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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

コーダーブルームの宮ヶ瀬湖ライドに行ってきた。

自転車

前回の三浦半島ライドに引き続き、またまたコーダーブルームのオーナーズライドに参加してきた。
今度は宮ヶ瀬湖ライド。

今回のルート

今回のルートは、次のような感じ:

橋本駅から出発して、相模川沿いを走りながらグルっと回って宮ヶ瀬湖に行き、また橋本駅へと戻っていくルート。
距離は50km弱とそこまで大変じゃないけど、前回とは打って変わって、アップダウンがなかなかキツい感じ。

橋本駅

まずは、橋本駅まで輪行
自宅からだと2時間弱かかるので、集合時間の9時半に間に合うように、7時半くらいに家を出た。

電車を乗り継いで、予定通り、9時半くらいに集合場所に到着。
集合場所には、おなじみのコーダーブルームの車と、もうすでに到着していた他の参加者の方々が。

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今回は、前回のようにツイッターのDMでこっそりと募集が行われたわけではなくて、HPで大々的に告知された。
なので、参加者も9人と、前回の2倍以上!
自転車もズラッと並び、壮観w

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トイレに行ったり、少し遅れてきた参加者を待ったりして、全員揃ってから軽くブリーフィング。
参加者9人に、スタッフ4人(今回は偉い人も一緒に走った)の総勢13人と、大所帯w
なので、この人数で走るのは危険なので、街中は2組に分かれて走ることに。

意気揚々と、スタート!

橋本駅〜小倉橋〜高田橋

集合場所の駐車場を出発して、まずは市街地を走っていく。
それなりに車通りがあるので、安全に気をつけながら。

平和なサイクリングだなぁ、とのほほんとしてるのも束の間、山王神社前のところをスッと小道に入ると、いきなりジェットコースターのような下り坂にw
ガンガン下りながら、「これだけ下ってるってことは、あとで上るんだよね・・・」と、みんな序盤から戦々恐々w

一気に下り切ると、相模川に出て、小倉橋。
小倉橋から相模川を眺めると、完全に秋の風景。

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ここからは相模川に沿って高田橋に至るまで南下。

市街地も抜け、平坦基調で気持ちよく走れる道ということで、ここから高田橋までは、各自が好きなペースで走っていいよ、ということになった。
とりあえず、先導のスタッフさんは30km/hくらいで走るつもりと宣言して、みんな散り散りに走り出し。

と、みんなガンガン進んでいくw
もちろん、公道なんで、40km/hを超えたりとかはしてなかったと思うんだけど、30km/h超えは当たり前みたいなスピードw

途中、若干のアップダウンはあったものの、確かにここは気持ちよく走れた。
まぁ、自分はたまに頑張って回したけど、基本的にはいつもの30km/h弱の巡行だったはず。

そんなこんなで、あっという間に高田橋に到着。

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全員が合流するのを待って、再出発。

最初の上り〜半原日向交差点

ここからはこの日最初の上り。
平均斜度8%くらいの坂を上っていく。

坂はやっぱり得意不得意がはっきり分かれるエリア。
自分は体重が重いから、坂はとにかくツラい(^^;
が、そこまで長くなかったこともあって、無事上りきれた。

他の参加者も、ペースはそれぞれだけど、みなクリア!
そして、上りきったところにあるセブンイレブンで一休み。

ここからは、ほぼ平坦の道を進んでいく。
途中、一箇所だけ、ジェットコースターのような下り坂はあったけどw

そんな中、信号待ちをしていたときに撮った一枚がコレ。

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遠くに紅葉した山が見える。

ここから、細い道に入ったりして中津川のそばを走って行ったけど、のどかな風景で、走っていて気持ち良かった。

紅葉もキレイ。

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途中、桜っぽい花をつけた木があって、「不断桜!?」とちょっと驚いたり。
ただ、そのとき最後尾を走っていたので、止まると道に迷う可能性があって止まれなかった・・・
これはちょっと残念。
不断桜だったのかなぁ・・・?

そんなこんなで、半原日向の交差点に到着。

半原日向交差点〜あいかわ公園〜宮ヶ瀬ダム

さて、ここからがこの日のメインディッシュ(?)。

半原日向交差点を右に折れて国道412号に入ると、地獄のような上り坂w
まずは平均8%くらいの坂で、そこから服部牧場に向かうように左折すると、10%〜12%くらいもある上り坂がw

ここはホントに厳しかった。
ギヤを一番軽くして、休むダンシングとかも入れながら上っていったけど、脚が全然もたない(^^;
途中、一回自転車を降りて休憩し、それでなんとか上りきった。

上りきると少し平坦な道に出て、鉄柵のある突き当たりに。
ここを左手に向かうと、あいかわ公園に行くっぽい。

それにしても、坂が得意な人はやっぱり凄い。
楽しそうに上っていくからなぁw
自分もちょっとは上れるようになりたいものだけど。

閑話休題
突き当たりの鉄柵に行ったはいいものの、ここからどう進むのかなぁと思っていたら、なんと、鉄柵の横には自転車や人が通り抜けられる通り道がw
なので、そこを通り抜けて、宮ヶ瀬ダムに向かって進んでいく。

鉄柵を過ぎたら平坦で、なんならちょっと下ったりもしたので、もうあとは楽チンに宮ヶ瀬ダムに行けるのかなぁ、と思ったら、大間違いw
ここからまたかなり急な上り坂が(^^;
ここも10%くらいあったみたいで、ヒーコラ言いながら上っていった。
上りはもういいよw

死にそうになりながら上っていくと、やっとのことで宮ヶ瀬ダムに到着。

でも、頑張った甲斐あった!
宮ヶ瀬ダムからの風景に絶句!

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いや〜、この景色はホントに素晴らしかった。
すごい色の水に、紅葉した山が映える。

ダムも立派。

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奥にはダム湖が雄大に広がってて、これも凄い。

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宮ヶ瀬ダム〜丸太小屋レストランびんずる

みんなですごい景色にはしゃいだ後は、ダムの上を通り、お昼ご飯を目指してさらに進んでいく。

途中、橋を渡るときに、現在の気温が表示されていたんだけど、その表示はなんと8度!
それなりの高さまで上ってきたので、寒い寒い。

そして、今回お昼を食べることになっていた丸太小屋レストランびんずるに到着!

メニューには、いろいろな肉料理のコースが書かれていて、どれも美味しそう。
すごく悩んだんだけど、みんながコースを注文する中で、自分は一人だけドンブリを注文w
注文したのは、さくら丼。
ローストされたさくら肉(馬肉)というのがすごく気になったのでw

ちなみに、こんな感じ:

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とても美味しかったw

でも、みんなの食べてた他の料理もすごく美味しそうだったので、今度は他の料理も食べてみたいなぁ。
そのためには、またあの坂を上らないとだけどw

丸太小屋レストランびんずる宮ヶ瀬ダム橋本駅

ここからは帰り道。

丸太小屋レストランを出発して、再び宮ヶ瀬ダムに戻ってきた。

ここでは、ちょうどダムの観光放水をやっていた。
ただ、自分は少し遅れて着いたので、見逃し・・・
ぐぬぬ

ダムの上でみんなで記念撮影をしたら、鉄柵のところまで戻ってきて、ここからは行きと少し違うルートで橋本駅へ。

このとき、とにかくトイレに行きたくて大変だった(^^;
気温がすごく下がっていたので(レストランの近くでは少し雨も降ってた)、そのせいもあってか、トイレに行きたくてもう必死w
ローソンに寄ってもらって、なんとか事なきを得たけどw

そのあとはまた市街地に入っていくので、2組に分かれて進んでいき、無事、最初の駐車場に到着!

すごく寒くて(次の日、雪が降った!)、アップダウンもかなりあって大変だったけど、かなり走りごたえがあり、景色も素晴らしかったので、とてもいいライドだった。
今年のオーナーズライドはこれでおしまいという事だけど、来年以降もやっていく予定という事なので(とりあえず次は3月頃らしい)、今後も参加していきたいなw
(とりあえず、少しは痩せて上れるようにしないとね)

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今日はここまで!

輪行するなら知っておきたいテクニック。

自転車 技術

自転車で遠出するなら、覚えておきたいのが輪行

輪行が出来れば、電車で遠くまで移動してから自転車に乗ることも出来るし、あるいは逆に、遠くまで自転車で走っていって、そこから電車で帰ってくるといったことも出来る。
あまり起きて欲しくないけど、もしトラブルが起きてしまった場合にも、輪行の準備をしてあれば、なんとかなるし。

ブログに書いたのだと、宝川温泉に行ったときや三浦半島に行ったときなんかは、近くの駅まで輪行したパターン。

あと、この前大洗に行ったときは、大洗までは自走して、そのあと輪行で帰ってくるパターンだった。

ちなみに、ブログには書いてないけど、2014年の秋頃に大洗に行こうとしたときは、奥谷を過ぎたあたりで後輪のスポークが折れてしまって、まったく動けない状態になってしまったなんてことがあったり。
でも、輪行セットを持っていたので、とりあえず輪行状態にして、タクシーで大洗まで移動し、帰ってくることが出来た。
タクシー代はめっちゃかかったけど・・・

輪行でちょっと困ること

さて、輪行のやり方について説明している記事やサイト、動画は巷に溢れかえってるんで、ここではパス。

じゃあ、ここでは何を書くのかというと、輪行をするなら知っておきたい、ちょっとしたテクニック。

輪行をするとき、ちょっと困るのが、次のようなこと:

  • フロントフォークが輪行袋に突き刺さる
  • バンドの巻き方が分からない
  • 巻いたバンドが緩んで自転車が安定しない
  • 電車で自転車を安定しない

輪行のやり方について説明している記事とかだと、意外とこういう細かい部分についての説明がなかったり。
まぁ、自転車のバラし方、組立て方がメインになるのは、仕方ないけど。

