである。

(注、「はじめに」と書いてあるけれど、書いたのは一番最後で、提出ギリギリだったせいでかなり端折ってる^^; 自分の哲学の態度が構造主義的であることを示してる)

上下左右のない世界

さて、言語について考えようとすると、決まって思い出す文章がある。
それは、高校のときの国語の教科書に載っていた、「上下左右のない世界」(※1)という文章である。
残念ながら、原本が今手元にないので正確に引いてくることが出来ないのだが、内容は次のようなものであったと記憶している。

その文章では、まず次のようなエピソードが紹介されている:

ある宇宙飛行士がテレビの番組で自分の宇宙での経験を語った。
そのとき、ある識者が次のような指摘をしたという。
「あなたは今、頻繁に『上へ』とか『下へ』という言葉を使っていましたが、宇宙空間に上下なんかあったのですか?」
今まで雄弁に語っていた宇宙飛行士は、自分の短慮に気がついて黙り込んでしまったという。

そして、このエピソードを受け、次のように文章の著者は指摘していた:

私たちは普段何も考えずに「上」や「下」という言葉を使う。
しかし、よく考えてみれば「上」や「下」という言葉が意味を持つのは重力があってこそだ。
重力のない世界では「上」や「下」という言葉は意味を持たなくなってしまう。
これはちょっと考えれば気がつきそうなものであるが、重力のある世界が当たり前となってしまっている私たちにはなかなか気付けないことだ。

このことからさらに発展して、普段何気なく使っている言語というものが、いかに生活や文化に根ざしたものであるのかということを、この文章では述べている。
その例として、「太陽の色」の話(※2)が取り上げられていたと思う。
そして、言語について考えるときには、その背景となっている生活様式や文化についてまで考慮していくことが必要だ、とその文章はまとめていた。

(※1)
確かこのタイトルだったと思うのだが、検索をしても見つからないので、もしかしたら違うタイトルだったかもしれない

(※2)
日本の子供に太陽を描かせると赤い太陽を描くが、アメリカの子供に太陽を描かせると黄色い太陽を描く、という話

疑問と根本的な限界

自分はこの文章を読んだときに、なるほどと思うと同時に、次のような疑問を感じざるを得なかった。
「ならばその宇宙飛行士は、どうやって自分の宇宙での経験を語ったらよかったのだろうか?」

まず考えたのは、タイトルには「上下左右のない世界」とあるが、宇宙に行ったときに左右という概念はなくなるのだろうか、ということだった。
少し考えてみれば分かるが、宇宙に行ったとしても左右という概念はなくならない。
なぜなら、左右という概念は重力によって生じる概念ではなく、人間の体の構造から生じる概念だからである。
宇宙に行こうと、人間の体の構造が変わってしまわない限り、(トートロジー的な言い方ではあるが)右手のある方が右であり、左手のある方が左である。

ならば、本来は重力によって生じる上下の概念を、体の構造から生じる概念に拡張してしまえばいいのではないか、というのが当時の自分の行き着いた考えである。
すなわち、本来は空のある方を上とし、地面のある方を下としていたわけだが、頭のある方を上とし、足のある方を下と定義し直せばいいのではないか、というわけである。
これは普通であれば本来の重力による定義と矛盾することもせず、また宇宙空間での体験を語ることも出来るようになる。
こう考えると、上下という概念を拡張することを考えなかった識者の方が短慮であったのではないかとさえ思えてくる。(※3)

太陽の色にしても、確かに文化によって何色とみなすかは変わってくるかもしれないが、太陽の色そのものが変わってしまうわけではないのだから、それぞれの文化において太陽を何色と見なすのかという事実さえ知っていれば特に問題は起きないと思われる。

このことから、お互いの言語が何を指しているのかということに対して共通認識を得ることこそが重要であり、もしその共通認識が得られたのであれば、たとえ生活様式や文化が違っていたとしてもお互いの感覚を伝えあうことは可能なのではないかと自分は考えた。

しかし、これではダメなのだ。

上のような考えを発表した自分に対して、国語の先生は次のように指摘した:

確かに文化による色の違いはお互いに共通認識が得られるかもしれない。
太陽が黄色いと主張されたとしても、納得できる部分はある。
けれど、次のような場合はどうだろう。
色のない世界の住人に自分の見ている世界(色のついた世界)の説明を求められたとしたら、どう答えればいい?

