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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

「交換」について考えてみた。

昔のブログに書いた記事から。
書いたのは2004年9月3日で、書いた時のタイトルは『交換。』。


Chronicle 2ndを聞いていて、ふと思ったことのメモ。

ちなみに、まったく余談ながら、このCDめちゃくちゃいいw
オペラも好きだけど、こういう物語のある音楽(しかも、このCDの場合、音楽自体にすごく味がある)は大好き。

で、このCDの「沈んだ歌姫」(13曲目)の中で、娘を売れだなんだと出てくる。

駈ける駆ける獣(Bestia)
高値で売れるなら娘でも売れ
売値は望む得る限り高く

猛る猛る獣(Bestia)
敵を売れ 味方を売れ
他人の娘など底値で売りつけてやれ

咆える吼える獣(Bestia)
弑逆を謀った逆賊として
デル・ビスコンティエ一門処刑

屠る屠る獣(Bestia)
逃亡を図った国賊として
デル・ビスコンティエ令嬢を処断
(『Chronicle 2nd』「沈んだ歌姫」より引用)

これを聴いてふと浮かんだのが、次のような疑問。

もし、人が娘同士を「売りあった」場合――結局それは、娘を交換し合っただけに過ぎないのだけど――売られる前と後で、娘の待遇はどう変わるのか?

例えばこれが、単純な「娘とお金の交換」であれば、どうだろう。
倫理的な問題はとりあえず置いておいて、これは「娘」という商品と「お金」との交換であり、それ相応の交換が行われたと考えられる。
売られた娘の待遇がどうなるかは、おそらく売られる前に比べて悪くなると思われるが、買った人の一意により、そこまで考慮した上でお金のやり取りがされるだろう。

さて、ここで、これを「売りあった」とすると、どうだろう。
つまり、AとBにはそれぞれ娘がいて、Aは x円で娘をBに売り、Aはそこで手に入れた x円でBの娘を買ったとしたら、どうだろう。
お互い売りあったのだから、それぞれの娘の待遇については、単に一方がお金で娘を買ったときと同様に、買った人の一意によることになる。
しかし、お金のやり取りに目をつけてみると、AとBのどちらも x円で娘を売り、 x円で娘を買ったのだから、プラマイ0となる。
つまり、単純な「交換」だ。
すると、お金のやり取りなしに娘を交換するだけで、娘が完全に他人の手に委ねられてしまうことになる。
このことに、違和感を感じるのは自分だけだろうか・・・?

さらにいうと、この場合の x円は任意の金額になっている。
娘の価値がそれ相応の値段になっているのかどうかは全く不明であり、100円でやり取りされた可能性もある。

ーー種明かし(?)をすれば、「商品とした」からこそ交換できるのであって、そのこと(商品としたこと)が娘の価値を貶めてる。
けど、まるで「交換」自体が物の価値を下げているように見えて、すごく奇妙に思えた。

でも、この「交換」こそが経済の基礎なんだろうなぁ、と。
で、このような単純な「交換」は、「価値の損失」を生んでいくのではないかと。


まぁ、最後の部分は今から思うとちょっと的外れな感じだけど、この「売りあった」場合にその商品に値段がつかない(値段が分からない)というのは、ちょっと面白いかなと思う。
この前読んで、記事でも紹介した『21世紀の貨幣論』から考えると、債権と債務がちょうど打ち消しあって債権が余らない(=債権を示すトークンである貨幣が不要となる)ので、値段がつかないし、いくらであるかも分からない(分かる必要もない)となるわけだけど。

あと、この文章では「価値の下がる瞬間」がどこなのかを指摘しているのがけっこう重要かなと思う。

つまり、単純に見た場合、

  1. それぞれ自分の娘は大切なもの
  2. 娘を交換する ←ここで娘の価値が下がったように見える
  3. 交換した後の他人の娘は大切なものではない

となるけど、実際には、

  1. それぞれ自分の娘は大切なもの
  2. 娘を交換可能なものとする ←ここで価値が下がっている
  3. 娘を交換する
  4. 交換した後の他人の娘は大切なものではない

と、交換するタイミングではなく、交換可能なものとしたタイミングで価値が下がっているのが、この文章での指摘。
使用価値(所有による価値もここでは含むものとする)から交換価値へと転換されたタイミング(つまり、「商品」となったタイミング)で、その価値は「個人にとっての主観的な価値」ではなく「市場内での客観的な価値」で測られることになり、それぞれの価値(使用価値と交換価値)にギャップが存在するというのが、いろいろ分析していくときに重要な視点を与えてくれそう。

今日はここまで!