いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

選択と責任の話。

つい最近、『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた。』(以下、『ニー哲』)を読んだ。

面白かったので、感想とか思ったことはまた別に書こうと思うのだけど、キルケゴールサルトルの言葉を読んでいて、昔書いた文章のことを思い出したので、紹介。
ちなみに、書いたのは2005年8月12日。
そのときのタイトルは、「選挙に思うこと。」。
この文章自体、昔書いた文章の紹介を含んでて、その紹介してる文章を書いたのは、なんと2002年の頃w


昔書いた、選挙に対して自分が思ったこと。

自分は当時図書委員会に入っていて、そこで出していた広報誌に寄稿した原稿より。

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生徒会長はいつから「使える人」になったのか?

最近の選挙における公約を見ていて思ったのだが、生徒会長はいつから『使える人』になってしまったのだろうか?

最近の公約は、「学校をきれいにします」だとか、「長屋(※文化部部室棟のこと)の美化に取り組みます」だとか、あるいは今日出たものであれば、「学校の備品を修理したりします」というようなものが多かったような気がする。

でも、よくよく考えれば、そういった事は生徒会長にならなければ出来ないことなんだろうか?
学校の備品を修理します、というのならぜひともやって欲しい。
ただ、そんなのはわざわざ生徒会長にならなくたって出来るはずだ。

わざわざ生徒会長にならなくては出来ないことといえば、全校生徒を動かすこと――もっと言ってしまえば、学校としての政策を取り決める事のはずだ。

例えば、学校をきれいにしたいと思っているのだが、みんながなかなか動いてくれないのを嘆いている人がいたとしよう。
そこで、生徒会長になることで訴え、学校をきれいにしていくために「掃除を週3回に増やす(※男子校だったので、掃除は週2回、しかも軽くしか行われなかった)」というのを公約に挙げたとする。
そうすれば、みんなそれに対して賛成、反対の意を示すべく投票し、(恐らくはこんな公約では信任されそうもないが)もし信任されたらそれは多くがこの「掃除を週3回に増やす」という事に賛同してくれたということになるのだから、生徒会長としては公約通り掃除を週3回に増やし、また生徒には週3回掃除をやるという義務が生まれる。
選挙とは本来、このように、立候補者としては自分の実現したい事を掲げ、投票者の意向を調べるためにあるべきものなのではないだろうか?

しかし、現にある姿は「自分はこれこれのことを『してあげます』、だから信任して下さい」というような、こびへつらうような姿ではないのか?
まるで公約を実現するために生徒会長に立候補するのでなく、生徒会長になるために、とってつけたような公約を掲げているだけではないのか?
また、そうした事を『してくれる』のなら、会長にさせてやるよ、というような、投票者の姿はどうなのだろうか?

生徒会長はみんなのためにひたすら奉仕する『使える人』ではないはずだし、みんなだって生徒会長の行動による利益を享受するだけの人ではないはずだ。
むしろ生徒会長はみんなを引っ張り、またみんなは投票によって生まれた義務によって、生徒会長についていかなければならないはずだ。
(もちろん、盲目的についていかなければならないわけではなく、これはおかしいだろうということには反対する権利と義務を持つが)

もちろん、こんなのは理想論だといってしまえばそれまでだが、どの状態が理想なのかも分からないまま選挙が行われているのが現状なのではないかと思い、この文章を書いた。
ぜひとも考えてみて欲しい。

(※一部校正し、注釈を加えてあるけど、内容や文体は基本的に掲載時のもの)

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発行日を見ると'02.11.28とかなっていて、もう3年も前のことなのかと驚いたり。(※この文章を書いた2005年から見て3年前、ということ)
思えば、当時は自分も政治的な展開をしてたわけで、かなり熱く、また限りなく理想論を述べている(^^;
よく載せてもらえたものだ・・・

まぁとどのつまり、トップ丸投げ型の発想を批判したわけだけど、これは一高校の政治に留まることなく、日本全体における問題でもあるような気がする。
日本は歴史的に下からの改革(というか革命)がなかったものだから(あったとしても一揆とかで、政治的意志による革命――政治を自分たちの手のものへ、というもの――というよりは、反乱に近い)、政治はお上がやるもの、という意識が、民衆ーーというよりは大衆かなーーから抜けきっていないと思う。
政治というものが民衆の手に降りてきていない。