自分はこう言われて初めて宇宙飛行士の置かれていた立場に気がついた。
そう、彼の置かれていた立場というのは、自分の体験した色のある世界というものを色を見たことがない人々に対して説明しなければならない立場にいたのだ。

確かに、色のない世界に存在する概念だけを用いて色について説明をすることは可能かもしれない。
しかし、どうやったらこの色を見たときに感じる「感覚」(※4)というものを、色のない世界の住人たちに伝えることが出来るだろうか?

同じように、確かに「上」や「下」という言葉の定義を拡張すれば、無重力空間というものがどういうものであったのかということを説明することは出来るかもしれない。
しかし、どうやったらその無重力空間での「感覚」というものを無重力を経験したことがない人たちに伝えることが出来るだろうか?

説明をすることは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない。
この事実は言語に対して一つの限界を与えているように思われる。
しかしこの限界というのは、本当に「言語そのものの限界」から生じている限界なのだろうか?
これについてはまた後で考察を加えたいと思うのだが、その前にこの“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない”ということに対して考察を加えていきたい。

(つづく)

(※3)
「上」や「下」という言葉を使ってしまっては「正しい向き」というものを勝手に想定してしまい、宇宙空間における空間の使用に対する思考の自由度を下げてしまう。
識者の指摘したかったことは、まさにこのことであったと思われる。
なので、この狙いを実現させるために上下の概念を拡張することを主張しなかっただけであり、決して上下の概念の拡張自体を考えなかったわけではないと思う。

(※4)
例えば、りんごを見たときに「赤い」と感じる、まさにその「感覚」。
哲学用語を使えば、「クオリア」のこと。


ちなみに、ここに書いてある「上下左右のない世界」の話は、自分の同人誌の『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』の中でも紹介していて、そこでは「正しさ」の限界を定めているものは何なのか、という問題提起を行うのに使っていたり。

それなら、人間の「正しさ」というのは、どの世界まで届くことが出来るのでしょうか?
人間は「正しさ」をどこまで求めることが出来るのでしょうか?
(『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』より引用)

これは、この文章の後の方でも出てくるんだけど、この文章自体が、自分の身体性の哲学の適用の一例として書かれたもののせい。
(もっとも、この文章を書いたときは、まだ『哲学散歩道』シリーズは世に出ていなかったのだけど)

元々は、『哲学散歩道』で扱った「『正しさ』の限界は何によって定まるのか」という議論があって、その議論が「言語の限界は何によって定まるのか」という問題に対しても同様に適用できるので、ここでもこの話を問題提起として使ってる。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

花田苑にまた行ってきた。

以前紹介した、埼玉県越谷市にある日本庭園、花田苑。

この中で、「梅の頃もキレイだったかも」と書いたけど、ちょうど梅の時期だったので、また行ってみた。

以下、写真垂れ流しでw

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いやぁ、よかったw

ちなみに、なんか刀剣乱舞の撮影オフがあったみたいで、コスプレした人が何人かいたw
こういった和風な庭園は珍しく、人もそれほど多くないので、撮影オフにはぴったりなのかもw

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今日はここまで!

「自分探し」について考えてみた。

前回、PULLTOP繋がりの昔の記事を紹介した。

この中で言及している記事をこのブログではまだ紹介していなかったので、その紹介。
書いたのは2004年11月5日で、そのときのタイトルは『自分探し?。』。


「自分探し」なるものについて。

他のブログを読んでいて、「自分探し」なるものについて言及されていたので、自分なりに思ったことを。

まぁ、「自分探し」に関連して最近のニュースで思い浮かべるものといえば「香田さん」のニュースなわけだけれども、(この事件についてはとりあえず言及しないことにしておいて)実際のところどうなんだろうかな、と。
(※参考:イラク日本人青年殺害事件 - Wikipedia 真相は分からないけど、当時、香田さんは「自分探し」で危険なイラクへ行っていたという話があった。そして、「自分探し」の善し悪しを問う議論が行われてた)