ということで、ここではそういった細かい部分について、書いてみたいと思う。

フロントフォークから輪行袋を守る

まず、フロントフォークから輪行袋を守る方法。

輪行するためにフロントフォークからホイールを外すと、フロントフォークの先端は、思った以上に尖ってる。

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輪行袋は軽くするために生地が薄く出来ているので、この尖りは下手すれば輪行袋を破いてしまいそうで怖い。
特に、フレームのサイズが大きいと輪行袋のサイズもギリギリだったりするので、かなり危険。

仮に輪行袋にダメージがなかったとしても、作業している途中、この尖りがそのままになっているのも危ないので、なんとかしたいところ。

そこで、自分が使っているのが、コレ。

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コレを、こうする。

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これで輪行袋を傷つけることもなくなるし、作業中も安全。
簡単でしょ?w

これは何かというと、毛糸で編まれたイスの脚カバー。
100均で購入。
デザインが可愛すぎるのはご愛嬌w
このときはこういうデザインしかなかったw

何はともあれ、100均で簡単に手に入って、軽くてかさばらず、スッとフロントフォークに被せればいいだけなので、お手軽で凄くいい。
あと、デザインによっては、猫が靴下履いたみたいにフロントフォークが可愛くなるw
オススメw

バンドの巻き方〜太いバンド編〜

次に、バンドの巻き方。
まずは肩にかけるときに使う太いバンドから。

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これは簡単で、まず輪っかを作って、留め具の一方の穴を通す。
(実際にはこの輪っかの中に自転車のヘッドチューブやチェーンステーを通すことになる)

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そしたら、そのままもう一方の穴へ抜けさせる。

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これでバッチリ。
緩むことはない。

ちなみに、いろんな記事に書かれている通り、この太いバンドは短めにした方が担ぎやすい。
肩にぶら下げるというよりか、背負い投げをするかのように、体の後ろ側に輪行状態にした自転車を担ぐイメージ。

バンドの巻き方〜細いバンド編〜

問題は、フレームとホイールを固定させるための細いバンド。

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こっちの巻き方は、意外とよく分からない。
というか、自分も最近まで間違えてたw

間違った方法

まずは間違ったやり方から:

まず、留め具の一つの穴からバンドを通す。

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そして、そのままもう一つの穴へバンドを通す。

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つまり、太いバンドのときと同じように巻いてやる。

これでキュッと締めれば、一見ちゃんと巻けたように思える。
けど、試してみると分かるんだけど、この状態で左右に力を加えてみると、バンドは簡単に解けてしまう。
ちゃんと留まっているようで、全然留まってない・・・

この巻き方だと、少しの力でバンドが緩んでしまうので、自転車が全然安定してくれない。
なんか安定しないなぁと思うことが多かったんだけど、この巻き方をしていたせいで、フレームとホイールがちゃんと固定されていないのが原因だった。

正しい方法

じゃあ、正しい巻き方はどうすればいいのかというと、次のようにする:

まず、留め具の真ん中の穴にバンドを通す。

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ここまではさっきの間違ったやり方と同じ。
違うのはここから。
ここから、折り返してもう一つの穴へバンドを通す。

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そして、そのままキュッと締める。

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こうしてあげると、左右に力を加えてもバンドは全然緩まない。
むしろ、力を入れれば入れるほど結びが硬くなる感じ。

この方法でしっかりと結んでやれば、ちょっとやそっとじゃバンドは緩まらないので、フレームとホイールがちゃんと固定されるようになる。
結果、ちゃんと自立するようになってくれた。
しっかり覚えておきたいところ。

輪行状態の自転車を電車に固定する

最後に、輪行状態の自転車を電車に固定する方法について。

自転車を輪行状態にして電車に乗り込むときは、先頭か最後尾に移動するのが鉄則。
なぜなら、運転席の後ろには座席がなく、大きなスペースが空いているので、そこに自転車を置けば他の乗客の邪魔になりにくいから。

このとき、輪行状態の自転車を電車に固定できないと、揺れたときに倒れたりしてしまわないように、ずっと押さえておかないといけないことになる。
これはちょっと大変。
空いてて席が空いていたとしても、自転車を押さえていないといけないので、座ることも出来ない。

こんなとき、普通は輪行袋の口を閉じるための紐をうまいことして電車に固定するんだと思う。
あるいは、カラビナを使って固定したり。

けど、もっといい方法をこの前発見したw

どうするのかというと、こうする。

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これは何かというと、フリーサイズのベルトw
ぶっちゃけ、自分が普段使ってるやつだったりするw

細いバンドと留め方はほとんど同じで、これが思った以上にしっかりと自転車と電車を固定してくれる。
しかも、フリーサイズなんで、固定するためのバーと自転車との距離が近かろうが遠かろうが、ちょうどいい感じに固定してくれる。
カラビナだとサイズが決まっているんで、ここまで臨機応変にはいかない。

なお、実際には、ベルトだとちょっと長すぎる感はあるw
これはこの前、三浦半島輪行するときに、たまたま目に入って「使えるんじゃね?」と思い立ってそのまま持って行ったんだけど、ホントはもうちょっと短めのものをちゃんと用意した方がいいかも。
けど、このフリーサイズのベルトで留める方法はかなり良かったので、試してみて欲しい。

一つ、気をつけることを挙げておくと、ベルトを外すのにそれなりに時間がかかるということ。
慣れてないと特に。
間違っても、ベルトを外せなくて電車を降りれなかったなんてことにはならないようにw
(自分は到着の2, 3分前になったらベルトを外して自分で押さえるようにしてた)

今日はここまで!

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コーダーブルームの三浦半島ライドに行ってきた。

自転車

ツイッターでお誘いがあり、10月30日にコーダーブルームの三浦半島ライドに行ってきた。

今回のルート

今回走ったのは、以下のようなルート:

久里浜駅からスタートして、三浦半島の東〜南側を巡って、城ヶ島へ。
そこでお昼を食べて、再び久里浜駅へと戻っていくルート。
距離にして40kmちょっと。

久里浜駅

事の起こりは数日前。
コーダーブルームのTwitterアカウントから突然のDMがあり、「コーダーブルームの自転車に乗っている人たちで集まってシークレットライドをやりますが、参加しませんか」と。
これにはちょっと驚き。

数年前は、ホダカ(※コーダーブルームをはじめ、モーメンタムマルキンブランドを展開してる会社)の直営店でたまにサイクリングのイベントがあり、ちょくちょく参加してたんだけど、かなり忙しくて人手が足りていないらしく、最近はご無沙汰になってた。
そんな中でこのサイクリングのお誘いがあったので、これは是非と参加してきた。

久里浜駅までは輪行
ちょっと調べると自宅から100kmあったので、さすがに自走はね(^^;
輪行でも2時間強かかる感じだったので、朝9時半の集合時間に間に合うように、朝の7時に家を出発した。

さて、京急久里浜駅に予定通り9時半ちょっと前に到着し、集合場所のJR久里浜駅のロータリーへ。
行ってみると、コーダーブルームのスタッフさん数人と、他の参加者の方が集まっていた。

今回の参加者は、自分を含めて4人。
それに、コーダーブルームからは同行するスタッフさん3人に、偉い人1人。

そして、なんと!
コーダーブルームの車がサポートカーとして参加!

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この車、かっこいいよねw

駅前の一角には、この車から運び出されたFARNAの2017年モデル+αがズラッと!

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いや〜、いいねぇw

ちなみに、自分の自転車に乗って走ってもいいし、この新しいモデルに乗って走ってもいいし、途中で乗り換えてもいいし(そのためのサポートカー!)と、大盤振る舞い!
すごい!

とりあえず最初は自分の自転車で走ることにしたけど、他の参加者は最初から試乗車に乗ってる人もいた感じ。

久里浜駅久里浜港野比海岸〜亜美ちゃん坂

久里浜駅で軽くブリーフィングを行い、10時少しすぎに出発。

久里浜駅からは少し街中を走って久里浜港へ。
東京湾フェリーってここから出るのね。
東京湾フェリーのターミナルを左手に見ながらそのまま少し進むと、眼前に海が!
そのまま左手に海を眺めながら、ゆるゆると走っていった。

やっぱり海沿いを走るのは気持ちいいね。
ときどき立ち止まって写真を撮ったり。

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そのままずーっと海沿いを進んでいって、三浦海岸の交差点も左側の道に進み、ひたすら海沿いを進んでいく。

そして、やってきました・・・
ろんぐらいだぁす!』でおなじみの、通称「亜美ちゃん坂」。

三浦半島の東端で海岸から離れるタイミングで登りがやってきて、平均斜度が約8%と、なかなかの坂。
これはけっこう大変だった。
距離はそこまでなかったのでなんとか登れたけど、これを小径の(しかも多分重たい)折りたたみ自転車で登るのは、かなりしんどそう(^^;
三宅先生、豪脚であるw

登りきったところにはコンビニがあるので、ここで一休み出来る。
ここからの景色、いいね!
登ってきた達成感が確かにあるわ。

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間口漁港と剱埼灯台

亜美ちゃん坂を登りきったところで、そのまま県道215号を進んで行くルートもあるんだけど、今回はいろいろ見て回ろうということで、コンビニ裏の農道へと進んで行った。

農道を進んで行くと、どんどん坂を下っていって、小さな漁港へ。
なんとも味わい深い景観w

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ちなみに、坂を下ったらその分登るのは当然で、ここからまた登りw
この登りがこの日で一番キツかったw

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見ての通り、滑り止めで溝が入ってる坂w
最大斜度で14%くらいあったみたいw

ここからさらに農道を進んで、剱埼(つるぎさき)灯台へ

灯台に向かう途中で、さらっといい景色が飛び込んできたりするのがニクいw

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思わず脚を止めてパシャり。

さて、細い農道をうねうねと進み、右手に唐突に現れる岩畳の道に入っていくと、灯台が見えてくる。
ガイドがないと迷う人もいると言っていたけど、確かにこれは初見では無理だねw

せっかくなので、記念に一枚。

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灯台の奥からの景色も気持ちいい。

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ちなみに、灯台の近くからはさらに下に降りて行くことも出来たりする。
せっかくなので、みんなで降りてきた。

