いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『数学する身体』を読んでみた。

『数学する身体』が気になったので、読んでみた。

数学する身体

数学する身体

概要

数学は高度に抽象化され、もはや現実の世界に縛られることなく、論理の世界に存在すると思われがち。
けど、そんな数学も、元を辿れば人間の営みによって生み出されてきたもので、人間との深い関わりが存在する。

この本では、そんな数学の歴史と変遷を辿りながら、数学というものが、人間とは無関係な無味乾燥なものなのではなく、人間と深い関わりのあるものなんだということを再発見していこうとしている。

「数える」という行為から始まって、まるで身体から漏れ出すように、数学的思考は広がってきた。
(中略)
新たな数学が生まれる場面に生きた人間の姿があり、冷徹に見える計算や論理の奥に血の通った人間がある。

特に、アラン・チューリング岡潔という二人の数学者にフォーカスを当て、それぞれの数学に対する態度を眺めていくことで、「数学とは何なのか」(著者はこれを「数学とは何であり得るのか」と問い直してる)を探っていっている。

本書で辿った数学の流れは、アラン・チューリング岡潔の二人に流れ着く。
(中略)
ただ、二人の間には重要な共通点がある。それは両者がともに、数学を通して「心」の解明へと向かったことである。
(中略)
チューリングが心を作ることによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした。チューリングが数学を道具として心の探求に向かったとすれば、岡にとって数学は、心の世界の奥深くへ分け入る行為そのものであった。

数学をすること、数学を眺めること

概要で述べた通り、この本では数学の歴史を追うことで、数学がどのように人間と関わり合いを持ちながら発展してきたのかを眺めることが出来るようになっている。
ただ、これは「学校で教えられる数学」を教えられるままにただ暗記したような人にとっては新鮮な視点かもしれないけれど、「どうしてそのように考えるようになったのか」という部分にまで思いを馳せて数学を勉強してきた人にとっては、「まぁ、そうだよね」という程度の感想かもしれない。

例えば、これはこの本に書かれていないことだけど、負の数同士の掛け算を考えてみる。

多くの人は、「負の数同士を掛け算すると、正の数になる」と、教科書に書かれている内容をただ教えられるがままに覚えて、それを使いこなせるようにするだけだと思う。
そして、「なんで負の数同士を掛け算すると、正の数になるの?」と問いを立てたとしても、大抵は「そういうルールだから」と片付けられてしまう。
これでは、その数学の背後にある「動機」を理解することが出来ず、数学が無味乾燥なものに思えてしまうのも仕方ない。

実際、これは、負の数を扱えるようにするために、足し算や引き算を数直線上で行うように定義し直したときに、じゃあ、掛け算の意味はどうなるのかということに思いを馳せると、正の数を掛けるというのは「その方向にその回数だけ進む」という意味になるので、負の数を掛けるというのは「逆の方向に絶対値の回数だけ進む」という意味を持つことになる、というところから導き出されるルールとなっている。
ちゃんと背後にはそれが妥当であるとされる理由が存在している。

なお、余談だけど、よく話題になる掛け算の順番の話も、確かに計算するときにそれを意識することはないけど(というのも、それはもう数学の世界に落とし込まれてしまっているので、交換できることは交換律によって保証されるから)、立式という「現実の世界」と「数学の世界」を繋ぐ部分においては、重要な意味を持つ。
実際、この「掛け算の意味」を掴んでいれば、上記の「負の数同士の掛け算の意味」が、従来の「掛け算の意味」を拡張したものだということにも納得がいくだろうけれど、「掛け算の意味」なんかどうでもよくて計算が出来ればいいでしょ、というスタンスだと、もはや「負の数同士の掛け算の意味」を捉えることは出来ずに、ただルールに従って計算を行うということしか出来なくなる。
そういう人は、数学を使うことは出来ても、数学を行い、自ら数学を作っていくことは出来ない。

閑話休題

さて、このような「どうしてそのように考えるようになったのか」という部分に思いを馳せるというのは、哲学の領域のように思われて、そんなことを考えている数学者なんて稀でしょ、と思われるかもしれないけど、実際に数学をやっていると、全然そんなことはない。
というのも、数学者はよりエレガントな理論を求めるので、必要となる前提は削れるだけ削りたいから。
そうなると、前提の必要性は常に問いただされることになって、すなわち、「なんでその前提が必要なの?(=その前提はどうして生まれてきたの?)」ということを常に考える必要が出てくる。
なので、数学が「ただルールにしたがって計算を行うだけの無味乾燥なもの」だなんて、数学をただ使っているだけの人ならともかく、数学をやっている人が思うことはない。
数学の世界には、「動機」という非常に人間的なものが溢れかえっている。

そういったことを踏まえて、改めてこの著者のスタンスを見てみると、「一歩引いている」というのが自分の印象。
数学を一歩引いたところから眺めることで、数学と人間との関わりを掴んで行こうとしている。
けど、これまでに述べた通り、そんなことは数学をやっていれば実感として得られることで、それなら、自身が数学を行う中で得られたーーすなわち、身体を通して得られたーー実感の伴った体験として語って欲しかったかな、と。
もちろん、仮に自分がそれをやれと言われたら非常に難しく感じるので、とても難しいことだというのは分かるのだけど。

でも、著者は最後にこう言っている。

だからこそ、心を知るためにはまず心に「なる」こと、数学を知るためにはまず数学「する」こと。そこから始めるしかないのである。

その実践としてこの本の内容が書かれていれば、より面白い「この著者だからこそ書ける本」になっていただろうにと思うと、ちょっと残念。

今日はここまで!

数学する身体

数学する身体