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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『21世紀の貨幣論』を読んでみた。

経済 読書

最近、『21世紀の貨幣論』を読んで、これが非常に面白かったので紹介。

21世紀の貨幣論

21世紀の貨幣論

お金はどのようにして生まれたのか

普段、何気なく使っているお金。
けど、よくよく考えてみれば、不思議なもの。

例えば、1000円札を出せば1000円のモノが買えるけど、なんでこんな紙切れ1枚で1000円もの価値のあるモノと交換できるのかと考えてみると、不思議。
だって、ただのモノとしての紙切れ1枚には、そんな価値はないわけだから。
実際、例えば戦国時代とかにタイムスリップしたとすれば、そんな紙切れを何枚積もうとも、モノを手に入れることは出来ない。
けど、今の世の中なら、かなりのモノを手に入れることが出来る。
これは何故なのか。

これにはいろいろな説明の仕方があると思う。
法律でお札の価値が保証されているからだとか、受け取ったお札を使えば今度は自分がそのお札で別のモノを手に入れることが出来るからだとか。

ただ、それは「今」の話であって、「昔」はそうではなかったわけで。
となると、気になるのは、どのようにしてそのような「システム」が生まれてきたのかということ。
だって、例えば仮にいきなり法律で「今日からこの紙切れは1000円の価値を持つようになります」と宣言されたとしても、それが急に受け入れられるようになるなんてことはないわけだから。
それが受け入れられるようになるには、それなりの下地がかならず必要になってくる。
でも、その下地がどのように生まれてきたのかとなると、かなり不思議。

これは言語の起源を考えるときに似ているものがある。
というのも、言葉というのも、ただ一人が言葉を使えるようになったとしても、意味がないものから。
言葉を話す誰かと、その言葉を理解する誰かがいて、その言葉は初めて意味をなすようになる。
同様に、お金というのも、それを使う誰かと、それを受け取ってくれる誰かがいて、初めて意味をなす。
しかも、その受け取ってくれる誰かというのは、当然そのお金を他の誰かが受け取ってくれるのを期待できるのでなければ、受け取るはずがない。
なので、そこにはさらにお金を受け取ってくれる誰かが必要になってくる。

これは、堂々巡りにも似た部分がある。
つまり、お金を受け取ってくれる人が他にいないのであれば、お金を受け取ってくれないし、お金を受け取ってくれる人が他にいるのであれば、お金を受け取ってくれる。
「この命題は真である」という命題が、偽と仮定すれば偽、真と仮定すれば真となるような。
そのいずれであってもこの命題の真偽は安定してしまって、他方へ移ることはない。
(それ故、この命題は真偽が定まらない)

となれば、「お金のない世界」から「お金のある世界」への変化には、とんでもなく大きな飛躍があるわけで。
どのようにしてこの大きな飛躍が成し遂げられたのかーーすなわち、お金はどのようにして生まれてきたのかーーというのは、かなり不思議と言わざるをえない。

よくある説明

お金がどのようにして生まれてきたのか、という疑問に対するよくある説明は、以下のようなもの:

まず、昔は物々交換でモノのやりとりをしていた。
けど、そこには一つの困難があった。
自分が何かを欲しいと思ったとき、その何かを持っている相手も同時に自分の持っている何かを欲しいと思わなければ、交換は成立しないということ。
それでは不便なので、やがて誰もが欲しがるものを介して交換は行われるようになった。
(例えば、自分は相手が提示してきたモノなんていらないけど、そのモノなら欲しがってる人は絶対いるだろうから、とりあえずそのモノを受け取っておいて、あとでそのモノを使って自分の欲しいものと交換する)
そして、その誰もが欲しがるものとして、やがて耐久性があって加工しやすく持ち運びもできる金や銀が使われるようになり、やがてお金になっていった。

これはなんとも納得がいく説明。
この本でも、著者が経済学を学んだことのない友人に「お金はどのようにして生まれたのか」を聞いてみて、友人はこの説明をしている。
さらにいうと、アリストテレスジョン・ロックアダム・スミスも同様の説明をしていると、この本は書いている。