個人的には、この「自分探し」については否定的じゃない。
むしろ、やる必要はあるだろう。
というか、「やられる」必要があると思う。

上の言葉尻のちがい、これは一般的な「自分探し」と、本来的な意味での「自分探し」による。

一般的に言われる「自分探し」――今の自分は、本当の自分じゃなくて、もっとすごい自分になれるんだ、という「思い込み」――は、全くもって意味が無い。
これは、いろんなところで批判されているとおり。
「じゃあ、本当の自分って何なの?」と聞かれたら、そんなものはどこにもないわけで。
(「願望」や「現状に対する不満」を垂れ流しているだけじゃ、意味が無い)
(※補足:当時は関係性の哲学を重視していたので、「本当の自分」なんてものはなくて、ただ関係性だけによって「この自分」が定められているんだ、と考えていた)

じゃあ、本来的な意味での「自分探し」ってなんなのかな、というと、かじった程度の発達心理学から考えれば、それは「自己同一性の確立」。
そして、これが一般的な「自分探し」とどのように異なるのかというと、「自己同一性の確保」というのは、「可能性の削除」だということ。

一般的な「自分探し」が「(本当の自分なら)これもできるはず、あれもできるはず」と、ありもしない虚像を追う姿であれば、本来的な「自分探し」とは、「これは自分には出来ない、あれは自分には出来ない」と見限っていく姿になる。
そのなかで、「これだったら自分は出来るんだ」という確固たる自信、自己のオリジナリティ(アイデンティティ)が、研ぎ澄まされていくことになる。

そして、「可能性の削除」というのは、自分でいろいろと挑戦していく中で、サンクション(賞罰)にさらされることで「行われる」ものであり(「行う」ものではないーーというのは、評価するのは他者だから)、社会の荒波・競争の中でもまれる(価値にさらされる)ことで、強制的に「行われる」ものになっている。
それが最初に「自分探し」は「やられる」必要がある、と受動態で書いた意味。

これは、映画『耳をすませば』がすごい参考になる。
(というか、この映画のテーマが、まさに本来的な意味での「自分探し」)

主人公の女の子が、骨董屋の主人(?)から宝石の原石をもらうのだけれど、そのとき、一見きれいそうに見える部分は実はダメなところで、そういった「偽物」を削って、削って、そして本当に価値のあるものに変えていく、磨いていく、ということを言っていたと思う。
この原石こそがまさに才能の例えで、そしてその中から偽物をなくしていき、本当の才能というものを見つけ出し、そして磨き上げていくというのが大切だ、ということを示している。

これに関連して、昔友達と「限界」について話したことがあったのを思い出した。

友達曰く、「人間の能力というのは壁に囲まれた空間のようなもので、『限界』という壁を押し広げていくことで、人はより自由になれる」と。

けど、自分がこれに対して思ったのは、その「限界」は「一時的な限界」だよな、ということ。
そして、そういった「『一時的な限界』の限界」を考えると、上のモデルだとそういった限界は存在しないことになる。

そこで、自分は「人の能力は、石の塊みたいなもので、人はこれを削り、磨いていくことで、よりいろんなことが出来るようになる」と考えた。
ようは、道具をより洗練させていく、という感じ。
このモデルだと、確かに「一時的な限界」は存在していて、石をさらに削り、磨き上げ、鋭利にすることでどんどん能力は高くなるんだけど、鋭利にすることにも限界が訪れる、すなわち、「『一時的な限界』の限界」=「究極的な限界」も存在することになる。

そして、さっきの才能の話は、この限界のモデルにすごく似ていることが分かると思う。
すなわち、才能というものも元は「石の塊」で、どんどん余計なものを削り、磨き上げることで、より鋭利にしていくものなのかな、と。
そして、「究極的な限界」というものがやはり存在するんだろうな、と。