社会問題というのは政治家がスパスパっと解決してくれて、自分たちは何もしなくてもいいものだ、というのがさも当然であるかのように思われている。
本来的には、政治家というのはあくまで民衆の声の代弁者に過ぎないわけで、民衆がまずは政治的な主張や社会問題解決のための提案を行っていかなければならない。
で、そうした主張をしたからには、主張に対して責任と義務を負うことになる。

逆に、政治家の方にしてみても、社会問題というのは自分たちが解決してかなければならないという気負いがあるのか、自分たちが政治家である前に一国民であることを忘れて、その責任を一手に引き受けようとしている感がある。
ただ、裏返せばそれは、自らはその一人でないとする国民の政治参加を拒否する動きに他ならず(というのも、責任を共用しようとはしないわけだから)、度を越せば自分は愚かな大衆を導いているんだ、という発想が生まれてきたり、民衆への説明の不足(これは、民衆は問題について考える必要はなく、むしろ情報を与えることで下手に口を出されて困るんで、だったら最初から問題自体を民衆から隠してしまえ、という発想)が生まれてくる。

なお、このような意識は政治に関わる問題に収まることなく、いろいろな社会問題を引き起こしてもいる。
本質的なことを言えば、物事や行動に対する主体的意識の欠如と、それに伴う責任の欠如、となる。

例えば、よく何もしないくせに権利だけは主張してくる人がいたり。
これもやはり歴史によるところが大きいのだろうけど、権利というものは勝ち取るといったものではなく、お上からぽんと天下り的に与えられたり、あるいはそもそも自然に存在するものだという考えの人が多いんだと思う。
そこには主体的な意識(つまり、権利というものは自然にあるものではなく、自分自身によって獲得・維持しなければならないものである、という意識)というものはない。
となれば、権利というものはあって当然だという考え方なのだから、権利によって義務や責任が生じるだなんて思うはずもなく、先に挙げたような人が生まれてきてしまうというわけ。

ただ、勘違いして欲しくないのは、なんでもかんでも主体的意識を持って行動すべき、と言っているのではないということ。
もちろん各人には各人に出来る範囲のことがあるわけで、各人に受け持てる責任を超えて主体的意識を持とうとすると、今度はそれはそれで責任の欠如が生じ、本末転倒になってしまう。

ようは、何らかの行動をするのなら、その行動に対して責任を持ち、また自分が責任をとれないのならその行動をするな、ということ。
さらにいえば、自分が責任が取れないからということで行動をしないのであれば、その行動をしなかったことによって自分が不利益をこうむったとしても、それは「行動しなかった」という行動に対する責任であるのだから、文句を言うな、ということ。


当時から、「行動しなかった」という行動に対しても責任がある、ということを指摘していて、これは『ニー哲』でキルケゴールが言及していた「選択しない」という選択や、サルトルが言及していた自由の闇の部分に通じるものがあるなぁ、と。
ちなみに、キルケゴールサルトルは読んだことないw

以下、『ニー哲』から引用。

まずはキルケゴールと主人公アリサとの対話。

「自分の行動によって、自分の人生が変えられることに対する不安です」
「うーんそれって、素晴らしいことじゃないの?」
(中略)
「僕たちはつねに自由なんです。自由だからこそ自分で何かすることが出来る。そして逆をかえせば、自由だからこそ、何もせずにいることも出来るんです」
「自由だからこそ、何もせずにいる?」
「はい、例えば“何かを選択する”というと、何かを選んで行動することだと思いがちですが“何かを選択する”というのは、何かを選んで選択するだけではなく、何もしないという行動も選択できるということです」
「何もしないという選択、ですか」
「そうです。例えば“仕事を辞められない”と嘆いている男性がいるとしますね。彼は、辞められないのではなくて“辞めない”という選択をしているだけです」
「どうしてですか? だって、実際に辞められないかもしれないじゃん」
「どうして“辞められない”のですか?」
「例えば、上司からのプレッシャーとか、経済的な問題とか……」
「それは“辞められない”のではなく、上司からのプレッシャーや経済的な問題を無視してまで“辞めたくない”という選択をしているのです」
(中略)
「そうです。人は自分で気づいてないかもしれませんが、つねに選択しながら生きているのです。そして何かを選択するということは、選択しなかった可能性もしくは、選択肢として思いつかなかった選択の可能性が生まれます」
(中略)
「そうです。何かを選択するということは、“選択しなかった先の可能性”を生むことになるのです」
「そうすると、選択しなかった可能性に後悔することもある、ということだよね」
「はい。私たちは自由です。自由に生きているということは、何を選択してもいいという状況下にありますし、また“何も選択しないという選択”をとることも出来るのです」