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さらに奥、海の近くまで行けるとのことだったんだけど、この日は朝方に小雨が降って地面がぬかるんでいたので、今回はパス。

宮川公園〜城ヶ島

ここからは再び県道215号に戻って、城ヶ島を目指す。
それにしても、平らなところがないw
上ったり下ったりw

途中、宮川公園という場所があり、ここには風車が。

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そのまま県道215号を進み、城ヶ島大橋を渡れば、城ヶ島
海鮮のお店がたくさん並んでて、これは期待大。

今回入ったのは、磯料理いけださん。

メニューをみると、様々な海鮮料理が。
あと、城ヶ島ラーメンなんてものも。
どの料理も美味しそうで、どれを食べるかなんとも悩ましいw

今回頼んだのは、いろいろな海鮮がのった海鮮丼。

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いや〜、これが美味しかったw

他の人が食べてた生しらす丼やまぐろ丼、しらすのかき揚げ丼とかもすごく美味しそうで、すごくよかった。
また食べにいきたいw

再び久里浜駅

ここからは再び久里浜駅に戻っていくんだけど、せっかくなので、自転車チェンジ!
2017年新作のフラグシップモデルであるFARNA ULTIMATEに乗らせてもらうことにした。

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一応、前日のサイクルフェスタの試乗でも乗ってはいたんだけど、やっぱり長い距離走ってみないと、分からないからねw

乗ってみると、やっぱり軽くて気持ち良い。
このスィっと進む感じはいいよねぇ。
まぁ、よく記事に載ってるような硬いとか柔らかいとかいったのはよく分からないんだけど(^^;
あと、今回はサイクリングということでほとんどスピードは出さなかったんで(ほとんど18km/h〜23km/hくらい、出しても30km/hくらい)、普段の巡行や(大体27km/h〜32km/h)、ガッと回したとき(35km/h〜)にどんな感じなのかは、ちょっと分からなかったので気になるところ。

城ヶ島を出てからは、予定では三崎口駅の西側を回って県道214号経由で再び海岸線に出る予定だったんだけど、ここで小雨が・・・
なので、急遽予定を変更して、国道134号を右に入っていき、ショートカット。
早々に再び海岸線に出るルートに戻っていった。

そんなこんなで、再び久里浜駅に到着!

最後はみんなで集合写真w

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距離こそ40kmちょっとと短めだったけど、いろんなところを回れてすごく楽しかった。
こういう機会がまたあったら、ぜひ参加したいなw

今日はここまで!

選択と責任の話。

哲学 読書

つい最近、『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた。』(以下、『ニー哲』)を読んだ。

面白かったので、感想とか思ったことはまた別に書こうと思うのだけど、キルケゴールサルトルの言葉を読んでいて、昔書いた文章のことを思い出したので、紹介。
ちなみに、書いたのは2005年8月12日。
そのときのタイトルは、「選挙に思うこと。」。
この文章自体、昔書いた文章の紹介を含んでて、その紹介してる文章を書いたのは、なんと2002年の頃w


昔書いた、選挙に対して自分が思ったこと。

自分は当時図書委員会に入っていて、そこで出していた広報誌に寄稿した原稿より。

〜〜〜

生徒会長はいつから「使える人」になったのか?

最近の選挙における公約を見ていて思ったのだが、生徒会長はいつから『使える人』になってしまったのだろうか?

最近の公約は、「学校をきれいにします」だとか、「長屋(※文化部部室棟のこと)の美化に取り組みます」だとか、あるいは今日出たものであれば、「学校の備品を修理したりします」というようなものが多かったような気がする。

でも、よくよく考えれば、そういった事は生徒会長にならなければ出来ないことなんだろうか?
学校の備品を修理します、というのならぜひともやって欲しい。
ただ、そんなのはわざわざ生徒会長にならなくたって出来るはずだ。

わざわざ生徒会長にならなくては出来ないことといえば、全校生徒を動かすこと――もっと言ってしまえば、学校としての政策を取り決める事のはずだ。

例えば、学校をきれいにしたいと思っているのだが、みんながなかなか動いてくれないのを嘆いている人がいたとしよう。
そこで、生徒会長になることで訴え、学校をきれいにしていくために「掃除を週3回に増やす(※男子校だったので、掃除は週2回、しかも軽くしか行われなかった)」というのを公約に挙げたとする。
そうすれば、みんなそれに対して賛成、反対の意を示すべく投票し、(恐らくはこんな公約では信任されそうもないが)もし信任されたらそれは多くがこの「掃除を週3回に増やす」という事に賛同してくれたということになるのだから、生徒会長としては公約通り掃除を週3回に増やし、また生徒には週3回掃除をやるという義務が生まれる。
選挙とは本来、このように、立候補者としては自分の実現したい事を掲げ、投票者の意向を調べるためにあるべきものなのではないだろうか?

しかし、現にある姿は「自分はこれこれのことを『してあげます』、だから信任して下さい」というような、こびへつらうような姿ではないのか?
まるで公約を実現するために生徒会長に立候補するのでなく、生徒会長になるために、とってつけたような公約を掲げているだけではないのか?
また、そうした事を『してくれる』のなら、会長にさせてやるよ、というような、投票者の姿はどうなのだろうか?

生徒会長はみんなのためにひたすら奉仕する『使える人』ではないはずだし、みんなだって生徒会長の行動による利益を享受するだけの人ではないはずだ。
むしろ生徒会長はみんなを引っ張り、またみんなは投票によって生まれた義務によって、生徒会長についていかなければならないはずだ。
(もちろん、盲目的についていかなければならないわけではなく、これはおかしいだろうということには反対する権利と義務を持つが)

もちろん、こんなのは理想論だといってしまえばそれまでだが、どの状態が理想なのかも分からないまま選挙が行われているのが現状なのではないかと思い、この文章を書いた。
ぜひとも考えてみて欲しい。

(※一部校正し、注釈を加えてあるけど、内容や文体は基本的に掲載時のもの)

〜〜〜

発行日を見ると'02.11.28とかなっていて、もう3年も前のことなのかと驚いたり。(※この文章を書いた2005年から見て3年前、ということ)
思えば、当時は自分も政治的な展開をしてたわけで、かなり熱く、また限りなく理想論を述べている(^^;
よく載せてもらえたものだ・・・

まぁとどのつまり、トップ丸投げ型の発想を批判したわけだけど、これは一高校の政治に留まることなく、日本全体における問題でもあるような気がする。
日本は歴史的に下からの改革(というか革命)がなかったものだから(あったとしても一揆とかで、政治的意志による革命――政治を自分たちの手のものへ、というもの――というよりは、反乱に近い)、政治はお上がやるもの、という意識が、民衆ーーというよりは大衆かなーーから抜けきっていないと思う。
政治というものが民衆の手に降りてきていない。

社会問題というのは政治家がスパスパっと解決してくれて、自分たちは何もしなくてもいいものだ、というのがさも当然であるかのように思われている。
本来的には、政治家というのはあくまで民衆の声の代弁者に過ぎないわけで、民衆がまずは政治的な主張や社会問題解決のための提案を行っていかなければならない。
で、そうした主張をしたからには、主張に対して責任と義務を負うことになる。

逆に、政治家の方にしてみても、社会問題というのは自分たちが解決してかなければならないという気負いがあるのか、自分たちが政治家である前に一国民であることを忘れて、その責任を一手に引き受けようとしている感がある。
ただ、裏返せばそれは、自らはその一人でないとする国民の政治参加を拒否する動きに他ならず(というのも、責任を共用しようとはしないわけだから)、度を越せば自分は愚かな大衆を導いているんだ、という発想が生まれてきたり、民衆への説明の不足(これは、民衆は問題について考える必要はなく、むしろ情報を与えることで下手に口を出されて困るんで、だったら最初から問題自体を民衆から隠してしまえ、という発想)が生まれてくる。

なお、このような意識は政治に関わる問題に収まることなく、いろいろな社会問題を引き起こしてもいる。
本質的なことを言えば、物事や行動に対する主体的意識の欠如と、それに伴う責任の欠如、となる。

例えば、よく何もしないくせに権利だけは主張してくる人がいたり。
これもやはり歴史によるところが大きいのだろうけど、権利というものは勝ち取るといったものではなく、お上からぽんと天下り的に与えられたり、あるいはそもそも自然に存在するものだという考えの人が多いんだと思う。
そこには主体的な意識(つまり、権利というものは自然にあるものではなく、自分自身によって獲得・維持しなければならないものである、という意識)というものはない。
となれば、権利というものはあって当然だという考え方なのだから、権利によって義務や責任が生じるだなんて思うはずもなく、先に挙げたような人が生まれてきてしまうというわけ。

ただ、勘違いして欲しくないのは、なんでもかんでも主体的意識を持って行動すべき、と言っているのではないということ。
もちろん各人には各人に出来る範囲のことがあるわけで、各人に受け持てる責任を超えて主体的意識を持とうとすると、今度はそれはそれで責任の欠如が生じ、本末転倒になってしまう。

ようは、何らかの行動をするのなら、その行動に対して責任を持ち、また自分が責任をとれないのならその行動をするな、ということ。
さらにいえば、自分が責任が取れないからということで行動をしないのであれば、その行動をしなかったことによって自分が不利益をこうむったとしても、それは「行動しなかった」という行動に対する責任であるのだから、文句を言うな、ということ。


当時から、「行動しなかった」という行動に対しても責任がある、ということを指摘していて、これは『ニー哲』でキルケゴールが言及していた「選択しない」という選択や、サルトルが言及していた自由の闇の部分に通じるものがあるなぁ、と。
ちなみに、キルケゴールサルトルは読んだことないw

