いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

「この身体」の位相性について。

昨日、シンギュラリティに関する話をした。

ここでは最後にステークホルダーになるための身体の必要性について述べた。
そのことに関して、昔自分が書いた文章をちょっと思い出したので、紹介したいと思う。

ちょびっツのツの字

自分はCLAMPが好きなんだけど、『ちょびっツ』という作品のファンブックで、『ちょびっツのツの字』という冊子が昔出たことがある。

ちょびっツ(1) (ヤングマガジンコミックス)

ちょびっツ(1) (ヤングマガジンコミックス)

このファンブックの企画で、『ちょびっツ』の感想文・作品論の募集というのがあった。
自分も喜び勇んでいくつかの作品論を投稿して、そのうちの一つ、「『存在』と『有用性』について」という文章を載せてもらったり。

以下の文章も、投稿した文章の1つで、タイトルは『いっちゃんにおまかせ!』というもの。
書いたのは2003年頃。
当時、高校生w
けっこういろんなことについて言及しているんだけど、最後の部分がAIにちょっと関係している。

なお、いっちゃんさんの語りという形で書かれてるので、似非関西弁で読みにくいと思うけど、そこはご愛嬌で。


ちょびっツ』において注目すべきことの一つに、やはり『エンジェリックレイヤー(以下、A.L.)』の世界とのつながりがあると思います。
そこで本日はゲストをお呼びしてこのこととその周辺について語ってもらいたいと思います。
本日のゲスト、A.L.創作者にして人型パソコンの創始者、三原一郎さんですー!

スパン!(司会者をハリセンでひっぱたいた音)

・・・いっちゃん言えゆうたやろが。
あ〜、コホン、いっちゃんにょろよー!
そんで、説明にもあった通りA.L.の創作者で、さらに人型パソコンの創始者や。

まず、『A.L.』の世界と『ちょびっツ』の世界のつながりについて話しとこかー。

よーく見ていくと分かるんやがな、実はこの2つの世界、つながっているようでつながっとらんのや。
それはな、国分寺稔のお姉さん、斉藤楓が亡くなったのが2年前。
そのときの様子が7巻の12ページに出とるが鈴原みさきの制服は明らかにエリオル学園のものや。
仮に高等部の制服も同じだとしても、『A.L.』の世界と『ちょびっツ』の世界との差は最大7年。
つまり、『A.L.』の世界は、稔がもっとも若くって5歳ということや。(『ちょびっツ』の世界で稔は中1やから若くて12歳。差が7年だとすれば12引く7で5歳やな、OKか?)
ところが3巻177ページにおいて稔が「ぼくはもう生まれたときから人型パソコンが普及してたから」と言っている。
つまり『A.L.』の世界において、もうすでに人型パソコンは普及してたというわけやな。
でも『A.L.』の世界に人型パソコンは出てこない。
つまりここで時間にズレがあるわけや。
分かったか?(あれ? 12年前には人型パソコンが普及してたってことは、わい、いったい何歳なんやろ???)

実際CLAMPもインタビューで「『A.L.』の世界と『ちょびっツ』の世界はいわゆるパラレルワールドなんです」みたいなこと、言ってるしな。
つまり『X』と『東京BABYLON』みたいに完全に世界がつながっとるんじゃなくて、『ちょびっツ』のなかで『A.L.』の素材が使われているって考えるとええんかなぁ。
まさに同人の世界やな。

それにしてもわい、殺されてもうたわ、CLAMPに。
ホンマ殺生やで〜。
CLAMPはどんどん人を殺すなぁ。
まぁそれが逆にCLAMPのすごいところでもあるんやが・・・
普通『死』というのはタブーや。
でもあえてその『死』というものを通してそれをただ『死』としてだけ捉えるのやなく、『死』から何が見えてくるのかを考えているのがすごいところや。
例えば店長とパソコンのユミの関係なんかを通してパソコンは生きてないけどパソコンの『死』というものを考えるし、そこから『記憶』といったものの大切さ、それに『心』というのはどんなものかについても言及しとる。
しかし、『A.L.』の世界との関係でいえば、楓の死とそれによる稔の心、それにそこから生まれた柚木とさらに稔との関係、ここら辺にCLAMPの考えがぎっしり詰まっとる。
せやから次はそこを見ていこー。

