読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

言語の限界について考えてみた。(その1)

哲学

この前、「自分探し」に関する昔の記事を紹介した。

この中で、「限界」のモデルについて言及している部分があったけど、それに関連したこれまた昔の記事を紹介。
書いたときのタイトルは『言語の限界に関する考察。』で、(1)〜(7)の長編だったので、ここでも何回かに分けて紹介したいと思う。

まずは2007年10月7日と8日に書いた、(1)と(2)から。

一応、最初に補足しておくと、この記事は言語学に関する授業で書いたレポートを基にしていて、レポートの課題は飯田隆先生の『ウィトゲンシュタインーー言語の限界』を読んで、その感想や考察を書く、というものだったはず。

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)


はじめに

この文章では、言語について考えていくことで得られた自分なりの結果を述べていく。
それは、ウィトゲンシュタインからすれば、背景世界の存在を仮定しているように見えるだろうから、批判の対象にもなりうるだろう。
哲学探究』には、次のようにある。

われわれは決して理論を提示してはならない。
われわれの考察に仮説的なものはいっさいあってはならない。
説明はいっさい止め、記述がそれにとって代わらねばならない。

ウィトゲンシュタインの目的意識としては、本当は問題ではないことを、問題と思ってしまうことがいけないというものであったと思える。

確かにこの考えは大切ではあるが、自分が思うことは、ウィトゲンシュタインこそがこのことにとらわれすぎてしまっていたように思われる。

ただ単にあることそのものが正しい。
それはそうだろう。
ならば、問題があると思うのならその考え自体も正しいのではないだろうか。
重要なのは、何が正しいかというのは分からなくても、納得できるだけの答えをそこに与えることである。
正しいかどうかなんていうのは、二の次なのだ。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、次のようになるだろう。

問題への哲学者の対処は、病気への対処と似ている。

重要なのは背景世界の存在を仮定することをかたくなに拒むことではなく、それがあくまで仮定であることを認めた上で、それを活用することである。

(注、「はじめに」と書いてあるけれど、書いたのは一番最後で、提出ギリギリだったせいでかなり端折ってる^^; 自分の哲学の態度が構造主義的であることを示してる)

上下左右のない世界

さて、言語について考えようとすると、決まって思い出す文章がある。
それは、高校のときの国語の教科書に載っていた、「上下左右のない世界」(※1)という文章である。
残念ながら、原本が今手元にないので正確に引いてくることが出来ないのだが、内容は次のようなものであったと記憶している。

その文章では、まず次のようなエピソードが紹介されている:

ある宇宙飛行士がテレビの番組で自分の宇宙での経験を語った。
そのとき、ある識者が次のような指摘をしたという。
「あなたは今、頻繁に『上へ』とか『下へ』という言葉を使っていましたが、宇宙空間に上下なんかあったのですか?」
今まで雄弁に語っていた宇宙飛行士は、自分の短慮に気がついて黙り込んでしまったという。

そして、このエピソードを受け、次のように文章の著者は指摘していた:

私たちは普段何も考えずに「上」や「下」という言葉を使う。
しかし、よく考えてみれば「上」や「下」という言葉が意味を持つのは重力があってこそだ。
重力のない世界では「上」や「下」という言葉は意味を持たなくなってしまう。
これはちょっと考えれば気がつきそうなものであるが、重力のある世界が当たり前となってしまっている私たちにはなかなか気付けないことだ。

このことからさらに発展して、普段何気なく使っている言語というものが、いかに生活や文化に根ざしたものであるのかということを、この文章では述べている。
その例として、「太陽の色」の話(※2)が取り上げられていたと思う。
そして、言語について考えるときには、その背景となっている生活様式や文化についてまで考慮していくことが必要だ、とその文章はまとめていた。

(※1)
確かこのタイトルだったと思うのだが、検索をしても見つからないので、もしかしたら違うタイトルだったかもしれない

(※2)
日本の子供に太陽を描かせると赤い太陽を描くが、アメリカの子供に太陽を描かせると黄色い太陽を描く、という話

疑問と根本的な限界

自分はこの文章を読んだときに、なるほどと思うと同時に、次のような疑問を感じざるを得なかった。
「ならばその宇宙飛行士は、どうやって自分の宇宙での経験を語ったらよかったのだろうか?」