以下、『ニー哲』から引用。

まずはキルケゴールと主人公アリサとの対話。

「自分の行動によって、自分の人生が変えられることに対する不安です」
「うーんそれって、素晴らしいことじゃないの?」
(中略)
「僕たちはつねに自由なんです。自由だからこそ自分で何かすることが出来る。そして逆をかえせば、自由だからこそ、何もせずにいることも出来るんです」
「自由だからこそ、何もせずにいる?」
「はい、例えば“何かを選択する”というと、何かを選んで行動することだと思いがちですが“何かを選択する”というのは、何かを選んで選択するだけではなく、何もしないという行動も選択できるということです」
「何もしないという選択、ですか」
「そうです。例えば“仕事を辞められない”と嘆いている男性がいるとしますね。彼は、辞められないのではなくて“辞めない”という選択をしているだけです」
「どうしてですか? だって、実際に辞められないかもしれないじゃん」
「どうして“辞められない”のですか?」
「例えば、上司からのプレッシャーとか、経済的な問題とか……」
「それは“辞められない”のではなく、上司からのプレッシャーや経済的な問題を無視してまで“辞めたくない”という選択をしているのです」
(中略)
「そうです。人は自分で気づいてないかもしれませんが、つねに選択しながら生きているのです。そして何かを選択するということは、選択しなかった可能性もしくは、選択肢として思いつかなかった選択の可能性が生まれます」
(中略)
「そうです。何かを選択するということは、“選択しなかった先の可能性”を生むことになるのです」
「そうすると、選択しなかった可能性に後悔することもある、ということだよね」
「はい。私たちは自由です。自由に生きているということは、何を選択してもいいという状況下にありますし、また“何も選択しないという選択”をとることも出来るのです」

次にサルトルとアリサとの対話。

「(省略)人が本質……つまり生きている理由、存在している理由を持たないということは、人は何ものでもなく、自由な存在であると言える」
「自由な存在であると言える、というのは、どういうことですか?」
「どのようにも生きていける、つまり人は自分をつくっていけるというわけだ」
(中略)
「つまり、現状の自分に固定されることなく、未来に向かって変貌をとげていけるのが人であり、どのように変貌をとげるかは、自分でつくっていけるというわけだ。しかし、ここでひとつ、注意して欲しい。自由には闇の部分がある。いいことばかりではない」
「闇の部分がある?」
(中略)
「そうだ。つまり自分で何ごとも選択して、変貌をとげていける分、それがどのような結果になろうともすべて自己責任ということだ。(省略)自由とは、自分が望んだものなんにでもなれる!という楽観的な意味ではない。すべて自己責任であり、たとえ望まない結果になろうとも、その結果ごと引き受けなくてはならないのだ」

この二つを足すと、自分の言説にだいぶ近いものになることが分かると思う。
もっとも、自分の言説はCLAMPに影響されている部分が大きいのだけどw

ちなみに、この議論の根っこには、「人には自由意志が存在する」という前提があったり。
これは刑法の基本的な考え方にも含まれていて、それゆえ、責任能力の有無が問題になったりする。

けど、じゃあ自由意志が存在しないとした場合も、責任をとらなければならないのか、という問題があったりする。
これに関して力強く「YES!」と答えているのがニーチェであり(そのために「永劫回帰」という概念が出てきてる)、自由意志とは無関係のレベルで「構造」が社会に存在し、自分たちの行動には、自由意志ではなく構造によるものもあるということを指摘したのが構造主義だったりする。

それが自分の意志による選択の場合はもちろん、自分の意志によらない選択であったとしても、その結果(これは良い場合も悪い場合もある)を受け取るのは、生きている「この自分」ーーもっと言えば、「この身体」ーー以外の何ものでもないので、その行動の責任(賞罰)は(場合によって大小はあれど)常に「この自分」で受け止め、そして「肯定」していかないといけないんだろうなぁ、というのが自分の考え。

無為に過ごして一日を無駄にしてしまったと思うことはよくあるけど、それすらも、それは自分が(自分の身体が)選んだ一つの道であり、何も悪いことではない。
『ニー哲』読むと、そうやって意識低く生きるのはダメなような気がしてくるけど、そんなことはない。
それも一つの「選択」なんだから。

自分の同人誌『哲学散歩道III』から引用。

さらに言えば、「この身体」からすると「正しさ」を求めることすら選択肢の一つにすぎません。
哲学散歩道Iの「正しくなくてもいいじゃない!?」を覚えているでしょうか?

一方では出来る限り正しくなりたいと思いながら、他方では程々の正しさでいいと思っているーー
結局、「正しさ」というのは誰のためにあるものなのでしょうか?
誰が何のために「正しさ」を求めるのでしょうか?
(『哲学散歩道I』より)

この答えも、今なら分かるかと思います。
「この身体」が「正しさ」を求めているのです。
そして、「正しさ」から得られる利益とそれに支払うコストには、当然トレードオフの関係があります。
それゆえ、このようなことが生じるわけです。
そして、「正しさ」をどれくらい求めるのかを決めるのは、あなたなのです。

今日はここまで!

大洗にまた自走で行ってみた。

自転車

年初めに大洗に自走で行ったけど、また行ってみた。

今回のルート

今回走ったのは、以下のようなルート:

基本的には前回と同じルート。
ただ、奥谷からのルートがちょっと違う。

前回は、奥谷から国道6号から降りたあとは、県道16号を使ってずっと東に進んで行き、涸沼の南側を回って行った。
ただ、途中までは平坦なものの、涸沼の近くからアップダウンが酷くて、疲れた脚にはかなり厳しいものが。

そこで、今回は涸沼の南は通らず、北側を通って行くルートを走ってみた。
分かりやすい道が見つからなかったので、細い道を縫って行く感じになったけど、正解だったと思う。
一ヶ所だけ短い登りはあったけど、他はほとんど平坦で、走りやすかった。
もうちょい分かりやすい道だと、ベストなんだけど。

大洗

そんなこんなで、約95km走って、大洗駅に到着!
さっそく記念撮影w

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着いたのが13時くらいだったので、さっそくお昼を食べることにした。

最初は、前回来たときはお正月でお休みだったブロンズで食べようと思ってたんだけど、たまたまお寿司屋さんが目に入って(大洗駅に向かうとき、左折しないといけないところで直進してしまったせいw)、ランチをやってるようだったので、そこにしようと向かう。

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戦車の立て看も立ってる栗崎屋さんw

で、メニューを見て驚いた。

ここ、「戦車寿司」をやってるお寿司屋さんだ!

これはぜひとも食べねば、と。
穴子も大好きなので、「戦車寿司」に穴子4貫がついたセットを注文。
ちなみに2,900円(税込)。

そして・・・

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どーん!!!

これはすごいw
確かに戦車の形になってるw

ちなみに、戦車の本体は握りを寄せ集めているのではなく、ご飯の塊があって、その上にネタが盛り付けてある感じ。
なので、お寿司というよりかは、ちょっと変わった海鮮丼に近いかも。
どのネタも美味しくて、すごく良かった!
穴子もあったかくてふわふわで、絶品!

あと、カウンターで食べてたんだけど、握られてた他のネタも美味しそうだったなぁ・・・
これはまた食べに行きたい。

ひたち海浜公園

さて、お腹も膨れたところで、大洗観光を・・・と思いきや、華麗にスルーw
いや、いくつかのお店は回ったんだけどね。

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秋山殿〜

ということで、前回来たときはやはりお休みだった年宝菓子店さんとか。

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ここでは大洗印のべっこう飴を購入。

秋山殿への愛情が溢れてて、とてもよかったw (許可もらって撮らせてもらった)

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じゃあ、大洗をスルーしてどこに向かったのかというと、ひたち海浜公園

そもそも、今回なぜ大洗に来ようと思ったのかというと、ひたち海浜公園のコキアの紅葉のポスターを駅で見たから。
丘一面が赤に覆われた写真がとても幻想的で、「なんだこれ!?」と驚いた。
これはぜひ見てみたいと思い、コキアの紅葉がピークになるこのタイミングを狙って、大洗までやって来たというわけ。

大洗からは、「祝町いささかりんりん通り」(県道108号)を通って、ひたちなか市へ。
海門橋を渡った後、突き当りを右に折れ、分かりにくいんだけど、五丁目の信号を左に入って行き、細い道を進んで行く。
八幡町の信号の次の信号を左に曲がり、あとはひたすら道なり。
突き当たりまで進めばひたち海浜公園
大洗からは10km強といったところ。

ひたち海浜公園

そんな感じで、ひたち海浜公園に到着!

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見ての通り、なんと、園内には自転車持ち込み可能!
基本的には手で押していないとダメだけど、園内をめぐるようにサイクリングコースが用意されているので、そのサイクリングコースでは自転車に乗っていいことになっている。
レンタサイクルもあるので、自転車を借りて乗ってる人がけっこういた。
(というか、基本はレンタル。けっこう人気らしく、返却待ちになってたけど)

ひたち海浜公園に来るのは初めてだったけど、思った以上に人がいっぱいいて、驚いた。
けっこう人気のある場所なのかな?
たしかに、小さい子供のいる家族にはもってこいという感じだったけど。

紅葉したコキアが目的で来たけど、園内には様々な花が!

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自然豊かで、これはのんびり過ごすのにとてもいいね。

さて、サイクリングコースをゆるゆると走りながら、紅葉したコキアの見られる「みはらしの丘」を目指して行く。

そして・・・

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おぉ!?

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おぉ〜!!!
これはすごい!

まず、左手に広がるのは、ソバ。

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次に、右手に広がるのは、コスモス

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そして、眼前には真っ赤なコキア!

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素晴らしい!

せっかく自転車も押して来たので、ちょろっと記念撮影w

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丘に登って見下ろした景色は、まさに圧巻!

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いや〜、良かった。

再び大洗へ

コキアを堪能した後は、再び大洗へ。

と、その前に、アイスを食べたりw

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紅葉したコキアをイメージしたソフトクリームで、美味しかったw
ちなみに味はクランベリーw

大洗に戻って来たあとは、磯前神社へ。

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参拝を済まして、シーサイドホテルへ。
そしたら、でかいボコがいたw

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ホントはここで戦車ケーキセットを食べたかったんだけど、1Fの喫茶はすでに閉まってた・・・
ケーキセット自体も完売だったみたいだけど。

じゃあ、とマリンタワーに向かったんだけど、マリンタワー2Fの喫茶店も17時がラストオーダーで、間に合わず・・・
ぐぬぬ

仕方ないので、潮騒の湯へ。

ただ、これも判断ミスで、お風呂でゆっくりした後でブロンズに行こうと思ってたんだけど、ブロンズも18時で閉店だった。
このとき先にブロンズに行っていれば、また違ったかも。

この辺りは事前調査不足だったので、次回はちゃんと調べてから来ないとな。

何はともあれ、潮騒の湯へ。

お風呂でさっぱりした後は、ちょっとごろ寝して、ブロンズが閉まってることに気がついたので、潮騒の湯で夕飯。

夕飯は、カキ煮込みうどんにお寿司のセット!

