いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『人工知能のための哲学塾・東洋編 第弐夜「井筒俊彦と内面の人工知能」生中継』を観てみた。

以前、三宅先生の書いた『人工知能のための哲学塾』を読んだ感想を書いた。

その続きということで、東洋編が現在進行形で展開されている:

上に挙げた通り、ニコ生でタイムシフト視聴出来るので、両方とも観てみた。
で、第弐夜に関してちょっと思うことがあったので、そのことを。

ちなみに、第弐夜のスライドは、SlideShareで見ることが出来るので、そちらから。
めっちゃ枚数あるけどw

意識に関する2つの図

さて、自分が話題にしたいのは、次の2つの図。

まず1つ目は、西洋型のボトムアップ機能モデルの図:

f:id:yamaimo0625:20170711220557p:plain

※いくつかの図をまとめて整理してある

そして2つ目は、東洋型のトップダウン存在モデルの図:

f:id:yamaimo0625:20170711224013p:plain

※スライドだと、矢印の向きが上から下に降りてきてるけど、あとで説明する通り、下から上への矢印が正しいと思われる

この2つの図は、形こそ似ているものの、実際には全くの別物。
というか、2つ目の方は上下を逆にした方がいいw

実際、三宅先生はあとでこの2つの図を融合させようとしているんだけど、何を表そうとしているのかが正直分からない(^^;
実のところ、この2つの図を融合させるには、この2つの図がそれぞれまったく別のレベルで書かれていることに気づかないといけない。

クラス図とオブジェクト図

このことに関して、自分は次のようなツイートをした:

そう、クラス図とオブジェクト図というのが、ここでは重要な鍵になってくる。

まず、クラス図というのは、簡単にいうと、「モノ」(オブジェクト)の設計図。
「モノ」がどんな「種類」(クラス)のモノで出来ているかを示してくれる。

例えば、車の(すごく簡単な)クラス図を描いてみると、次のような感じ:

f:id:yamaimo0625:20170711225905p:plain

車体があって、ハンドルがあって、アクセルペダルとブレーキペダルがあって、エンジンとブレーキがあって、タイヤがある、というような感じ。

重要なのは、「どんな種類のモノ」によって出来ているかを示していて、「どんなモノ」によって出来ているかを示しているわけではない、ということ。
なので、車にタイヤは4つついているけど、図には「タイヤ」という種類(クラス)は1つしか出てきていない。
(※厳密には、「多重度」というのを使って、そのクラスのオブジェクトが何個あるのかを示したりするけど、ここでは省略)

一方、オブジェクト図というのは、クラス図を元に実際に作られる「モノ」(オブジェクト)自体を描いた図。

例えば、車の(すごく簡単な)オブジェクト図は、次のような感じ:

f:id:yamaimo0625:20170711231430p:plain

ポイントは、クラス図では「タイヤ」は図に1つしか出てこないけど、オブジェクト図では「タイヤ」が図にちゃんと4つ出てきてるということ。

ここがクラス図とオブジェクト図との大きな違いで、

  • クラス図は「種類」(クラス)のつながりを描くので、ある「種類」のモノは図に1つしか出てこない
  • オブジェクト図は「モノ」(オブジェクト)のつながりを描くので、同じ「種類」のモノが図にいくつも出てくる

となっている。

ちなみに、これはあくまで1つの車について描いたオブジェクト図で、複数の車について描いたオブジェクト図というのも考えることが出来る。
その場合、以下のようになる:

f:id:yamaimo0625:20170711233717p:plain

2つの図の違い

さて、元の2つの図について、改めて考えてみる。

この2つの図はどちらも層になっていて、下から上へ積み上がっているように見える。
なので、とても似ている。

ただ、前にも述べた通り、後者の図は実際には逆さまなので、次のようになっている。

f:id:yamaimo0625:20170711234820p:plain

この形だからこそ、「トップダウン型」なわけ。

そして、それ以上に重要なこと。
それは、前者がクラス図であるのに対し、後者がオブジェクト図だということ。

後者の図をちゃんと描くと、次のようになる:

f:id:yamaimo0625:20170712000237p:plain

一番下にあるのは、分割される前の「あるがままの世界」。
この世界を「そのまま」見ることが出来るのは(そして、それはつまり「何も」見てないということになるのだけど)、(あえて名前をつければ)神様だけとなる。
「絶対一者性の領域」というのは、つまりそういうこと。
客観的世界、とも言えるけど、その「客観」というのは科学の「客観」をはるかに超えたもので(「観測」されてしまったら、それはもう「客観」ではない!)、観測される以前の、可能性の海が広がっていて、全てがそこにあるけど、何者でもないというような、そんな世界。