とりあえず斉藤楓がどういった人かの説明をしてこかな。
メガネ掛けてて大人しくて、『A.L.』ではブランシェっつうエンジェルを操っとった。
エンジェルの緊急回避回路を使ってエンジェルをハイパー化することを思い付いた凄腕のデウスや。
このハイパー化っちゅうんは創作者のわいも思い付かんかった。
そんでもって、国分寺稔の姉や。
国分寺稔がパソコンにすごく詳しいのもやっぱり血筋なんかなぁ。
ちなみに名字が違うのは親が離婚したかららしいで。
楓についてはとりあえずこんなもんかな。

そんでもって重要なのはここからや。
そんな楓が死んでまう。
稔が小5の時や。
楓のことが一番好きだった稔にはとてもじゃないが耐えられん出来事やなぁ。
まだ小5やし。
そんで楓のことを忘れられなくて、忘れたくなくて作られたパソコンが柚姫や。
稔は最初柚姫に楓の代わりであることを求めた。
せやから外見も似せてるし、人格データも稔の覚えている限りの楓のデータを入れてある。
そのおかげか柚姫はホント楓にそっくりや。
でも、あくまでも楓にそっくりなだけで楓そのものではない。
楓はもう生き返らないんやからなぁ。

柚姫は楓にそっくり。
まるで楓が生き返ったかのように。
でも、それはあくまでもプログラムであって楓自身ではない。
そのことが稔自身をかなり悩ませることになる。
柚姫があくまでも楓の行動をまねているだけであって楓そのものでない。
そのことを忘れてしまいたいと思いつつ、どうしても忘れることは出来ない。
何かあるごとに柚姫は楓でなくて、あくまでパソコンであるということが意識させられてしまうわけや。
柚姫は柚姫で自分が楓になりきれないことが稔を苦しめていると分かっているのでつらく思っている。
お互いにホントつらいことやなぁ。
『誰も誰かの代わりになることは出来ない』ということがこの2人を苦しめるわけや。

でも本須和と関わっていく中で稔の考えが変わっていく。
さっき言うたみたいな苦しみを味わった稔だけに『誰も誰かの代わりになることは出来ない』というのが身に染みている。
それだからこそ『誰も楓の代わりになることは出来ない』ということと同時に『柚姫の代わりもいない』ということにも気付けたわけやな。
このおかげで稔はもう柚姫が楓とは違う存在であるということを意識してもそれで苦しむことは無くなったし、柚姫も楓のように振る舞わなくても稔のそばにいられるようになった。
柚姫は楓の代わりとして稔のそばにいるんやなくて、柚姫自身として稔のそばにいられるようになったわけやな。
これは重要なことやで。
もしもやで、ある人が自分を好きなのは、自分自身が好きだからでなく、自分に見える誰かの『影』だなんてことがあったら、それは悲しくないか?
その誰かというのが現れたら自分は即お払い箱や。
な、それは悲しいやろ。

それにしてもこの手法は“まさにCLAMP”というような手法やなぁ。
誰かを苦しませる元となっている『言葉』を取り出して、それを認めた上でその『言葉』の持つもう1つの意味を取り出す。
つまりな、稔と柚姫を苦しませていたのはさっきの『誰も誰かの代わりになることは出来ない』ということや。
これは一見つらいことのようにも思える。
でもこれを認めた上でだからこそ『誰も柚姫の代わりになることは出来ない』ということを導き出したわけや。
同じような手法がこの『ちょびっツ』の中では6巻の58〜59ページでとられている。
大村裕美を苦しめていたのは『店長はまじめな人だから相手がパソコンでもいい加減な気持ちでなく本気で結婚した』ということや。
店長は本気でパソコンを好きになって結婚した。
そんな店長が本気になったようなパソコンに自分はかなうはずがない、ということで苦しんだわけや。
でも、『店長はまじめな人だから相手がパソコンでもいい加減な気持ちでなく本気で結婚した』ということは、『店長はまじめな人なんだから、だからこそ裕美ちゃんのことも本気で好きになった』という意味を隠しもっていて、それを本須和が明らかにした。
それで裕美ちゃんは救われたわけや。