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これも美味しかった〜。

お腹もいっぱいになったので、これで今回の大洗への旅はオシマイ。
大洗駅まで向かって、自転車を輪行状態にし、帰宅!

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今日はここまで!

MacにErlangをインストールしてみた。

技術 Erlang Mac

最近、関数型言語に関してちょっと思うところがあって、いろいろ勉強中。
といっても、モナドとかではなく、並列性に関して。

それについてはまた別の機会に書くとして、今日はそれに関係してErlangMacに入れてみたので、それについて。

全体の流れ

最初に断っておくと、普通ならMacPortsとかHomebrewを使えば、簡単なはず。
ただ、自分はそのいずれも使ったことがない(^^;
似たようなものがいくつもあるので、いまだにどれを使うべきなのかがよく分かっていなくて。

ということで、基本的にはtarボールもしくはGitHubからソースを取得して、ビルドしていった。

そして、全体の流れは、以下のとおり:

  1. autoconfのビルド、インストール
  2. Erlang/OTPのソースのダウンロード
  3. パッチのダウンロードと適用
  4. Erlang/OTPのビルド、インストール
  5. Erlang/OTPのドキュメントのビルド、インストール

ちなみに、自分の環境は以下のとおり:

Mac OS X: 10.11.6 (El Capitan)
Xcode: 8.0
Clang: 8.0.0
autoconf: (インストールなし)

autoconfのビルド、インストール

まず最初に必要なのが、autoconfのビルドとインストール。

というのも、Erlang/OTPのソースをGitHubからダウンロードした場合、configureスクリプトが入っていないので、otp_buildを使ってconfigureスクリプトを作る必要があるから。
このとき、autoconfの2.59以降が必要になってくる。

自分の環境の場合、autoconf自体が入っていなかったので、まずはautoconfをビルドしてインストールする必要があった。
もし、autoconfの2.59以降が入っているのなら、この手順は不要。

さて、autoconfのビルドとインストールなんだけど、autoconfのソース自体は、GitHubからダウンロードできるようになっている。
けど、autoconf自体が入っていない場合には、GitHubからダウンロードするのではダメ。
なぜかというと、autoconfをビルドするためのconfigureスクリプトGitHubのソースには入っていないからw
GitHubのソースからautoconfをビルドしたい場合、ブートストラップーーすなわち、すでに入っているautoconfを使ってconfigureスクリプトを作ってやる必要がある。
鶏が先か、卵が先かw

幸い、tarボールにはconfigureスクリプトが入っているので、tarボールをダウンロードしてきて使えば問題ない。
http://ftp.gnu.org/gnu/autoconf/から適当なものをダウンロードしてくる。
自分はautoconf-2.69.tar.gzをダウンロードしてきた。

ダウンロードしてきたら、展開して、お決まりの手順でビルド&インストール。

$ tar zxvf autoconf-2.69.tar.gz
$ cd autoconf-2.69/
$ ./configure
$ make
$ sudo make install

特に問題はないはず。

Erlang/OTPのソースのダウンロード

次は、Erlang/OTPのソースをGitHubからダウンロード。

といっても、cloneするだけ。

$ git clone https://github.com/erlang/otp.git
$ cd otp/

そして、今後使うので、環境変数ERL_TOPを設定しておく。

$ export ERL_TOP=`pwd`

パッチのダウンロードと適用

さて、これで普通にビルドできればいいんだけど、どうやらバグがあるらしく、普通に手順を進めていくと、エラーになってビルドに失敗する(^^;

=== Entering application hipe
 VSN    hipe.hrl
 ERLC   ../ebin/hipe_rtl.beam
dyld: lazy symbol binding failed: Symbol not found: _clock_getres
  Referenced from: /Users/yasufumi/Development/erlang/otp/bin/x86_64-apple-darwin15.6.0/beam.smp (which was built for Mac OS X 10.12)
  Expected in: /usr/lib/libSystem.B.dylib

dyld: Symbol not found: _clock_getres
  Referenced from: /Users/yasufumi/Development/erlang/otp/bin/x86_64-apple-darwin15.6.0/beam.smp (which was built for Mac OS X 10.12)
  Expected in: /usr/lib/libSystem.B.dylib

/bin/sh: line 1: 46066 Trace/BPT trap: 5       erlc -W +debug_info -Werror +inline +warn_unused_import +warn_export_vars -o../ebin hipe_rtl.erl
make[3]: *** [../ebin/hipe_rtl.beam] Error 133
make[2]: *** [opt] Error 2
make[1]: *** [opt] Error 2
make: *** [secondary_bootstrap_build] Error 2

幸い、pull requestでこの問題の修正が投げられていて、特に問題もないようなので、このパッチを取り込んであげれば大丈夫だった。

自分がビルドした時点ではまだmaintブランチに取り込まれていなかったけど、おそらくしばらくしたら取り込まれるはず。
取り込まれていたら、以下の手順は不要。

まず、pull requestの変更を取り込むために、フォークされたリポジトリをリモートリポジトリに追加して、フェッチ。

$ git remote add rickard-green https://github.com/rickard-green/otp
$ git fetch rickard-green

そして、適当なブランチを用意して、変更をマージ。

$ git checkout -b quick_patch
$ git merge rickard-green/rickard/macosx-config-mess/OTP-13904

さらに、以下の環境変数を設定しておく。

$ export MACOSX_DEPLOYMENT_TARGET=10.11.6

これでOK。

Erlang/OTPのビルド、インストール

パッチのダウンロードと適用ができたら、いよいよビルドとインストール。

まずはconfigureスクリプトを作らないといけないので、otp_buildを実行する。

$ ./otp_build autoconf

これでconfigureスクリプトを作ってくれる。
最後にいろいろメッセージが出ると思うので、必要ならconfigureスクリプトに渡すオプションを変えること。

そして、お決まりの手順。

$ ./configure
$ make
$ sudo make install

ちなみに、make installを行う前に、make release_testsを実行すると、テストをしてくれるみたい。

これで何もエラーが出なければ、Erlang/OTPのインストールは完了!

Erlang/OTPのドキュメントのビルド、インストール

さて、これでErlang/OTP自体のインストールは終わりなんだけど、ドキュメントもビルドしてインストールしておいた方がよさそう。

ドキュメントをビルドするには、まず、PATH環境変数を追加する必要がある。

$ export PATH=$ERL_TOP/bin:$PATH

そして、ビルド&インストール。

$ make docs
$ sudo make install-docs

これでドキュメントもインストールされる。

動作確認

最後に、ちょっとした動作確認。

とりあえずErlangシェルを使ってみる。

$ erl
Erlang/OTP 19 [erts-8.1] [source-9e29e8f] [64-bit] [smp:4:4] [async-threads:10] [hipe] [kernel-poll:false]

Eshell V8.1  (abort with ^G)
1> 1 + 2.
3
2> io:format("Hello, world!~n").
Hello, world!
ok
3> q().
ok
4> 
$ 

ちゃんと動いていることが分かると思う。


ちなみに、今読んでる本は、コレ。

すごいErlangゆかいに学ぼう!

すごいErlangゆかいに学ぼう!

まだ全然最初の方だけど、Haskellとはまた全然違って興味深いw
動的型付けで副作用もあるので、あんまり関数型っぽくない感じ。
ちょっと(かなり?)構文にクセのある、オブジェクト指向のない、昔ながらのプログラミングを見てる気分(^^;

今日はここまで!

『人工知能のための哲学塾』を読んでみた。

読書 哲学 AI

人工知能のための哲学塾』を読んだので、感想とか。

人工知能のための哲学塾

人工知能のための哲学塾

この本は「何を」扱っているのか

ディープラーニングの成功によって、最近何かと話題になっている人工知能
ただ、この本で議論しているのは、そういった「人工知能の『技術』」についてではない。

あるいは、人工知能が発展してきたことで、自動運転が可能になったり、プロ棋士がAIに負けてしまったりと、社会が変わりつつあるような風潮がある。
そうなると出てくるのが、人工知能をめぐる社会的な問題。
例えば、自動運転で事故が起きたら誰が責任を取るのかや、人工知能に人の仕事が奪われてしまわないのかや、はたまた、人工知能が人類に対して反乱を起こしたりしないか、などなど。
けど、そういった「人工知能をめぐる『社会的な問題』」の議論をしているわけでもない。

それらの内容を期待してこの本を買うと、ちょっとガッカリするかも。
もしかしたら、いい意味で期待を裏切られて、知的好奇心を満足させられるかもしれないけど。

じゃあ、この本で扱っているのは、人工知能の「何」なのか?