その上にあるのが、生物として知覚される「知覚の世界」。
この世界は、生物がその身体をもって知覚することで、「あるがままの世界」からその生物が知覚できる要素が切り出された世界。
ポイントは、生物のその身体的特徴によって、ここで切り出される世界というのは生物の種類ごとに異なってくるということ。
なので、オブジェクトは複数存在している。
しかし、それはまだ「1種類の生物としての世界」であって、「1個体の生物の世界」というところまでは分割されていない。
それがゆえ、「潜在的分節化の領域」となる。

そして、そのさらに上にあるのが、言葉や文化、あるいはその人の経験などから意味をもって切り出された「意識の世界」。
知覚された世界にさらに「意味」ーー例えば「これはお父さん」とか「このりんごは美味しそう」だとかーーが与えられた、主観的な世界になっている。
このレベルになると、各個体ごとにその世界は異なってくるので、オブジェクトは各個体分(多重人格なら、複数もありえる?)存在している。
なので、「存在的多者の領域」となる。

なんで東洋哲学でこんな図を考えるのかというと、一言でいえば、「主観=客観」の先入観を取り除くため。

普通だと、自分が見ている世界(主観的世界)が世界そのもの(客観的世界)であり、他の誰もが自分と同じように世界を見ているものだと思ってしまう。
自分の見ていること、感じていること、考えていること、信じていることが、世界の真理、すべてであり、それ以外に別の世界(のインスタンス)が存在するだなんて、思いもしない。
例えば、自分が「ツラい」と思っていることは、世界においても「ツラい」という「客観的真理」であり、それが覆ることはない、と思ってしまう。

でも、そうやって「客観的真理」だと思っていたことが、実は「主観的真理」に過ぎないよね、と。
人間は言葉によって、あるいは、様々な関係性において、世界を切り分け、「それ」を「それ」として認識しているに過ぎないでしょ、というのが、仏教道家の教えるところ。
言葉によってレッテルを貼ったり、固定した考えに捉われてしまったりするのではなく、それらは自分がそのように世界を切り出しているだけだと気付き(悟り)、そこから自由になったらより善く生きていけるでしょ、と。

飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』に書かれている次の内容が面白い。

 このことを理解するために、ちょっとこんな想像をしてみてほしい。
 あなたが「耳を見て興奮を感じる文化の国」に生まれたとする。 その国には「女性はみんな生まれたときからずっと耳を隠して暮らしており、本当に愛した男性にしか耳を見せない」という奇妙な風習があった。 あなたが男性だと仮定してそういう国で子供の頃から育ったとしたら・・・間違いなく、あなたを含めた国中の男たちはみんな「うおおおぉ、女の子の耳が見てええ!」と思うはずである。
(中略)
 そして、あなた自身、「耳」のことを考えては下劣な情欲に燃え上がり、そのことについて自己嫌悪に陥って苦しみもだえていた。
(中略)
 そして、ついには思考が途切れ、分別が消え去ったその瞬間ーー。 それはたった一瞬の隙間。 だが、その一瞬のなかに「智慧」が現われ、ひとつの奇跡がおとずれる。 あなたは、赤子のような無垢な境地で、知識ではなく、論理ではなく、言葉ではなく、「いま起きていることの本質」を実感として、体感として理解する。
 あなたはついに究極の真理を悟った。

「こ れ は た だ の み み だ」

「うわああああ!」と、あなたは頭を抱えて、へたりこむ。
(中略)
 あなたは、今まで自分が必死になってきたことの、あまりの馬鹿馬鹿しさと恥ずかしさに笑うしかなかった。
 夜が明け、あなたが街に下りてみると世界がすっかり変わって見えた。 物心がついたときから、まとわりついていた鎖が外れたような、晴れ晴れとした自由な気分。 そんな幸福感とともに世界を見ることができた。
(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶、著より引用)

全く余談だけど、この本はめっちゃ面白いしすごく読みやすいので、オススメ。
西洋編もあって(というか、西洋編が先に出ている)、そっちも面白いので、やはりオススメ。

閑話休題

そんなわけで、言葉や思考(思い込み)から解放され、より自由になろう、と。
さらにいえば、環世界の話があるように、生物が見ている世界というのは、その身体(インタフェース)を通して見られた、各生物ごとの世界でしかない。
なので、さらには身体まで捨て、そのさらなる奥の根源、あえて名前をつけて(本質的に名前がつけられない)「空」や「道」に至ろう、と。
これが図でいう「上昇過程」。
ニコ生でも話題に上がってた、十牛図の8枚目の絵に至るまで過程になっている。