まぁそれと問題になるのはアレやな、パソコンっちゅうのはホントに『他の誰かになりきる』ことが出来ないのかどうかやな。
『ツクリモノ』なわけやから全く同じ外見のパソコンを作るのは可能なわけやし、じゃああとはハードディスクの中身を全部写し変えれば全く同じ『パソコン』が出来るんじゃないのか、という問題や。
そうすると『柚姫の代わりもいない』というのが『嘘』になってまう。

でもこれは不可能や。
そのための『自動学習プログラム』やで〜。
確かに作られた時点では同じもんかもしれん。
けどな、そこから全く同じ経験をするのは不可能や。
立っている場所が違えば見ているもんも違ってくるし、それだけでもう違う経験をしていることになる。
人間の双児もそうやろ?
DNA的には全く同じや。
でも絶対同じ人間にはなりえない。
わいの作った『フレイヤ』と『エルダ』も見かけは一緒や。
でも『ココロ』が全然違う。
せやからたとえパソコンでも『誰かの代わりになる』ことは出来んのや。
分かったか〜?

おぉ、もうこんな時間か。
ということでわいからの話しはこれで終わりや。
じゃ、またな〜

・・・ということで三原(スパン!←ハリセンで叩かれた)・・えぇっと・・・いっちゃんさんでした。
いや〜、嵐のように喋る人でしたねぇ。
後半なんかは私にはもうチンプンカンプンでしたよ。

え〜、そろそろ時間です。
それではみなさん、さようなら〜


重要なのは、次の部分。

確かに作られた時点では同じもんかもしれん。
けどな、そこから全く同じ経験をするのは不可能や。
立っている場所が違えば見ているもんも違ってくるし、それだけでもう違う経験をしていることになる

当時の自分は、まだ「身体性」という考えに至っていなかったので、『自動学習プログラム』を本質的なものと捉えていたけど、そうじゃない。
「身体」があることによってーー「身体」という「空間的に幅を持った器」があることによってーー立っている場所が違ってくるので、同じ経験をすることが不可能になってくるというのが、本質的。

「身体」というと、物質的なものと捉えられがちだけど、実際には位相的だったりする。
このことはちょっと気付きにくいかもしれない。

 気をつけてほしいのは、この「この身体」というのは、物質としての存在ではなく、器としての存在だということです。どういうことかというと、「オリジナルの私」と「コピーの私」では、物質としての「身体」は同等のものですが、器としての「身体」は別物だということです。逆に、「元の脳」と「漸進的にデータ化された脳」では、物質としての「身体」は別物ですが、器としての「身体」は同一性が保たれています。
 ここまでくれば、「この自分」の同一性を支えているものが何なのかはもう明確かと思います。それは、器としての「この身体」です。「この身体」の連続性が「この自分」が同じであるという実感を与えてくれているのです。
(『哲学散歩道III 「身体性」へ還る』より引用)

人格の同一性に関する議論で、身体説というものがあるけど、身体説の惜しいところは、この身体の位相性に気付けていないこと。
身体の物質がすべて入れ替わったとしても、その入れ替わりが時空間的に連続性を持っていて位相性の同一性が保たれていれば、「この身体」の同一性は保たれていると言えるのがポイント。

そして、この位相性は、次のような重要な帰結にも繋がる:

 これは「この自分」を考えるときも同様です。「この自分」と「世界」とに境界がなければ、そこに関係性は生まれてこないのです。この境界は「この自分」が「世界」を経験するためのインターフェースであり、そして「この自分」を「世界」と区別して同一性を保つための器でもあります。それこそが「この身体」です。
 「この自分」に先立って「この身体」がまず必要なのです。「この身体」にはすべてが立ち現れ、何事もそこから始まっていきます。「この身体」があるということ——これを「身体性」と呼ぶことにします——それこそが大切なのです。
(『哲学散歩道III 「身体性」へ還る』より引用)

そして、元の『ちょびっツ』の話に戻ると、「この身体」の位相性からーーすなわち、「身体」が「空間的に幅を持った器」であることからーー同じ経験が出来ないという話に繋がっていく。

また、昨日の話にも繋がっていくことになる。

今日はここまで!

ちょびっツ(1) (ヤングマガジンコミックス)

ちょびっツ(1) (ヤングマガジンコミックス)