「自分探し」ということに関して、SMAPの『世界に一つだけの花』という歌がある。

ナンバーワンにならなくってもいい。
もともと特別なオンリーワン。

という歌詞で、これは競争を嫌った負け犬の歌だ、とけっこう議論になったと思う。
そして、そういう意味でとる人も少なくない。
「ナンバーワンにならなくったっていいんでしょ。だって、僕はもともと特別なオンリーワンなんだからね」みたいな。

けど、あえて問うなら、「本当に自分がオンリーワンだと言い切る自信があるのかな?」と。

例えば、今死んでしまったとして、世界は何か変わるのか?
「平凡な」「どこにでもいるような」「生きていようが死んでいようがかまわない」ただ一人の間が死んだだけ、と片付けられてしまうだけなんじゃないか?
そうならない、自分が特別なオンリーワンな存在だと、胸を張って言えるだけの自信があるのか?

――正直、自分にはその自信がない。
本当にオンリーワンになるには――その人が、まさにその人でなければならない、となるには――本来の意味での「自分探し」が絶対的に行われなければいけないし、それは競争を意味するのに他ならない。
つまり、負け犬推奨の歌なんかじゃ全然ない。

「どの花もみんなキレイだ」と謳っていて、もちろん、咲いている花に優劣をつけることは難しいし、そこでナンバーワンを決める、あるいはナンバーワンになろうとすることには、あまり意味がない。
けど、これはあくまで「咲いてるから」キレイなのであって、少ししか咲かなかったもの、咲く前に枯れてしまったもの、芽すら出てないものなどを比較すれば、咲いているものはもちろん「オンリーワン」だけど、そうでないものは・・・

その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

オンリーワンになるための努力をしなくていいとはどこにも謳っていないことに気をつけないと。


改めて読むと、最後の方の内容はかなり過激だな・・・(^^;
関係性の哲学のダークサイドが滲み出てるw

今でも「自分探し」に関する考え方は変わってないけど、自分自身がオンリーワンかどうかという部分に関しては、ちょっと違う感じ。

当時は補足にも書いたとおり「関係性」によって「自分が何者であるか」が定まると考えていたので、その関係性の中で自分自身の存在理由(レーゾンデートル)を作り上げていけないとダメだよね、という感じで、こういう強い書き方になってる。
けど、これは「この自分」の存在に気付けていない、関係性の哲学の病理ともいえる部分で。

確かに、世の中に人はたくさんいて、それぞれの人が「自分」を「自分」だと思っているわけだけど、今、こうして生きていて、楽しいとか辛いとか感じている「自分」は、そのどの「自分」でもなくて、「この自分」でしかない、というのが、重要なポイント。
もうそれだけで、「この自分」というのは特別な存在だったりする。
だから、自分の価値観は自分で決めればいいんじゃないかな、と。

今日はここまで!

「夢」を語ることについて。

前回、PULLTOPのゲームに関連した昔の記事を紹介した。

その繋がりで、これまた昔に書いた記事をちょっと紹介。
書いたのは2005年の9月30日。
書いたときのタイトルは、『夢。』


『夏少女』というゲーム(※18禁)をやっていて、印象に残ったところがあったので。
(一度18禁ゲームを取り上げてしまったので、もう躊躇はしない・・・)

このゲームは、以前ゲームと文学と萌えと異化。 - いものやま。でとりあげた、『ゆのはな』を作ったPULLTOPの昔の作品。
一応全部やったけど、『ゆのはな』同様、ほわほわして暖かい作品だった。

本題に入る前に一応感想を書いておけば、普段恋愛において「邪魔」な存在として扱われやすい――それゆえ描写されることも少ない――母親と娘との繋がりがしっとりと描かれていて、しかもそれが本当に優しいもので、とてもよかったと思う。
主人公とヒロインとの関係よりも、むしろヒロインとその母親との優しい繋がりの方が、この作品の雰囲気を作り出しているのかもしれない。

では、本題へ。
このゲームをやっていて印象に残ったこと。
それはエントリのタイトルにあるとおり、「夢」――「将来の夢」に関する話。
(といっても、自分の将来の夢の話じゃなくて、もっと一般的な話)