でも、ここで勘違いしてしまってはいけなくて。

心頭滅却すれば火もまた涼し」なんていうけど、熱いものは熱い。
心の持ちようでどうとでもなるでしょ、という話ではないことに気をつけないといけない。
「熱くないんだ、熱くないんだ」と必死に否定するのでも、「心を無にすれば熱くないんだ」と冷静に否定するのでもなく、「あ、自分は今『熱い』と感じているんだ」と気づいてそれを認めることが重要。

色即是空のあとに空即是色と繋がるように、あるいは、十牛図の9枚目、10枚目で再び戻ってくるように、「主観≠客観」なんだと気づいた後で、その主観を否定するのではなく、その主観を「主観である」と肯定しないといけない。
これが図でいう「下降過程」。
なんでそうしないといけないかというと、だって、何事からも解放され、自由になろうとしたって、実際には自分たちは身体があり、その身体を通してでしか世界と交われないのだから。
そんなに身体が嫌で嫌で仕方ない「身体の軽蔑者」は、ニーチェがいうように、さっさと身体を捨て去ってこの世からいなくなってしまえばいい。

 身体を軽蔑する者に、わたしはわたしの言葉を言いたい。 かれらが考えなおし、説をあらためることなどは、わたしは求めるところでない。 かれらはさっさと自分の身体に別れをつげて、ーー口をきかなくなってもらいたいものだ。
(『ツァラトゥストラはこう言った』「身体の軽蔑者」より引用)

ニーチェは「三段の変化」を説いたわけだけど、これはこの「上昇過程」「下降過程」というのにとても似ている。
盲目的な信者(駱駝)からあらゆる価値を否定し壊していき(獅子)、しかし最後には肯定して世界を創造する(幼子)。

 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。 いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。 こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。 この奪取のために獅子が必要なのである。
(中略)
 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。 ここに精神は自分の意志を意志する。 世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。
(『ツァラトゥストラはこう言った』「三段の変化」より引用)

あるいは、客観というものを一度忘れ(エポケー)、主観から世界を構築していき、そして身体性へと還ってきた現象学に似ているとも言える。

2つの図を融合させる

東洋哲学の話が長くなってしまったけど、元の2つの図の話に。

このように、後者の図はオブジェクト図になっているというのが重要なこと。
なので、クラス図の前者とそのまま融合させようとしたって、レベルが違うのでうまく組み合わさらない。

じゃあ、どうすればいいかというと、これは簡単で、そう、前者もオブジェクト図にしてしまえばいい。
これがツイートで書いていた「オブジェクト図で考えればいいのに」という発言の意図。

生物の種類だけ環世界は存在し、そして個体の数だけ主観的世界は存在するわけだから、次のようになる:

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こうやって見ると、2つの図がキレイに融合しているのが分かると思う。

西洋型の図で見ていたのは、1個の個体に関するボトムアップの図。
世界から環世界へ、環世界から主観的世界へと情報はインプットされ、主観的世界から環世界へ、環世界から世界へと作用がアウトプットされていくことを示している。

一方、東洋型の図で見ていたのは、複数の個体に関するトップダウンの図。
主観的世界から言葉や思考を取り去って環世界へ至り、環世界からさらに身体を取り去って世界に至る。
逆に、世界から生物の種類だけ環世界が生まれ、さらに環世界から個体の数だけ主観的世界が生まれる。
そうやって、各々に異なった主観的世界が生まれてきているんだということを示している。

人工知能は「悟る」のか?

さて、こうして融合された図から、人工知能のエンジニアリングに活かせることは何か。

一つは、オブジェクトの構成のさせ方。

具体的な構成の議論は省くけど、上の図に書いたようなオブジェクトが生成されれば、各個体ごとが異なる「自分の世界」を持つことになるので、そこから生成される行動は、各個体ごとに個性的(けど、「身体」のレイヤーがあるので、そこからは大きく外れられない)ものとなると考えられる。

もう一つは、人工知能に「悟り」を与えるということ。

これは、普通の「悟り」とはちょっと違うけど、「この見ている世界は一つの世界の見方にすぎないんだ」という気づきから、意識レイヤーの内容を固定したままにせず、柔軟に組み替えていくようなアルゴリズムになる。
人工知能が、自分自身の世界の見方を柔軟に変化させていく。
これが出来れば、決まりきった行動をするのではなく、ダイナミックに行動が変化する人工知能が生まれてきそう。

今日はここまで!

人工知能のための哲学塾

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史上最強の哲学入門 (河出文庫)

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ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

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