アダム・スミスと同じ説明を出来たということで、この友人は鼻高々で、著者に「お前はこう考えているんじゃないか。経済学の学位を取るために何年も勉強してきたのに、あの時間は無駄だったんじゃないかって」と問う。
これには著者も困ってしまう。
違った意味で。

確かに、これはちょっと困ったことだった。
しかしそれは、友人が経済学の訓練を受けないでこの説にたどり着いていたからではない。
まったく逆だ。
問題は、経済学の訓練を何年も受けてきた人たちがこの説をうのみにしていることなのだ。
この説は明快で、直感的に理解できるかもしれない。
だが、現代の標準的な貨幣論には欠陥がある。
この学説は完全にまちがっているのだ。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

貨幣の歴史に学ぶ

ここからこの本では、時代を行ったり来たりしながら、貨幣の歴史に学んでいく。

物々交換経済は存在したのか

そもそも、本当に物々交換なんてあったのか、というのが、そのスタート地点。
というのも、そのような物々交換を行なわれていたという事実がなかったのであるとすれば、先程の説明は全く意味をなさないものになってしまうから。

そこで、研究者たちは、そのような物々交換を行なっている部族、あるいは、行われていた記録を探していくのだけど、結果は否定的なものだった。

この文脈に照らせば、ヤップ島(※ミクロネシアにある島で、石貨が使われてた)にマネーシステムがあるのは驚くべきことだった。
理屈としては、経済がこれほど単純なら、物々交換で運営されていていいはずである。
ところがそうはなっていない。
ヤップ島には高度に発達した貨幣と通貨の仕組みがあった。
これは特異な例だ。
しかし、こうした原始的な経済にすでに貨幣が使われていたのだとしたら、物々交換経済はいつ、どこでみつかるのだろう。

フィーネスのヤップ旅行記が出版されてから一世紀の間、この疑問は研究者たちを悩ませ続けた。
歴史的な証拠、民族学的な証拠が積み上がっていくと、ヤップはますますアノマリーには見えなくなった。
研究者たちは物々交換で取引をしている社会を探したのだが、歴史上にも、同時代にも、そうした社会を見つけることができなかった。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

ヤップ島の経済

ヤップ島の経済というのは面白く、石貨が使われていたのだけど、その石貨というのが実際に交換されて移動するといったことはめったになかったという。
これは、普段お金を使ってる感覚からすると、かなり不思議な感じがする。
「金は天下の回りもの」ということわざもあるくらいなわけだから。
じゃあ、どのように普段はやりとりしていたのかというと、実は信用取引が行われていた。
簡単にいうと、「貸し」と「借り」を記録しておいて、定期的に決算を行うというやりとりが行われていた。

例えば、AさんとBさんとCさんがいて、AさんがBさんに何かモノをあげたら、Aさんは「貸し1」が記録され、Bさんには「借り1」が記録される。
同様に、AさんがCさんに何かモノをあげたら、Aさんには「貸し1」が追加され、Cさんは「借り1」となる。
さらに、BさんがCさんに何かモノをあげたら、Bさんには「貸し1」が追加され、Cさんは「借り1」が追加される。
さて、ここで決算になったとする。
Aさんは「貸し1」が2つで「貸し2」、Bさんは「貸し1」「借り1」でプラマイゼロ、Cさんは「借り1」が2つで「借り2」。
なので、Cさんは「借り2」の分だけ石貨をAさんに渡して、全体の貸し借りが帳消しされるようにする、と。
(もちろん、決算の時点で貸し借りが全て清算されていたら、石貨を動かす必要なんてない。けれど、経済はちゃんと回ってる!)

