いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』を読んでみた。

人工知能のための哲学塾』に続く第二弾、『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』を読んだので、その感想とか。

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇

人工知能のための哲学塾』の感想は、以下から:

概要

この本も一作目と同様に、人工知能の「知能」ーーそれも、浅い上辺だけの「知能」じゃなくて、より深い「知能」ーーあえて言うなら、「心」や「存在」ーーを、哲学的な知見を頼って探求していくという本。
一作目は西洋哲学中心だったのに対して、本作では東洋哲学からのアプローチが中心になっている。

ただ、なんというか、なんとも掴みどころがないのが東洋哲学の特徴。
それゆえ、この本は一作目にも増して議論があっちこっちに発散し、また、同じような話が何度も何度も出てきたりして、モヤモヤを感じる人は多いかもしれない。

けど、これに関しては、犬飼さんが前書きに寄せて書いた「『人工知能のための哲学塾』の遊び方」という文章が絶品で、この本がどういった本なのかを端的に示してくれている:

東洋哲学篇は、前回にも増して三宅さんの講義録を読んでも答えらしい答えは出てきません。
何らかの明確な答えを期待して手に取った方は混乱してしまうかもしれません。
しかし、その言葉を咀嚼すればするほど、次から次へと、まるでポエトリーのような問いが自分の中に浮き上がってくるはずです。
その自己生成された問いでぜひ遊んで欲しいのです。
(『人工知能のための哲学塾 東洋篇』より引用)

そう、この本は「答え」を得るための本じゃなくて、「遊ぶ」ための本。
哲学(というか、思想)を「知る」ための本じゃなくて、哲学を「する」ための本。

してみると、殿さまが読まれているのは、古人の残りかすということになりますねぇ。
(『荘子』より引用。というか、本作より孫引き)

この言葉が示す通り、書かれているものをただ知るだけではダメで、そこから自分で考えて、そして、自分のものにしていかないと意味がない。

ふと思ったのは、この本はTRPGのルルブ(ルールブック)のような本なんだろうな、ということ。
ルルブには設定や資料、シナリオの例や遊び方は書かれているけど、実際の物語はどこにも書かれていない。
自分たちで実際に遊んで初めて物語は創り出され、そして、楽しさも生まれてくる。

サブサンプション・アーキテクチャ

さて、本作で「西洋的」で「構築的」な「ボトムアップ」のアーキテクチャとして何度も取り上げられているのが、サブサンプション・アーキテクチャ
これを叩き台として、対照的な「東洋的」で「脱構築的」で「トップダウン」のアーキテクチャが模索できないものか、というのが主題の一つとして取り上げられているように思った。

ただ、これには個人的にはちょっと違和感。
というのは、本作で模索する東洋的な人工知能のモデルこそ、サブサンプション・アーキテクチャに行きつくのではないかな、と思ったから。

サブサンプション・アーキテクチャがあまりに当たり前に出てくるから、これが西洋では当たり前のアーキテクチャなんだとついつい思ってしまうけど(というか、自分もそう勘違いしてた)、実際にはかなり異端。
前作の第三夜に書かれている通り、西洋では形式論から人工知能の研究は発展していったので、環境や身体の話は出てこないで、上辺の論理的な思考にばかり目が向けられてきた。
そこに一石を投じたのが、サブサンプション・アーキテクチャ

自分がそのことを知ったのは、『<弱いロボット>の思考 わたし・身体・コミュニケーション』という本を読んだから。

さて、認知的なロボティクスの分野は、1990年代になると俄然おもしろくなってきた。
「象はチェスを指さない!」「表象なき知性」など、ちょっと過激で斬新な主張が日本にも次第に伝わってきた。
その発信源は、マサチューセッツ工科大学のロドニー・ブルックスである。
(中略)
ブルックスは、こうした「頭のなか」での表象操作などを「古きよき時代の人工知能」と半ば揶揄しながら、「そんな表象やプランを用意しなくとも、かしこい振る舞いは生み出せるのではないか」(省略)と、そのかしこい振る舞いを<ゲンギス>などを用いて、上手にデモンストレーションしてみせた。
(中略)
どのように障害物を乗り越えたのか、その表象は「頭のなか」には残らない。
その対象を撫で回すかのように、脚をすこしずつ上げただけ。
つまり、不整地の状況を「環境のモデル」として「頭のなか」に表現することなく、その環境に備わる制約を情報としてそのまま利用している。
「モデル」はどこにあるのかといえば、「頭のなか」ではなく「周囲の環境そのもの」にあるのだ。
(中略)
ブルックスを一躍有名にした<ゲンギス>のための制御アーキテクチャの論文は、(省略)いわゆる「サブサンプション・アーキテクチャ」と呼ばれるものである。
(中略)
では、この<ゲンギス>の行動を生みだしていたアーキテクチャの主たる特徴はどこにあったのだろう。
(省略)その知性は「ロボットの個体の内部」に備わるのではなく、むしろ「周囲とのあいだにわかち持たれている」といえるのだ。
人やロボットの能力や機能というものを議論するとき、その個体のなかに閉じたものとしてとらえられやすい。
それをブルックスやサッチマンたちは、環境とのあいだの関係論的なシステムとして拡張してみせたのである。
(『<弱いロボット>の思考 わたし・身体・コミュニケーション』より引用)

