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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

言語の限界について考えてみた。(その4)

前回の続き。

今回は(6)で、書いたのは2007年12月27日。


時間はどこからやってくるのか

「時間はあっという間に過ぎ去ってしまう」「一年はあっという間だった」という言葉はよく聞かれる。
しかし、なぜそう感じるのかということを考えてみると、これは不思議な話である。
実際にはたくさんの出来事があったはずであるし、一年間であれば物理的に一年間分の時間を過ごしてきているはずである。
しかし、思い起こしてみればそれは全て一瞬のことに思えてくる。
これはなぜか。

また、「現在」とは何なのであろうか。
ゼノンのパラドックスではないが、「今」ということを意識した瞬間には、その「今」は既に「過去」になってしまっている。
なぜこのようなことが起こるのか。

答えから言ってしまえば、このようなことが疑問に思えるのは、自分たちが時間の中に存在しているという誤解があるからに他ならない。

物理学での時空間モデルに慣れてしまっていると、時間というものがもともと存在していて、時間にしたがって世の中は動いていくと思いがちである。

しかし、時間というものについてしっかりと考えていこうとするならば、このモデルはいろいろな問題を孕む。
先程の、「現在」とは何であるのかということについて、このモデルでは答えの持ちようがない。

次のように現象学的なモデルを考えると、時間に関する謎というものについては大体説明がつくようになる。

時間というものがもともと存在しているわけではない。
自分たちは、何らかの活動を行う。
その行動を通して「今」という瞬間が刻まれていくことでしか、時間は生まれてこない。

「過去」というものは、潜在的にしか存在していない。
「想起する」という行為によって初めて、潜在的な過去は「想起しているという今」に「過去」として具現される。

なぜ過去のことは一瞬に思われるのか。
それは、想起されるときの「今現在」の時間が当時の時間と比べて圧倒的に短いからである。
(なんなら、当時と同じ時間だけリアルタイムで想起してみればいい。過去が短かったなんてとても思えないだろう。)

「現在」とは何なのか。
それは、今まさに行為を行っているということでのみ指し示されるものである。
「今」ということを意識した瞬間、「今」というのはその「意識しているという今」になってしまい、その意識している対象の「今」は想起されたものーー過去として具現されたものーーになってしまうので、その「今」は既に「過去」になってしまうのである。

このモデルは、一つ重要な帰結を導く。
すなわち、「考察をしている今」において、その「今」自身を考察することは原理的に不可能である、ということである。
なぜなら、その「今」自身を考察しようとした瞬間、その「今」は想起されて「過去」になってしまうからだ。
「今」について考察を行おうとすれば、その考察対象となりうるのは、過去の「今」の積み重ねによって生まれた「イメージとしての今」のみなのである。

言語考察の限界

これまでの「時間」に対する考察を見てくれば、次のことは明らかだろう。
すなわち、「今まさに考察を加えている言語」というものを今現在の考察の対象にすることは出来ない。
そしてこれは、言語の考察に対する限界の限界を示している。


ということで、時間論。

ベースとなる現象学の議論も思考実験もすっ飛ばしてしまっているので、正直これだけ読んで伝わるのかというと、かなりキビシイと言わざるを得ない・・・(^^;

『哲学散歩道』でも時間論に関しては書いてないから、どこかで書きたいとは思うんだけどね。

一応、思考実験は昔のブログで少し書いてて、あと、昔書いた以下の記事の「『ものさし』の恍惚と不安」「数と時と思考」で少し言及はしていたり。

基本となる考え方は、「『時間』が経っている(いた)ことを知るのに、『何』が必要なのか」ということ。
これを考えると、「過去」とか「未来」というのは存在していなくて(正しく言うと、存在しているのかどうか分からなくて)、「現在進行形の(幅を持った)今」だけが存在し、その「今」の中に記憶として潜在的な過去は存在していて、そして思い出す(想起する)ことで「過去」が「この今」に現れる、ということが見えてくる。
また、そこから、「過去」と「未来」の非対称性も見えてきたり。
(過去は「今」に潜在的に存在しているけど、未来は「今」にも存在していない)
あと、世界五分前仮説という有名な話があるけど、この仮説が正しいかどうかではなくて、どうしてこの仮説を立てることが可能なのか、という問いに対して、このモデルは明確に答えを与えてくれたりする。

それはさておき、言語の限界の話に戻すと、最後の部分は少し言葉足らずなところが。

ここでは、

「今まさに考察を加えている言語」そのものを考察の対象にすることは出来ない。

とだけ書いたけど、時間論に関して、

「今」について考察を行おうとすれば、その考察対象となりうるのは、過去の「今」の積み重ねによって生まれた「イメージとしての今」のみなのである。

と書いたとおり、「今」そのものは考察できないけど、「イメージとしての今」、すなわち「今のモデル(時間のモデル)」については考察可能だということに注意しないといけない。
すなわち、「言語」についても同様に、「今使っている言語」そのものは考察できないけど、「言語のモデル」については考察可能だったりする。

ということで、次はその「言語のモデル」についての話。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)