このように、普段は「貸し」「借り」を管理して、それで打ち消せなかった分を示すための印として石貨が使われていたのだという。

ヤップ島のフェイ(※石貨のこと)が交換の手段でないのだとしたら、何がそうだったのだろう。
それ以上に重要なこととして、ヤップ島のマネーがフェイでなかったのだとしたら、いった何がヤップ島のマネーだったのだろう。

この2つの問いに対する答えは、とても単純だ。
ヤップ島のマネーはフェイではなく、その根底にある、債権(※貸し)と債務(※借り)を管理しやすくするための信用取引・清算システムだったのだ。
フェイは信用取引の帳簿をつけるための代用貨幣(トークン)にすぎなかった。
(省略)
ヤップ島の経済より規模の大きな経済でも、効果や通貨は必要だろう。
しかし、通貨そのものはマネーではない。
信用取引をして、通貨による決済をするシステムこそが、マネーなのである。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

「貸し」と「借り」と「お金」

お金を債権(貸し)の量を表すものだと考えると、これは非常に分かりやすい。
すなわち、モノやサービスを売ることで、社会に対して貸しを行い、その貸しの量を表すものとしてお金を受け取る。
お金をいくら持っているのかというのは、自分がどれだけ社会に貸しがあるのかを表し、すなわち、社会からどれだけ借りを受けることが出来るのかということを意味する。
なので、お金を支払うことで、社会から借りを受けるーーすなわち、モノやサービスを買うーーことが出来て、それで減った貸しの分だけお金が手元から離れる、と。

昔、『絶望先生』でお金の価値が逆転した世界ーーモノを買うとお金がもらえ、お金を払って仕事をする世界ーーが扱われたことがあって、とても面白いなと自分は思ったのだけど、この「お金は債権(貸し)の量を表すもの」という見方が出来ていると、このお金の価値が逆転した世界で何が起こっていたのかというのは、すぐに分かる。
すなわち、この世界では「お金は債務(借り)の量を表すもの」となっている。
モノやサービスを買うと、社会に対して借り(債務)を作っているわけだから、その借りの量を表すものとしてお金を受け取ることになる。
そして、モノやサービスを売ることで、その借りを返していき、返した分のお金が手元から離れる、と。

「お金」を「何か価値があるモノの代用物」とか「交換のための潤滑油」といった捉え方しか出来ていないと、この『絶望先生』の世界に出てきた「マイナスのお金」というのはとても説明のしづらいものにしかならないけど、「貸し」「借り」の考え方が出来てると、このようにすんなりと説明がつく。
物の見方というのは、すごく重要。

なぜ逆転は起きたのか

このヤップ島の話を始まりに、古代メソポタミア古代ギリシャ、中世ヨーロッパなどの歴史を見ていきながら、お金(マネーシステム)がどのように生まれてきたのかや、どのような問題を引き起こしてきたのか、それに対して、どのような対策が行われてきたのかなどが、この本では書かれている。
その中には、お金の悪い面に対抗するために、スパルタやソビエトがどんな政策をとったのか、という話も。

いずれも面白い話なのだけど、その中でも特に重要なのが、お金に対する見方の逆転はなぜ起きたのか、という話。

金本位制の崩れた今となっては「お金はモノだ(あるいは、価値あるものの代用品だ)」と考える人は少ないだろうけど、冒頭に書いたお金の生まれの説明が鵜呑みにされるほど、「お金はモノだ」という考え方が広く一般に染み渡っていたのは事実。
けど、歴史を紐解いてみると、その考え方が一般的になったのは比較的最近で、昔はそんなことはなかったという。
つまり、お金の見方に対する逆転というものが、そこでは発生している。

じゃあ、その逆転がいつ、どのようにして起ったのかーーもっと言えば、この逆転を起こしてしまって、それ以来その間違いが定説となるようにしてしまった大罪人が誰なのかと言えば、ジョン・ロックがその人だったりする。