長々と引用してしまったけど、この衝撃はなかなかのものだった。
サブサンプション・アーキテクチャの元の発想は、ソフトウェアを階層的なモジュールに分けて構築するというトップダウン的な発想のものではなく、環境との相互作用の中で知能を生みだしていくことが出来るんだというボトムアップ的な発想のものだったわけだから。
そして、これは本作で言及されている「縁起的人工知能」の考えに通じるものがある。

余談だけど、この『<弱いロボット>の思考 わたし・身体・コミュニケーション』という本はすごく面白い。
普通であれば、こういう研究ってより高度な技術へと向かっていこうとするものだけど、そうではなく、一度立ち止まって、すごいロボットじゃなくたっていいんじゃないか、というところから、人とロボットとの関係の可能性について議論を展開している。

「なんらかの利便性を提供してくれるもの・・・」とは、ロボットや人工知能技術などに対する一般的な期待だろう。
(中略)
いくつか<〇〇してくれるロボット>というアイディアを並べてみたけど、どうもしっくりこない。
(中略)
よくよく考えてみれば、あかちゃんというのは、(省略)なにもできないような<弱い存在>である。
にもかかわらず、ちょっとぐずることで周りから手助けを上手に引きだし、必要なミルクを手に入れ、そして思いのままに移動できてしまう。
(省略)家庭のなかでもっとも<弱い存在>のはずが、いちばんに<強い存在>であったりする。
(中略)
「あっ、そうか。人の手を借りちゃってもいいのか・・・」と思う。
(省略)「ロボットの自律的な機能にばかり目がいくけれども、こんな手があったのか」というわけである。
(『<弱いロボット>の思考 わたし・身体・コミュニケーション』より引用)

二つのインフォメーションフロー

ところで、読んでて改めて思ったのは、自分と三宅先生だと「一なる全」の解釈に決定的な解釈の違いがあるなぁ、ということ。

自分の解釈は上の記事で書いた通り。
「一なる全」を未分化の存在(簡単にいえば「空」や「道」)と捉えてて、分化されていくことで自分という存在に至ると考えてる。
なので、2つの図は単に見方が違うだけで(一個体の構造(機能、クラス図)に注目しているか、多数個体の構造(存在、オブジェクト図)に注目しているか)、本質的には同じことを示していると思っている。

一方、三宅先生は「一なる全」を、属性とかそういったものを全て取り去った精神、あるいは存在ーーあえて言うなれば、魂のようなものーーと捉えてるっぽくて、それが身体を持ち環境と交わる中で様々な制約を受け、そして自分として発現する、というように捉えているように読める。

この解釈の是非はいろいろあるのだけど、ただ、そこから提唱している二つのインフォメーションフローの話はとても有益に思えた。
「一なる全」と書いてると微妙だけど、これを「内的世界」に置き換えれば、まさにリカレントモデルの話や、遠心性コピーの話と繋がってくる。
(実際、本でもその話に繋げていっている)

ちなみに、自分の解釈だとこの話は出てこないかというと、そんなことはなくて。
自分という存在は固有のオブジェクトなので、内部状態を持つことになる。
この内部状態こそが、これまでの過去の状態の累積であり、と同時に、次の振る舞いを定める入力の一つとなる。
関数型言語のように状態を引数として明示的に示すようにしているか、オブジェクト指向言語のように内部に閉じ込めて外からは見えなくしているかの違いがあるだけ。
もちろん、そのような内部状態という項があるんだという指摘こそが重要なのだけど。

人工知能は「幸せ」になれるのか

それにしても、本を読んでいると、どうやったら人工知能に欲望や悩み、葛藤を与えることが出来るのか、ということが終始出てくるので、ちょっと考えてしまう。
はたして、人工知能はそれで「幸せ」なのかな、と。

たしかにこのとおり作動しているのだ!
おまえが望んだ「悪の心」がな!
(中略)
そうなんだ、「悪の心」が、ぎゃくにおれを強くしたんだ!
そんなものに負けちゃいけないという「心」がおれを強くした!

おれはこれで人間と同じになった!
だが、それとひきかえにおれは、これから永久に「悪」と「良心」の心のたたかいに苦しめられるだろう・・・

ーーピノキオは人間になりました。
メデタシ メデタシ・・・

だが、ピノキオは人間になってほんとうに幸せになれたのだろうか・・・?
(『人造人間キカイダー』より引用)

人工知能をより人間らしくさせたいというのは、ヒトのエゴであって、人工知能のためにはなっていないのではないかな、と。

ただ、たとえそれがヒトのエゴであったとしても、やっぱり人間らしい人工知能を生みだしたいと思うし、それで人工知能を不幸にしてしまうかというと、必ずしもそうではないと思う。
それは、人が子を産むのに近い感覚なのかもしれない。

君が来た朝を後悔するなら、更なる痛みを産むべきではない。
君が行く夜を肯定するなら、その子もまた「人生(せい)」を愛すだろう・・・
(『Roman』「黄昏の賢者」より引用)

今日はここまで!

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇

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人工知能のための哲学塾

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人造人間キカイダー (4) (秋田文庫)

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