「将来の夢」云々について論ずるときに、まず一つ挙げられるのが、以前自分が書いた記事(「自分探し」について考えてみた。 - いものやま。)にあるような、夢を見限っていくことの重要性の話。
この記事は読んでもらえば分かるとおり、物事に挑戦していき、自分にはあれが出来ない、これが出来ない、としていくことが、結局「自分には何が出来るのか」というアイデンティティの確立に繋がるんだ、というもの。
これはR25のNo.60の石田衣良のエッセイ、「夢を捨てる勇気」にも似たことが書かれてる。

今、誰もが夢について語りたがる。
夢を持っていないと、どこかおかしいという風潮さえある。
だが、本来夢などなくても、人間は生きていけるのだ。
夢を持たなければいけないと追いまくられたり、自分がほんとうは好きでもない夢を持ち続けたりする若者はいくらでもいる。

夢を持つことはいいことだ。
だが、これを読んでいるあなたは、自分の夢について、もう少しリアルに真剣に考え直してはどうだろうか。
夢は人を勇気づけるものであって、傷つけるものではない。
自分を不幸にする夢なら、捨て去ることで前進だってできるのだ。
石田衣良 エッセイ「夢を捨てる勇気」より。一部省略。)

この人の文章は、よく言えば日本的、悪く言えば主張が曖昧で、個人的にはあまり好きじゃない・・・
けど、上の文章に限って言えば、夢をもたなければいけない風潮がありそれはどうなのか、というところまで突っ込んで書いてあったので、よかったかな、と。

一方で、これが今回取り上げたいことなんだけど、「夢」を持つ、ということにあたっての「覚悟」というものについて論ずることも出来るかな、と。
どういうことかというと、これこれが夢である、と語ることは一見簡単そうなんだけど、でも、よくよく考えてみれば、それは違うということ。
というのも、その言葉は本当に「こうしたいんだ」という自分の中から出てきている「夢」なのか、それともとりあえず漠然と「こうだったらいいのになぁ」という「願望」の顕れに過ぎないのか、という問題があるから。
そして、それが本当に「夢」であるためには――「夢」であると胸を張っていえるようになるにはーーそれ相応の「覚悟」と「努力」が必要になってくる、ということ。

以下の引用は『夏少女』の京(みやこ)ルートで出てくるエピソード。
ここで上に書いたようなことが書かれていた。

まず、京ちゃんを簡単に紹介しておくと、主人公である真人(まさと)の親友の樹一郎の妹。
まじめで、小さな努力をコツコツと続けていく努力家。
旅館の娘で、兄の樹一郎がふらふらしているので、将来は旅館を継ぐことを期待されていて、本人もその期待にこたえたいとも思っている、というような女の子。
ちなみに歌が大好きで、独り練習してたりもする。