次にサルトルとアリサとの対話。

「(省略)人が本質……つまり生きている理由、存在している理由を持たないということは、人は何ものでもなく、自由な存在であると言える」
「自由な存在であると言える、というのは、どういうことですか?」
「どのようにも生きていける、つまり人は自分をつくっていけるというわけだ」
(中略)
「つまり、現状の自分に固定されることなく、未来に向かって変貌をとげていけるのが人であり、どのように変貌をとげるかは、自分でつくっていけるというわけだ。しかし、ここでひとつ、注意して欲しい。自由には闇の部分がある。いいことばかりではない」
「闇の部分がある?」
(中略)
「そうだ。つまり自分で何ごとも選択して、変貌をとげていける分、それがどのような結果になろうともすべて自己責任ということだ。(省略)自由とは、自分が望んだものなんにでもなれる!という楽観的な意味ではない。すべて自己責任であり、たとえ望まない結果になろうとも、その結果ごと引き受けなくてはならないのだ」

この二つを足すと、自分の言説にだいぶ近いものになることが分かると思う。
もっとも、自分の言説はCLAMPに影響されている部分が大きいのだけどw

ちなみに、この議論の根っこには、「人には自由意志が存在する」という前提があったり。
これは刑法の基本的な考え方にも含まれていて、それゆえ、責任能力の有無が問題になったりする。

けど、じゃあ自由意志が存在しないとした場合も、責任をとらなければならないのか、という問題があったりする。
これに関して力強く「YES!」と答えているのがニーチェであり(そのために「永劫回帰」という概念が出てきてる)、自由意志とは無関係のレベルで「構造」が社会に存在し、自分たちの行動には、自由意志ではなく構造によるものもあるということを指摘したのが構造主義だったりする。

それが自分の意志による選択の場合はもちろん、自分の意志によらない選択であったとしても、その結果(これは良い場合も悪い場合もある)を受け取るのは、生きている「この自分」ーーもっと言えば、「この身体」ーー以外の何ものでもないので、その行動の責任(賞罰)は(場合によって大小はあれど)常に「この自分」で受け止め、そして「肯定」していかないといけないんだろうなぁ、というのが自分の考え。

無為に過ごして一日を無駄にしてしまったと思うことはよくあるけど、それすらも、それは自分が(自分の身体が)選んだ一つの道であり、何も悪いことではない。
『ニー哲』読むと、そうやって意識低く生きるのはダメなような気がしてくるけど、そんなことはない。
それも一つの「選択」なんだから。

自分の同人誌『哲学散歩道III』から引用。

さらに言えば、「この身体」からすると「正しさ」を求めることすら選択肢の一つにすぎません。
哲学散歩道Iの「正しくなくてもいいじゃない!?」を覚えているでしょうか?

一方では出来る限り正しくなりたいと思いながら、他方では程々の正しさでいいと思っているーー
結局、「正しさ」というのは誰のためにあるものなのでしょうか?
誰が何のために「正しさ」を求めるのでしょうか?
(『哲学散歩道I』より)

この答えも、今なら分かるかと思います。
「この身体」が「正しさ」を求めているのです。
そして、「正しさ」から得られる利益とそれに支払うコストには、当然トレードオフの関係があります。
それゆえ、このようなことが生じるわけです。
そして、「正しさ」をどれくらい求めるのかを決めるのは、あなたなのです。

今日はここまで!