誤解を恐れずにあえて書けば、それは人工知能の『心』」
「『知能』とは何なのか?」を人工知能を通して哲学しながら、その実、その対象は上辺の「知能」を通り越し、より深いレベルの「知能」ーーすなわち、「この『心』とは何なのか?」を考えている。
それがこの本。

と、ここまで書くと、何とも野心的な、すごい本のように感じられるだろうけど(そして、実際そうなんだけど)、自分の感想は「いろいろ惜しい本だなぁ」と。
もちろん、知能を考えるうえで、「身体性」というものがどれだけ重要なのかということに気付けているだけで、そこらへんの哲学書なんかよりもずっと鋭いんだけど、惜しいかな、問題意識が伝わってこないので、「哲学的な議論」と「人工知能に関する議論」がどう結びついているのかが伝わってこない。

ある意味、致命的とも言えるのだけど・・・

例えるなら、そば屋に行ったら、なぜか主人がうどんについていろいろ語ってくれて、その話はとても納得できるものだったし、出てきたそばも絶品で美味しかったんだけど、なんでそばじゃなくてうどんの話をしたの?というような。
もちろん、そば屋の主人からしたら、そこでうどんについて話すことは必然だったんだろうけど、そば屋の主人の問題意識(例えば、「美味いうどん」とは何かを知らないで、それに勝って選ばれ続ける「美味いそば」を出し続けられるはずなどない、とか)を知らない客からしたら、うどんの話とそばとの関係がよく分からず、「?」となってしまう。

この本もそういうところがあって、哲学の議論も(慣れてないと難しく感じるだろうけど)読めば納得できるものがあるし、人工知能の議論も興味深いものがある。
けど、その2つがどう繋がっているのかがよく分からないということが多かった。

もちろん、自分は似たようなことを考えてきたので、問題意識を推測することが出来て、こういうことが言いたかったのねというのはある程度伝わってくるのだけど(それでも結びつきが「?」な部分はけっこうあった)、そうでない人には、哲学的な部分の難しさもあいまって、「何が言いたいのかよく分からない」となってしまいそうに感じた。
結論はいいものなのに、議論を追うことでそこに辿り着いてくれる読者が、果たしてどれだけいるのか・・・

人工知能の「課題」は何なのか

ということで、ここからはこの本のガイド。
この本で議論されている各要素が、どのような繋がりを持っているのかについて、書いてみたい。

まず、根本的な話として、三宅先生の問題意識は何なのか、ということ。
これはすなわち、ゲームAIの開発者である三宅先生が、現状のゲームAIの開発において、「課題」であると思っていることは何なのか、ということになる。

現状のゲームAIの開発において「課題」となっていること、それは、ゲームのキャラクターが、自らの意思を持って動く主体的な存在に見えず、外側から操られて動く操り人形に見えてしまうこと。

これは、古典的なRPGのキャラ(NPC: Non Player Character)とオンラインRPGのキャラ(PC: Player Character)を比較してみれば、分かりやすい。
NPCは外側からプログラムで動かされているだけで、決まりきった動き、反応しか返さない(返せない)ので、「何かをしよう」という意志は感じられない。
一方、PCは、その背後には実際に何かを感じ、判断を行い、操作している人間がいるので、決まりきった動き、反応しか返さないということはなく、それゆえ、「何かをしよう」という意志が感じられる。
もちろん、PCの動きは人それぞれなので、NPCにしか見えないPCがいることもあるけど・・・

もし、ゲームのキャラクターが、決まりきった動きをするだけでなく、自らの世界を獲得し、自らの意志を持って動き出したとしたら、どうだろう。
ゲームはきっと、より面白いものになってくれる。

そこで、そのような「主体的に行動する」ゲームのキャラクターを作り出すには、どうしたらいいんだろう?というのが、三宅先生の問題意識。

さて、いま見たようなキャラクターの人工知能を作るには、二つのアプローチがあります。
すなわち、

  • 外から「知性を持ってふるまっている」と見えるように作る
  • 中から主観的な知性を作る

という方法です。
前述したパス検索は、外側から制御し、プレイヤーから見て知能を持っているようにふるまうための技術です。
しかし、外側から制御するという発想ではどうしても到達できないところがあります。
プレイヤーには、制御されているものと自律的に考えているものの区別がはっきりわかるのです。
(中略)
しかし、キャラクターの人工知能で必要なことは、機械的な仕組みだけでなく、生物の持つ主観的な世界を人工知能(キャラクター自身)に与えてあげることです。
では、「どのように生物の持つ主観的な世界を形成すればよいか?」というのが、僕のもっとも根幹にある意識です。
主観的な世界を持つことで、操り人形のようなキャラクターはそのゲーム世界で生き生きと生きるキャラクターへ変貌し、ユーザーに知能と遭遇するという新しいリアリティと体験を与えるのです。
(『人工知能のための哲学塾』第一夜より引用 ※強調は自分が付与)

ところで、上記のような提案すると、次のような意見が出てくるかもしれない:
それは単に、外側から制御するアルゴリズムが単純すぎるだけで、より複雑で巧妙になれば、「主観的な世界」とか考えなくても、生き生きしたキャラクターは作れるんじゃないか。

こういった意見をそもそも本では取り扱っていないんだけど(おそらく、三宅先生の中では「いや、どんなに複雑で巧妙になろうと、ダメなんだよ」と結論が出てるから)、実際のところ、難しい。
というのは、その主張は第三夜に書かれている方法論の延長線上にあるもので、哲学的には「『記号』を世界全部と対応させることは可能なのか」という問題や「『欲求』をどう扱えばいいのか」という問題があったり、また、本には書かれていないけど、数学的には「フレーム問題」という頭の痛い問題が転がっているから。
これらについては、後述。

人工知能への古典的なアプローチ

ところで、本では第一夜から現象学を扱っていて、デカルト的な機械論(つまり、人工知能に対する古典的なアプローチ)を乗り越える話から始まっている。
いや、そこは重要な話なんだけど、いきなりそこから始まっても、おそらくほとんどの人は「?」だと思う・・・
なぜって、そもそも、乗り越えようと思っている古典的なアプローチというものがどんなものなのかが分かっていないから。

この、人工知能への古典的なアプローチについて書かれているのは、第三夜。

これまでの人工知能の研究は、数学的な枠組みで、人間の「論理的な思考」を写しとることで、機械にも同様の「論理的な思考」が出来るようにすることを目指してきた。
その発端とも言えるのがデカルトで、公理から演繹を重ねることで誰でも真理に到達できると解き、それをライプニッツフレーゲが記号の運用という形で引き継いで、ヒルベルトが(書かれてないけど)形式主義を打ち立てた、という話。
その結果、「意味」を考えずとも「形式的な」記号の操作をすることで「証明」が出来るようになり、それを応用した論理プログラミングが生まれた。

これは、三段論法を考えてみると、分りやすい。

三段論法というのは、「 A である」「 A ならば  B である」という前提から、「 B である」が正しいという帰結を出す論法のこと。
このとき、 A とか  B には何が入ってもいい。

例えば、「今日は月曜日である」「今日が月曜日なら、明日は火曜日である」という命題が真であれば、「明日は火曜日である」という命題も真となる。

このときポイントとなるのが、 A B の「意味」を知らなくていい、ということ。
なので、「意味」を理解できない機械でも、真である命題の集合(モデル)が与えられれば、そこから真となる様々な命題を「形式的に」導き出すことが出来る。
すなわち、「機械的に」論理的な思考が出来るようになる、と。

これが古典的な人工知能の考え方で、「意味」なんてよく分からないものは扱わないで、「形式」だけ扱うことで、論理的な思考を実現しようという発想になっている。

これは、第四夜で扱われている構造主義に通じるものがある。

構造主義では、「真理とは何なのか」や「どうしてそうなるのか」といったよく分からないものは横に置いといて、「いろいろ観測すると、(どうしてかは分からないけど)こういう共通した構造がある」とか「(どうしてかは分からないけど)こういう構造があると想定すると、いろいろ分りやすく説明がつく」といったように、「モノそれ自体がなんなのか?」を問うのではなく、「モノとモノとの間にある関係(構造)」を抜き出していく。
そして、その抜き出された構造を使うことで、物事に説明をつけていく。

上のように言うとちょっと分かりにくいかもしれないけど、これは物理を考えてみると分りやすい。

例えば、地球上でボールを持っていて、手を離せばボールは当然下に落ちる。
何回やっても、毎回同じように下に落ちる。
これはなぜかといえば、重力が働いているからなわけだけど、「なぜ重力が働くの?」と言われれば、難しい。
「物体と物体の間には引力が働くようになっていて、その引力は質量が大きいほど強くなるから、質量の大きい地球は引力も強く、それゆえボールは下に落ちる」とか、説明をつけようとするわけだけど、「じゃあ、なんで引力が働くの?」とか「力が加わると物体に加速度が生じるのはなぜ?」とか、「なぜ?」の疑問にはキリがない。
そこで、そういった「なぜ?」の質問は置いといて、「物体と物体の間には引力が働く」「力を加えると物体に加速度が生じる」という構造(関係性、法則性)だけを抜き出す
これが構造主義的な考え方。
そうすれば、「なぜ?」の疑問には答えられないけど、いろいろな問題に対して、具体的な答えを与えることは出来る。

本には書かれていないけど、構造主義的なアプローチで作られる人工知能として、人工無脳というものがある。
これは、人間の会話を模倣するAIで、単語の意味とかは知らないけど、単語間の繋がり、会話での文の繋がりには一定の規則があるので、その法則性を抜き出し、法則性に従って文を組み立てることで、会話を実現するというもの。
もちろん、実際にやっているのは記号処理だけなので、どんなに巧みに会話をしようが、その会話が現実世界において何を指し示しているのかは、一切理解していないのだけど。
(興味のある人は「中国語の部屋」を検索してみるといいかもしれない)

ちなみに、人工無脳については以下の本が面白かったので、興味のある人は読んでみるといいと思う:

古典的なアプローチの問題点

さて、これまでの議論を見ると、至極まっとうなアプローチで、何が問題なのか分からないと思う。

実際、何でダメなのかについては、本でもあまり明確には書かれていない。

記号接地問題

本でさらっと指摘している問題は、「記号接地問題」というもの。
すなわち、「『記号』を世界全部と対応させることが出来るのか」という問題。

たしかに、世界全部を記号と対応させることが出来たのなら、その記号の中で人工知能は自由に思考を展開することが出来るだろう。
(ホントは「フレーム問題」という厄介な問題がいるのだけど・・・それは置いといて)
けど、そもそも世界全部を記号と対応させることなんて、可能なのか?