次のシーンは、主人公と天体観測をしていて、流れ星を探している、というシーン。

【真人】
 「そうだ。
  京ちゃんはどんなお願いするの?」
【京】
 「え?」
【真人】
 「流れ星を見つけたときにさ、なんてお願いするのかなって」
 軽い気持ちの質問だった。
 けど、京ちゃんは答えをためらうように口ごもり、ついには、下を向いて黙り込んでしまった。
 そのときだ。
 俺の視界の端を、再度一筋の光が横切った。
【真人】
 「あっ!」
【京】
 「えっ!?」
 一瞬遅れて、京ちゃんも俺の視線を追う。
 だが、漆黒の空に流された白い糸は、瞬きをするほどの時間も待たず、闇の中に溶けていった。
【真人】
 「………見えた……?」
【京】
 「……は、はい……。
  でも、願い事は……」
【真人】
 「言えなかった……?」
【京】
 「……はい」
 まさか、こんなに続けざまに流れるとは……。
 しかも俺が話しかけている最中に……。
【真人】
 「……でも、この調子ならまた流れるよ。
  大丈夫。もう一回探そう」
【京】
 「…………」
【真人】
 「京ちゃん?」
【京】
 「……いえ、いいです。今日は……。
  見つけてもたぶんまた、言えないと思いますから……」
 京ちゃんがうつむいた顔を上げた。
 そこにあったのは、どこか、ほんの少しだけ、無理をした笑顔。
【京】
 「さっきも、真人さんに聞かれて、すぐ言えませんでしたし……」
 さっき、答えられなかった京ちゃんのお願いって、なんだろう……。
 やはり言いにくいことなんだろうか。
 聞いてみたい気もするけど、聞かないでおいた方がいいんだろうな……。
 そう思い口をつぐむ。
 だが、その答えは意外にも早く、京ちゃんの口から告げられた。
【京】
 「私…、歌のお仕事に付きたいんです。
  それが、願い事です。」
 わずかな、ためらいを振り切るように、しかし、しっかりした口調で、京ちゃんは言った。
【真人】
 「歌……か」
 驚きはしなかった。
 最近の京ちゃんを見ていれば、なんとなく分かることだった。
【京】
 「……良かった、笑われなくて」
【真人】
 「笑わないよ。真剣に言ってる夢だって、分かるから」
 うつむいたまま、京ちゃんの首が小さく振られる。
【京】
 「いいえ、夢じゃないです。
  まだ夢にもなってない……」
【京】
 「まだまだ、小さくて……
  夢だっていえるだけの自信もない……」
【京】
 「だから……。
  胸をはって誰かに言うことも、できないんです」
【真人】
 「……じゃあ、どうして俺には教えてくれたの?
  誰にも言えない、そのお願いを……」
【京】
 「…………」
 答えを探しているのか、言うのをためらっているのか、しばしの間、京ちゃんは沈黙の中に身をおいた。
 やがて、その口が言葉を紡ぎ始める。
 同時に、その顔は俺へと向けられた。
【京】
 「……一歩だけ……前に出れた気がするんです。
  真人さんのおかげで……」
【京】
 「真人さんに頑張ってる、って言われたから、すごいって言われたから……」
【京】
 「ほんの少し……
  自分のこと、すごいって思えた……」
【京】
 「そうしたら、もっと、すごくなりたいなって思ってることに気付いた」
【京】
 「胸を張って、『これが自分の夢だ』って言えるようになりたいって……思った」
【真人】
 「…………」
【京】
 「だから、これからはもっと頑張りたい……。
  もっと、すごい自分になれるように頑張りたい」
(『夏少女』京ルートより。一部省略。)