まず考えたのは、タイトルには「上下左右のない世界」とあるが、宇宙に行ったときに左右という概念はなくなるのだろうか、ということだった。
少し考えてみれば分かるが、宇宙に行ったとしても左右という概念はなくならない。
なぜなら、左右という概念は重力によって生じる概念ではなく、人間の体の構造から生じる概念だからである。
宇宙に行こうと、人間の体の構造が変わってしまわない限り、(トートロジー的な言い方ではあるが)右手のある方が右であり、左手のある方が左である。

ならば、本来は重力によって生じる上下の概念を、体の構造から生じる概念に拡張してしまえばいいのではないか、というのが当時の自分の行き着いた考えである。
すなわち、本来は空のある方を上とし、地面のある方を下としていたわけだが、頭のある方を上とし、足のある方を下と定義し直せばいいのではないか、というわけである。
これは普通であれば本来の重力による定義と矛盾することもせず、また宇宙空間での体験を語ることも出来るようになる。
こう考えると、上下という概念を拡張することを考えなかった識者の方が短慮であったのではないかとさえ思えてくる。(※3)

太陽の色にしても、確かに文化によって何色とみなすかは変わってくるかもしれないが、太陽の色そのものが変わってしまうわけではないのだから、それぞれの文化において太陽を何色と見なすのかという事実さえ知っていれば特に問題は起きないと思われる。

このことから、お互いの言語が何を指しているのかということに対して共通認識を得ることこそが重要であり、もしその共通認識が得られたのであれば、たとえ生活様式や文化が違っていたとしてもお互いの感覚を伝えあうことは可能なのではないかと自分は考えた。

しかし、これではダメなのだ。

上のような考えを発表した自分に対して、国語の先生は次のように指摘した:

確かに文化による色の違いはお互いに共通認識が得られるかもしれない。
太陽が黄色いと主張されたとしても、納得できる部分はある。
けれど、次のような場合はどうだろう。
色のない世界の住人に自分の見ている世界(色のついた世界)の説明を求められたとしたら、どう答えればいい?

自分はこう言われて初めて宇宙飛行士の置かれていた立場に気がついた。
そう、彼の置かれていた立場というのは、自分の体験した色のある世界というものを色を見たことがない人々に対して説明しなければならない立場にいたのだ。

確かに、色のない世界に存在する概念だけを用いて色について説明をすることは可能かもしれない。
しかし、どうやったらこの色を見たときに感じる「感覚」(※4)というものを、色のない世界の住人たちに伝えることが出来るだろうか?

同じように、確かに「上」や「下」という言葉の定義を拡張すれば、無重力空間というものがどういうものであったのかということを説明することは出来るかもしれない。
しかし、どうやったらその無重力空間での「感覚」というものを無重力を経験したことがない人たちに伝えることが出来るだろうか?

説明をすることは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない。
この事実は言語に対して一つの限界を与えているように思われる。
しかしこの限界というのは、本当に「言語そのものの限界」から生じている限界なのだろうか?
これについてはまた後で考察を加えたいと思うのだが、その前にこの“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない”ということに対して考察を加えていきたい。

(つづく)

(※3)
「上」や「下」という言葉を使ってしまっては「正しい向き」というものを勝手に想定してしまい、宇宙空間における空間の使用に対する思考の自由度を下げてしまう。
識者の指摘したかったことは、まさにこのことであったと思われる。
なので、この狙いを実現させるために上下の概念を拡張することを主張しなかっただけであり、決して上下の概念の拡張自体を考えなかったわけではないと思う。

(※4)
例えば、りんごを見たときに「赤い」と感じる、まさにその「感覚」。
哲学用語を使えば、「クオリア」のこと。


ちなみに、ここに書いてある「上下左右のない世界」の話は、自分の同人誌の『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』の中でも紹介していて、そこでは「正しさ」の限界を定めているものは何なのか、という問題提起を行うのに使っていたり。

それなら、人間の「正しさ」というのは、どの世界まで届くことが出来るのでしょうか?
人間は「正しさ」をどこまで求めることが出来るのでしょうか?
(『哲学散歩道I 「正しさ」を求めて』より引用)

これは、この文章の後の方でも出てくるんだけど、この文章自体が、自分の身体性の哲学の適用の一例として書かれたもののせい。
(もっとも、この文章を書いたときは、まだ『哲学散歩道』シリーズは世に出ていなかったのだけど)

元々は、『哲学散歩道』で扱った「『正しさ』の限界は何によって定まるのか」という議論があって、その議論が「言語の限界は何によって定まるのか」という問題に対しても同様に適用できるので、ここでもこの話を問題提起として使ってる。

今日はここまで!

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)