これは構造主義で指摘されていることだけど、記号が世界をどのように切り分けるのかは「恣意的」であることが分かっている。
例えば、日本なら虹は七色に切り分けられるけど、アメリカなら六色が普通だし、国によっては三色だったり、場合によっては二色(明るい色と暗い色、といった分類)だったりする。

「そんなの、どうやって切り分けるかだけで、お互いの合意さえ取れれば意図は通じあうでしょ?」と思うかもしれないけど(自分も最初そう思った)、実際にはそれでは済まされない。

例えば、色の見えない人に、「色の感覚」を伝えることが出来るかどうか。
「色の感覚」を伝えられなくても、RGBの値を伝えれば問題ないじゃないか、とも思うかもしれないけど、話はそんな簡単じゃない。

ちょっと昔に、次のようなツイートが話題になった:

ドレスが白と金に見えるか、青と黒に見えるか、という話題。

上のツイートのドレスの端の部分は、RGB値にすると、まったく同じになっている。
けど、実際には、白と金のドレスに見える人と、青と黒のドレスに見える人がいる。
これは、色をRGB値でしか色を認識できない人には、まったく意味の分からない話題だ。

さて、じゃあこの「色の感覚」というものを、どうやって「記号」で表現するのか?
当然、これを「記号」で表現できないのなら、その人工知能は、この話題について話すことは出来ない。

これは第二夜の話と繋がることだけど、このように、「世界をどのように見るのか」というのは、身体と切っても切れない関係があったりする。
それを無視して、世界全体を記号と対応付けられるのかというと、難しい。

「欲求」の扱い

また、本では別の指摘として、「『欲求』をどう扱えばいいのか」ということを挙げている。

「仕事を早く片付けなければならない」でも「お腹が空いた」というところから、「もういいや、ご飯食べちゃおう」と思うのか、「でも、もうひと頑張りしよう」と思うのか。
前者は要求を優先させた結論で、後者は論理的思考(理性)を優先させた結論なわけだけど、このように、欲求と論理的思考というものは、相反する場合がある。
このとき、どのように折り合いをつけたらいいのか、という問題。
もう少し言うと、このように欲求と論理的思考とが相反したときに、論理的思考(機械的思考)だけで、どちらにもなりうる思考というものが生まれてくるのかどうか?

欲求に従って動くことしか出来ないキャラクターは、知性的だとは言い難い。
かと言って、欲求に負けることがなく、論理的な思考しか出来ないようなキャラクターもまた、人間離れしていて魅力的だとは言い難い。

例えば、RPGでゲームのキャラクターと一緒にラスボスに臨んだとする。
このとき、我が身可愛さで逃げることしかしないキャラクターというのではダメだし、逆に、恐れも知らずにただ突っ込むだけのキャラクターというのもまた、非人間的でダメ。
「くっ、俺はもうダメかもしれないが、死んでもここは食い止めるから、その隙にあいつを倒すんだ!」というセリフを吐いてくれるようなキャラクターじゃなきゃ、面白くない。
けど、死にたくないという欲求と、ラスボスを倒さないといけないという論理的思考がせめぎ合う葛藤を、論理的な思考一本だけで、生み出せるものなのか。
論理的思考で導き出されるのは、真か偽か、それだけだ。

フレーム問題

最後にーーそしてこいつが一番厄介なんだけどーー「フレーム問題」というものがある。
(これは本では触れられていない)

感覚的な話で説明されることが多いけど、これはつまり、真となる命題の数が膨大すぎて、どれとどれをどう組み合わせたら、今欲しい「答え」に辿り着けるのかが、実用的な時間の範囲内で求まらなくなるという問題。

例えば、今、真である命題(=知識)が10個あるとする。
ここから、2つの知識を用いて、ある命題が正しいかどうかを推論したいとする。
そうすると、知識の組合せは、 10 \times 9 \div 2 = 45 通り。
45通くらいなら、あっという間だ。

じゃあ、今度は10個の知識のうち、5つの知識を用いて、ある命題が正しいかどうかを推論したいとする。
そうすると、知識の組み合わせは、 (10 \times 9 \times 8 \times 7 \times 6) \div (5 \times 4 \times 3 \times 2 \times 1) = 252 通り。
まだまだ余裕・・・?

それなら、今度は知識の数を100個にして、そのうち50個を使うようにしてみる。
この場合、知識の組合せは、 (100 \times 99 \times \cdots \times 51) \div (50 \times 49 \times \cdots \times 2 \times 1) \fallingdotseq 1.0 \times 10^{29} 通り。
わぉ。
これは無理。

たった100個の知識を組合せようとしただけでも、こんな酷いことになってくる。

「いやいや、普段考えるとき、100個も同時に知識を使ったりしないよ」と思うかもしれないけど、そこが人間のすごいところで、必要であるたった数個の知識を膨大な数の知識の中から「直感的に」引っ張ってこれるのは、人間だからこそ。
そういったことが出来ない機械は、まったく関係のない知識だろうと何だろうと、とにかく組合せて使えるものかどうかを判断しないと始まらない。

これはコンピュータ将棋とかを考えてみると分りやすいと思う。
コンピュータは、ある程度、枝刈りという方法を使って読む手を限定しているけれど、基本的には全部の手を読む。
一方、プロ棋士は、正解と思われる数手を中心に読む。
(そういったことが「直感的に」出来る)
そのせいで、コンピュータは人間に比べて膨大な計算量を誇るけど、効率という意味ではとても敵わないとなってくる。

が、最近のコンピュータ将棋やコンピュータ囲碁(特にAlphaGo)の活躍を見ていると、より上手い方法が見つかり、コンピュータの計算速度も上がれば、効率が悪くてもなんとかなるんじゃないの、と思えてしまうのも、また事実。

これについては、 P \neq NP 予想という数学の大問題が関係してくる。
この予想は、コンピュータの計算速度がどんなに速くなっても、問題のサイズが大きくなると、途端に手のつけられなくなる本質的に難しい問題というものが存在するだろう、という予想。
これまでに述べたような、組合せの数が急激に大きくなる現象のことを「組合せ爆発」と言ったりするのだけど、この予想が正しかった場合、そういった組合せ爆発を起こす問題は、組合せ爆発を起こさないような簡単な問題には変換できないことになる。
(※厳密には違うのだけどーーというのは、計算量は上から抑えるので、無理やり組合せ爆発を起こさせるアルゴリズムを作ることは容易に出来てしまうからーーここでは、そうやって意図的に組合せ爆発を起こさないものとしている)
なので、 P \neq NP 予想が正しかった場合、どんなにコンピュータの計算速度が速くなっても、膨大な知識が存在する「世界」においては、それは「焼け石に水」にしかならない。

知能を「より深く」、「ありのまま」観る

ここでやっと、第一夜の議論に辿り着ける。

これまで議論してきたように、古典的なアプローチでは、限界がある。
そこで、それを乗り越えるためには、どうしたらいいんだろう、という話になる。

これまでの古典的なアプローチの何が問題なのかというと、本質的には、知能の「上辺」の部分しか見ていないところにある。

これは、小さい子の描く絵を思い浮かべると、分りやすい。
丸い顔を肌色で描いて、その中に黒い丸をグリグリと二つ書いて目とし、オレンジ色で鼻を塗って、赤い線で口を描く。
首があって、四角い胴体があって、そこから横に腕が二本、下に脚が二本生えている。
空は水色、太陽は赤、地面は茶色。
そして、背景は画用紙の白。

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こんな感じw

実はこれは、小さい子が「見たまま」を絵に描いているのではなく、「観念」を絵として表現していることを意味している。
「顔」には「目」、「鼻」、「口」というパーツがあって、「顔」は丸くて肌色、「目」二つあって黒、「鼻」は一つあって肌色なんだけど、肌色で描くと鼻が見えないから、それっぽいオレンジで描くことで「鼻」があることを分かるようにし、「口」は一つあって赤。
「胴体」があって、「腕」と「脚」は二本ずつ。
上には「空」と「太陽」、下には「地面」があって、「空」は空色、「太陽」は赤で、日差しを放ち、「地面」は茶色。

この絵を見ると、いろいろおかしいところが見つかって(例えば、鼻はオレンジじゃないとか、股がないとか、太陽を実際に見ると赤くないとか、背景の白い部分は現実には何か存在しているとか)、ダメだなぁと思うわけだけど、人工知能の古典的なアプローチというのは、本質的にこれと同じことをやっている。
すなわち、「モノ」や「概念」を「記号」として表現し、その「繋がり」を描くことで、「知能はこうなっているんだ」と主張している。

上のように指摘すると、古典的なアプローチというのが、方向性としてどれだけ幼いものなのかに気がつくと思う。
(と同時に、人間の凄さも感じるーーそんな小さい子ですら、物事を「観念」と「その繋がり」の中で理解しているわけだから)
そして、このチグハグに描き出された知能を、どのようにすれば「まともな」知能として描き出すことが出来るようになるのかという方向性も見えてくる。

それはつまり、「観念」は一旦忘れて(エポケー)、「ありのまま」をまずはちゃんと見て(現象学的還元)、そこからどのように「観念」が見出されてくるのかという「心の働き」(志向性)を観測するという方向性。
これが現象学の方法論。
そして、この方法論を使うことで、古典的なアプローチが取りこぼしていた、「観念」が発生するよりも前の、より深い心の働きをキャラクターに実現させようというのが、三宅先生の目論見とも言える。
ここで取り扱うのは、記号化される以前の現象そのものなので、記号接地問題は起きないし(これはもう少し考慮する必要があるーーそれが第二夜の話に繋がる)、欲求というものも当然現象なので、扱えるようになるし、フレーム問題も、数多ある知識を相手にするのではなく、目の前にあるーーあるいは心に浮かんできたーー現象(知識)だけを扱えばいいとなるので、起こらなくなる。
(もっとも、今度は逆に、「心に浮かばなかった」というところから、「その問題は想定外でした」となる問題が起きてくるわけだけどーーただ、それはそれで、人間らしいとも言える)

こういったことを踏まえて第一夜を読むと、より内容が伝わってくると思う。

「世界」は誰にとっても同じなのか

これで「現象学」という方法論を得たわけだけど、下手すると、ここで罠にハマってしまう場合がある。
というのは、現象学では、「身体が世界を見ているんだ」とかいうことすら忘れて考え始めるから。
なので、身体の存在を忘れてしまい、意識こそが至高、意識こそがすべてなんだという「意識だけの世界」に引きこもってしまう危険性がある。