ひっじょーに長く引用したけど、先ほど書いたようなことがありありと描かれているのが分かると思う。
「まだ夢にもなってない」という言葉が、非常に印象的。

このあと、主人公は1年の隔たりを経て京ちゃんに再会する。
1年ぶりの京ちゃんは努力をして、歌がかなり上手になっていた。
そんな1年後のシーン。

【京】
 「真人さん、覚えてますか?
  ……去年、星見台でした約束…」
 ……あの時、京ちゃんは言った。
 自分はまだ星に願いをかけるだけの、自信もない。
 だから、いつか胸をはって願いをかけられるように、自身を持てるように、練習したい、努力したい……。
 だから、それまで、自分の姿を見ていて欲しい……と。
 もう1年も前のことなのに、あの日と同じ満天の星の下、その記憶はまるで昨日のことのように甦ってきていた。
【真人】
 「ああ……、思い出した」
【京】
 「そうですか……」
 そこで言葉を区切り、空を仰ぐ。
 そして、またゆっくりと京ちゃんは口を開いた。
【京】
 「……わたし、まだ約束、守れてないんです」
【真人】
 「そんな……京ちゃんはうまくなったよ。
  ほんとに、驚くくらい」
【京】
 「いいえ……まだ、私はあの頃と変わってないんです」
【京】
 「練習していることを、隠してるわけじゃないんです。
  ……お母さんは、私が本気なんだって、うすうす感じていると思います……」
【京】
 「でも……、まだ、戦ってはいないんです」
【真人】
 「戦う?」
 少し突飛な言葉に、思わず聞き返した。
【京】
 「兄さんにも、お母さんにも、夢があります。
  そして、私の夢をかなえるってことは、それを……それを邪魔することなんです」
【真人】
 「……そんな、邪魔なんて言い方しなくても……」
【京】
 「でも、そうなんですよ。
  お母さんは、みやこ(※旅館の名前)を継いで欲しいって思ってる。
  兄さんは天文学者になりたい」
【京】
 「私の夢が叶えば、兄さんが継がなきゃいけない。
  二人とも継がないなら、お母さんの夢は叶わない。
  ……実際そうなんです」
 それが当たり前のことであるかのように、特に思いつめた様子もなく、京ちゃんは言った。
 その様子がなぜか痛々しく、俺は必死に反論の言葉を探す。
【真人】
 「そんな……。
  でも、だからって京ちゃんが我慢するなんておかしいよっ」
【京】
 「……はい。そうです」
【真人】
 「えっ……」
【京】
 「それで夢を諦めるつもりはありません。
  ……諦められません」
【京】
 「でも、それは戦うってことなんです。
  兄さんとお母さんの夢と……」
【真人】
 「…………」
【京】
 「その事を……、自分の夢と向き合って、はじめて自覚できました」
【京】
 「明日、オーディションの結果が出るんです」
【京】
 「そうしたら言います。
  たとえそれが良い結果でも、悪い結果でも」
【京】
 「自分はこうしたいんだって、
  これが自分の夢なんだって」
【京】
 「明日から、私……戦います」
 決意の表情で、京ちゃんは胸を張った。
(『夏少女』京ルートより。一部省略。)

またまた非常に長く引用したけど、自分の「夢」と真剣に向き合い、それに向かって努力していく、戦っていく「覚悟」というものが、ひしひしと伝わってくる。

物語はこの「夢」を軸に進んでいき、まぁいろいろとあるんだけど(これはさすがにネタバレなのでここでは書かない)、最後はきれいにまとめられていて、とても良かったと思う。
と、同時に、自分の「夢」に対する覚悟の甘さも痛感させられて、だいぶ身にも堪えたけど・・・


この歳になって振り返ると、結果的に自分は京ちゃんのように強く闘ってはいけなかったわけだけど(ちなみに数学者になりたかった)、それはそれとして、今こうしてこうなっているという事実が嫌ではないので、なんとも難しいところだなぁ、と。
嫌なこともいろいろあったけど、その分、知ることが出来たこともいろいろあったから。
捨てた分だけ拾えるものもあるというか。
まぁ、それがアイデンティティというものなわけだけど。

今日はここまで!

夏少女 初回版 CD-ROM版

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ゲームと文学と萌えと異化。

この前書いた言葉にするということ。 - いものやま。に関連して、同じPULLTOPのゲームに関して言及した昔の記事をちょっと紹介。
書いたのは2005年6月20日


このブログでこういうのを書くのはよそうと思ってたんだけど、とあるゲームをやっていて、どうしてもこの感動を書き残しておきたかったので。

なんのゲームかというと、PULLTOP『ゆのはな』(※18禁)というゲーム。
わかばルートなんだけど、わかばルートの話自体に感動したわけではなく、そのとある一部に限りなく衝撃を受けたので、そのことを書いておきたかった。

思うに、「萌え」について語られるときには、いろいろな語られ方があると思う。
例えば、世俗で言われる属性問題や、以前の記事で自分も書いた、精神分析の対象だったりとか。

けど、やはりそれが「物語」として語られる以上、文学という性質も持ちうるわけで。

キャラクターに関しての萌え(「キャラクター萌え」)は上のような考察でいいだろうけど、それとは別の「萌え」もあるということは、ついつい忘れられがち。
俗に言う「ストーリー萌え」と「シチュエーション萌え」が、それ。
これらについては、文学の観点から考察を与えられるんじゃないかな、と。

まず、ストーリー萌えだけど、これは文学の構造的な観点からの――マクロな視点からのーー分析だといえる。
自分がよく行うのは、この構造自体を抜き出しての考察や分析。

そして、今回言いたいのは、コレ。

「シチュエーション萌え」とは、文学における「異化」に他ならない!!!