議会は大蔵省のウィリアム・ラウンズに答えを求めた。
生え抜きの官僚として財務大臣に任命されたばかりのラウンズは、豊富な実務経験と金融界や商業界との幅広い人脈があり、優れた知性とイギリスの貨幣の歴史に関する広範な知識を持っていた。
ラウンズの報告は、的確で、説得力があり、現実を反映した常識に沿ったものだった。
(省略)
1695年12月、立憲政治という新しい政治体制の理論を打ち立て、立憲主義思想の最大の擁護者であったロックは、議会に招聘され、ラウンズの報告書に対する意見を求められた。
ロックはラウンズの提案(※インフレが起きていたので、それに合わせるように貨幣に含まれる銀の量を減らすべき、というもの)とそれを支える思想を辛辣に批判した。
(省略)
実際には、「人々は取引において、名称や呼称のためではなく、その内在的価値のために、つまり、そうした名称や呼称の正貨に含まれていると公権力が保証する銀の重量を得るために契約するのである」。
(省略)
ラウンズの主張で正しいものは、改鋳は適切だということだけだと、ロックは断じている。
しかし、犯罪行為による悪鋳をただ黙認する改鋳は行うべきではない、磨損・盗削硬貨を回収して、銀の法定重量を満たす硬貨に鋳造し直す改鋳を行うべきであると、ロックは主張した。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

これでどうなったのかというと、ロックの影響力があってロックの案が採用され、結果はもちろん大失敗。
現実に即してインフレさせる(硬貨の増やす)べきだったところをデフレさせた(硬貨を減らした)わけだから、そのあとの混乱は酷いものとなった。

けど、これ以来、ジョン・ロックの唱えた貨幣観(お金の価値は、そのお金に含まれる銀(や金)の量によって決まる、という見方)は一般的なものになってしまう。
なぜかと言うと、それはお金に関する「ある問題」を見えなくさせてしまう効果があったから。

その問題が何かといえば、お金の「標準」ーー「1円」の価値はどれくらいなのかーーをどうやって決めればいいのか、という問題。

お金がモノではなく、社会的なものなのだとしたら、その価値というのは相対的にしか定まらないことになる。
となると、その基準をどのように決めるのかというのは、難しい話となる。
実際には、この基準を巡って、君主と人民の間でせめぎ合いが行われてきた。

しかし、ここでロックの貨幣観になると、その問題は消えてしまう(正しくいうと、見えなくなってしまう)。
というのも、ここでは「銀(や金)」の「重さ」によってその貨幣の価値は固定されてしまうから。
「重さ」は自然現象なわけだから、そこに君主や人民の政治が介入する余地はなくなることになる。

ただ、これは本来相対的な空間に仮の原点を与えているようなもので、本質的には問題は消えていないし、場合によってはより根深い問題を残してしまう可能性がある。
(そして、実際問題を起こしている)
けど、このように単純化されたモデルは、ニュートンが絶対空間・絶対時間の上に見事な古典力学を構築したように、古典派経済学として大成し、その後の主流になっていく。

リーマンショックと女王の質問

さて、そんなロックによる逆転がどのようなことを引き起こしたのか、ということで出てくるのが、リーマンショック

リーマンショックがあったあと、女王エリザベス2世は、経済学の世界的権威たちに、次のように質問したという:

「なぜだれも危機が来ることをわからなかったのでしょうか」

この質問に対して、この本は以下のように答えている:

古典派のマネー抜きの経済学から、現代の正統派マクロ経済学が発展した。
マネー社会の科学は、大学で教えられ、中央銀行に採用された。
一方、バジョットの実務家の視点に立った経済学からは、ファイナンス理論が発展した。
売買のツールは、ビジネススクールで教えられ、銀行と債券トレーダーに取り入れられた。
一方は、マネー、銀行、金融が存在しない経済を理解するための知的な枠組みであり、他方は、マネー、銀行、金融を理解するための枠組みがあり、それ以外の経済の要素は登場しない。

こうした隔離政策がとられた結果、2008年に危機が発生して、金融セクターが史上最大のマクロ経済のクラッシュを引き起こしたときも、銀行セクターが崩壊して経済が危機から脱却できなかったときも、現代マクロ経済学と現代ファイナンス理論はまったく役に立たなかった。
幸運だったのは、ローレンス・サマーズが指摘したように、危機対応の指針となる別の系譜があったことだった。
(※別の系譜については、この本で説明されている)