「忘れる」というのは、「それを当然のように使える前提では無くす」ということであって、「それを否定する」というところまでは言っていないことに注意しないといけない。
意識だけのところから世界を観測した結果、「身体が世界を見ているんだ」というふうに自分たちは捉えているんだ、という帰結が得られるのは、何も問題ない。
これは、 \lim_{x \to \infty} \frac{x}{x - 1} = 1 というのを、無反省な計算で求める(分子分母を  x で割り、 \frac{1}{x} \to 0 (x \to \infty) であることを利用する)のは一旦やめて、 \varepsilon - \delta 論法から捉え直して、正しいと帰結するのに似ている。

三宅先生が幸運だったのは、キャラクターに身体があったことだと思う。
そのおかげで、このような「意識だけの世界」に引きこもってしまうということを防げた。

さて、「ありのまま」を見ていくとしたわけだけど、その「ありのまま」というのは、何にも依存することなく、誰にとっても同じものになるのか、というのが、第二夜の話。

ここで引き出されるのが、生物学の知見。
つまり、「ありのまま」見ると言っても、その「ありのまま」というのは、環境と身体に大いに依存しているという話。

例えば、上の方で記号接地問題について書いたとき、色の見えない人にとって「色の感覚」というのは何なのか、ということを書いた。
これはまさにこのことを表現していて、つまり、色の見えない人にとって、「世界」というのは「色のない世界」ということになる。
「世界」にないのだから、当然それについて語ることは出来ない。

色の見える人がほとんどなので、「色のない世界」がその人にとっては「世界」なんだと言っても、実感が持てないかもしれないけど、それなら、逆に考えてみるといい。

例えば、周りの人間がみんなニュータイプになったとしたら、どうだろう。
よく分からないんだけど、とにかく直感で、みんなは「分かっている」。
その「とにかく直感で分かる」という謎の感覚を自分も分かろうとするんだけれど、分からないものは分からない。
「それってXXXっていう感じ?」とか聞いてみても、「いやー、そういうんじゃなくて」という反応しか返ってこない。
これは、自分にとっての「世界」というのが、ニュータイプのみんなの「世界」とは異なっているから。

もし、何かのきっかけでニュータイプになれたとしたら、「あぁ、こういうことだったんだ!」と目が開ける思いがするだろう。
そして、自分が過去に聞いていた「XXXっていう感じ」というのが、どれほどズレたものだったのかというのも、分かるだろう。
けど、そうなるには、自分がニュータイプになって、その感覚(クオリア)を実際に経験してみないことには、始まらない。
だって、それは自分の「世界」の「外側」なのだから。
(気になる人は、「マリーの部屋」で検索してみるといい)

このように、「知能」をちゃんと考えるなら、まず上辺の「論理的思考」だけを見ててもダメで、さらに「心の働き」だけを見るのでも足りなくて、「環境と身体の関係」ーー特に、身体は環境から何を受け取り、環境に対して何を行えるのかというインタフェースーーについてまで考えないといけないということが見えてくる。
そして、「知能」について考えてたはずなのに、いつの間にか、思索は「身体」にまで及ぶことになる。

「身体」について考える

そうして議論は、第五夜の身体の話に辿り着く。

現象学的に知覚、そして身体を研究したメルロ=ポンティを引き合いに出しつつ、身体に対する様々な実験の結果を通して、自分たちが「身体」というものを(そして「身体のイメージ」を)捉えているのかについて、議論されている。

ここで議論されている遠心性コピーというのは、非常に面白い。
そして、身体感覚を持ったキャラクターを作る上で、考慮に入れないといけない項目だと言える。

この遠心性コピーというのは、すごく簡単に言ってしまうと、針で指を刺したときに、「痛っ!」という感覚を「指に」感じる仕組みとも言える。
「痛い」という判断をしているのは「脳」なのに、実際に「痛い」と感じられるのは「指」の方であるというのは、クオリアをめぐる議論で、よく取り上げられる。
これは、遠心性コピーを考えると分かりやすくて、つまり、「指」が痛いと感じるのは、脳で作られた身体のイメージの「指」に対して遠心性コピーが働くから、と考えると、スッキリする。
身体の外部からの情報と、身体の内側からの情報が統合されて現れるイメージが、そこにはある。

以下は自分の書いた同人誌からの引用。
哲学少女のゆうらがお風呂の中で自分の身体について思索を巡らせているシーン。

改めて考え直してみると、腕の感覚が(痺れて)なくなったって、その腕の動脈にカッターをスゥーッと走らせたなら、血はどんどん溢れ出て、やがて僕は意識を失い、そして死んでしまう。
そういう意味で、僕の腕はたとえ感覚がなくなったとしても、やっぱり僕の身体なんだ。

きっと、「僕の身体」と言っても、そこには二つの「僕の身体」が存在するんだろう。

一つは物理的な「僕の身体」。
その「僕の身体」は僕を生かし、僕を僕としてくれている。
この「僕の身体」は非常に寡黙だ。
意識の下で黙々と働き、普段認識されることもない。
けど、そういった「意識」や「認識」が生まれているという事実が、暗黙的にその「僕の身体」の存在を教えてくれることになる。

もう一つは意識によって認識された「僕の身体」。
僕は感覚によって「ここまでが僕の身体」という境界線を引くことになる。
この「僕の身体」は非常に雄弁だ。
いろんな感覚を僕に教えてくれるし、僕もそれによって身体をどのように動かそうかと意識を向けることになる。

この二つの「僕の身体」は表裏一体として統合されていて、普段そのズレを意識することはない。
けど、腕が痺れたりしたときには、そこにズレが生じてくる。
そのせいで「僕の身体なのに僕の身体じゃないようだ」ということが起きてくる。

(中略)

そうやって考えたときに、簡単にズレが生じてしまってもおかしくない二つの「僕の身体」が、まるで一つしかないかのように一体混然となって存在しているという事実は、不思議に思えてくる。
あまりに重なりすぎていて、寡黙な物理的な「僕の身体」の声に気づけず、「なんで『僕』は『僕』なんだろう?」と考えてしまう人がいるくらいに。
(これは物理的な「僕の身体」が「僕」という意識を生み出しているのだから当然だ。けど、寡黙な「僕の身体」の声に気がつけないと、「僕」という意識と、意識によって認識された「僕の身体」の繋がりの必然性が見出せずに、このような疑問が生じてくる)

改めて身体に意識を向けると、そこには二つの「僕の身体」が一つあった。

(『ゆうら 意識の眼差し』より引用)

遠心性コピーというのは知らなかったけど、似たような考えに至っていたので、まさに本で議論されていたような内容になっているのが面白い。

それと、強化学習の観点から見ても、これは面白い内容だったりする。

強化学習の手法の一つに、プランニングというのがある。
これは、環境との相互作用によってAIが直接学習を行うだけでなく、その相互作用をモデルに反映することで、モデルからも学習を行おうとする手法。

遠心性コピーがやっていることは、これにかなり近い。
遠心性コピーによって身体のイメージを作るというのは、このモデルへの反映に相当している。
そして、そのモデルを使うことで予測を行えるようにし、うまく身体を動かせるようにしているというわけだ。

さらに先へーー受動意識仮説

ここから先は、本には書かれていない内容。

さて、知能を考えるには、より深い、身体の知能にまで考えを巡らせないといけないということが、本では見えてくる。
そのうえで、「論理的な思考」と「身体の知能」をどう結びつければいいのか、という話が出てくる。

これに関して本で言及していたのは、「先導レベル」という概念。
「先導レベル」というのは、意識レベルでの「〜をやろう」という意思のこと。
例えば、腕を動かす場合、「腕を動かそう」という意識レベルの意思が「先導レベル」で、それを受けて、あとは身体がうまいことやってくれる、と考える。

けど、そんな「先導レベル」なんて本当にあるの?というのが、大きな問題。
というのも、リベットの行った、興味深い実験結果があるから。

リベットの実験とは、次のようなものだ:

リベットは、時計回りに光の点が回転する時計のような点滅型モニターを作った。
そして、脳に運動準備電位を測るための電極を取り付けた人に、モニターの前に静かに座ってもらった。
その人には、心を落ち着けてもらい、「指を動かしたい」という気持ちになったときに、指を動かしてもらった。
さらに、「指を動かしたい」と自発的に「意図」した瞬間に、光点の位置がどこにあったかを尋ねた。
つまり、「意識」が「動かそう!」と「意図」する指令と、「無意識」に指の筋肉を動かそうとする準備指令のタイミングを比べたのだ。
(中略)
人が指を「動かそう!」と「意識」するのが最初で、その指令が随意運動野に伝わるから、「無意識」のスイッチが入り、運動準備電位が生じ、最後に指が動くんじゃないか。
(中略)
ところが、結果は衝撃的だった。
なんと、「無意識」下の運動準備電位が生じた時刻は、「意識」が「意図」した時刻よりも350ミリ秒早く、実際に指が動いたのは、「意図」した時刻の200ミリ秒後だったからだ。
(『脳はなぜ「心」を作ったのかーー「私」の謎を解く受動意識仮説』著:前野隆司 より引用)

これは非常に面白い。
つまり、自分たちは、「〜をやろう」と思って身体が動く準備を始め、そして身体が動くと思っているけど、実験結果は、身体が動く準備を始めたあとに「〜をやろう」と思い、そして身体が動くというものだったということだ。

この実験結果と<私>をめぐる考察から、前野先生は「受動意識仮説」という面白い説を出している。

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

この本では、身体のイメージという話にまでは及んでいないけど、フィードフォワード制御については語られている。
そういう意味でも、一緒に読んでおきたい本だと言える。
(前野先生は、ロボットの制御工学が専門(だったはず))

「身体性」の必要性に関する議論

また、人工知能の「身体性」を考えるのがどう重要なのかについては、このブログでもいろんな観点から述べてきた:

これらの記事も、ぜひ参考に。

今日はここまで!

人工知能のための哲学塾

人工知能のための哲学塾

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

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