前者のストーリー萌えがマクロな視点のものであれば、後者のシチュエーション萌えはミクロな視点によるものだけど、そこにあるのは、普段のさりげないものを、まったくの新鮮味をもって読者に与えることによって萌えさせるという、すなわち、プロセスで言えば異化とまったく同じことが行われている、というのが、今回の気づき。

高校のとき、誰かが書いた「萌えとは何か」という文章で、その人は「涙萌え」を挙げていて、そのときは単に属性の一つみたいな感じで考えていたけど、よくよく考えてみれば、違うことに気づく。

例えば、次のような文章があったとする(文章力ないのはご愛嬌):

夕暮れどき。
ドアを開けて教室に入ると、ただ一人、彼女だけが窓辺に立っていた。
ドアの音につられ、彼女は振り返る。
途端、すっとこぼれ落ちる、一筋の涙。

すると、ここが重要なんだけど、これは場面が絵画のように切り取られて提示されている
特に、涙がその絵の中で特に浮かび上がるように描かれている。
こういった(切り取られて提示された)「シチュエーション」があって初めて「萌える」のであって、涙そのものに萌えているわけではない、というのが、重要なポイント。
すなわち、そのシチュエーションによって「涙」というものが特別なもののように思わされること――「涙」が異化されるということーーによって初めて、萌えが生まれてる。

そういった意味で、シチュエーション萌えは「絵画的である」といえるかもしれない。

やはり高校のときに、「(マンガでよく出てくるけれど)何で剣道部の女の子って萌えるんだろうね?」という話が出て、思わず口をついたのが、「それは、面をはずした瞬間の、上気して少し赤くなった顔というのがいいからじゃない?」という言葉で、ハイ、想像してみよう、令ちゃんが面をはずした瞬間を。
いいよねw

閑話休題

今回、『ゆのはな』をやっていて、思わず「そういった萌えも可能なのかぁー!」と一人勝手に感動してしまったのが、これ。

 夕暮れのひかりにわかばちゃんは、くったくなく笑った。
 内側からやわらかい光があふれるみたいな笑顔。
 いいなぁ。
 やわらかそうなくちびる。
 やわらかそうなほほ。
わかば
 「拓也さん?」(※主人公の名前)
【拓也】
 「え、あ、なに?」
わかば
 「あの、もしかしてー、
  わたしのクチビルにノリとかついてますか?」
【拓也】
 「え、え……あ、うん。上唇に」
 ついていたのはホント。
 でも、俺が見ていたのは、ノリじゃなくて、わかばちゃんだったのだけど。
わかば
 「さっきノリせんべい食べた時にくっついちゃったんだー。
  えへへ」
 そういうと、わかばちゃんは、ぺろり、と舌を出して、ノリをナメとった。
【拓也】
 「……」
 なにもかもがかわいらしかった。

長く引用してしまったけど、重要なのは一番最後。
ハイ、想像してみよう、女の子がぺろっと舌を出して上唇(←さりげなくポイント)をナメる姿を!
萌えるよねw
こう、何気ない動作であるはずなのに、それがすごくかわいらしく描画されていて、すっごく驚いた。
そして、これは文学の異化と同じじゃないか、と気づいて、二重に衝撃を受け、思わずこの記事を書くに至った、と。

こういったゲームって、基本が一人称で、しかも映像・音楽と情報が多いだけに、セリフも含め地の文の細部にこだわる重要性が低くなってしまいがちだと思うけど、こう考えるとけっこう重要なファクターとなりえるのではないかな、とも思った。


この「シチュエーション萌えとはすなわち異化である」という考えは、他に唱えてる人を見たことないけど、けっこう面白い考え方だと思ってる。
萌え論も、もはや語られなくなって久しいけど、萌えが当たり前になってしまった今だからこそ、逆にまた新しい言論が出てくると面白いんだけどなぁ。

今日はここまで!

ゆのはな 大吉パック

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ゆのはなビジュアルファンブック

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