しかし、「なぜだれも危機が来ることをわからなかったのでしょうか」という女王の質問に対する答えは単純明快である。
マクロ経済を理解するための大きな枠組みに、マネーが組み込まれていなかったからだ。
そして、「自分たちがこんな危ないことをしているのだと、どうして気づかなかったのか」という、多くの人が銀行や規制当局に突きつけたいと思っていた疑問に対する答えもまた、単純明快だった。
金融を理解するための枠組みに、マクロ経済が組み込まれていなかったからである。
(省略)
二つの貨幣観は、マネーをとらえる視点が変わっただけのことのように見える。
しかしその視点のちがいが、大きな乖離を生むことになったのである。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

つまり、ロックの貨幣観が導入されたことで、古典派では貨幣もモノの1つであると扱われるようになり、特別扱いされなくなった。
結果、そこには貨幣や金融といったものが出てこない理論が構築され、それゆえ、金融面で生まれていた大きなリスクを見つけることが出来なかった。

2001年には、世界的に有名なマクロ経済学者で、後にイングランド銀行総裁に就任するマービン・キングが経済学の現状を憂いている。
「経済学はマネーを研究する学問だとほとんどの人が考えている」が、実際はまったくちがうと、キングは言う。
マクロ経済学者同士の会話には、『マネー』という単語は滅多に出てこない」。
マクロ経済学者が使う標準的なモデルにマネーが組み込まれていないため、将来、問題が起きるのではないかと、私は考えている・・・マネーは今後、経済学者同士の会話にたくさん登場するようになるだろう」とキングは警告した。

将来、問題が起きるというキングの予測はあたり、世界規模の金融危機が発生した。
しかしそれは、経済学者同士の会話に「マネー」という単語がたくさん登場するという、もう一つの予測が外れたからにほかならない。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

他方、貨幣や金融というものがロックの貨幣観によってマクロ経済学から締め出され、それについて研究するようになったのが、ファイナンス理論だと言える。
こちらは逆に、貨幣や金融しか扱わないので、そこで生まれたリスクがマクロ経済や社会にどのような影響を与えるのかを考えることが出来ない。
そのため、そのリスクは恐ろしいまでに大きく膨れ上がってしまっていたのに、その恐ろしさに誰も気付くことが出来なかった、と。

これからの経済学

しかし今や、アインシュタイン相対性理論を生み出してニュートンの絶対空間・絶対時間を過去のものとしたように、歴史に学ぶことによって、ロックによる間違った貨幣観も過去のものになろうとしている。
今はまだ、マイノリティのようだけど。
ただ、これがちゃんとメジャーな考えとして定着するようになれば、今までロックの貨幣観によって隠されてしまっていた様々なものが見えてくることにより、もちろん理論としては複雑になるけど、よりマトモな、現実に即した経済学が生まれてくることが期待できる。

実際、この本の中では、銀行がどうあるべきかという問題に対して、分析と提案を行なっている。
それは、いくつか疑問点はあったけど、とても妥当な提案に思えた。

今後、経済がどうなっていくのか、期待。

「(省略)マネーは社会的な技術であって、モノではない。
標準的な貨幣感が間違っているせいで、マネーが機能しなくなっている。
しかし、マネーは人類が発明した最強の自治の道具であり、正しい貨幣観もすでにある。
もう一つの貨幣観に立てば、マネーの潜在的な力を発揮させられるようになる。
もしおまえがそう考えているなら、専門家に手紙を書くだけではだめだ」
「それなら、だれに手紙を出せばいいんだ? だれがマネーを管理しているんだ?」
「ーーおまえならこの答えの意味をわかってくれるよな。マネーを管理しているのは、おまえだ」
「マネーを使っているすべての人ーーってことか」
「そう。正確には、そう言うべきだと思う」
「だとすれば、本当にマネーを改革しようとするなら・・・」
「・・・最後は、俺たち自身の問題になってくるだろうな」
「そんなの知ってたよ」
ーーそう言った友人の顔は、自分がずっと正しかったことを確信したもののそれだった。
「何かを成し遂げようと思ったら、自分でやらなければだめなんだ」
(『21世紀の貨幣論』より引用)

今日はここまで!

21世紀の貨幣論

21世紀の貨幣論