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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

大切な『ココロ』。

昨日の記事に関連して、『ちょびっツのツの字』に投稿した他の文章も。

昨日の記事は、以下から。

以下の文章も書いたのは2003年の頃。


アレにもヒトにも一番だいじなもの――CLAMPはこの『ちょびっツ』という作品の中で『ココロ』、そして『思い出』『記憶』というものを一番だいじなものとしてあげていると思う。
それは6巻での店長さんと裕美ちゃんとの会話から見て取れる。

ただここで気を付けなければならないことがある。
それは『ココロ』が『思い出』『記憶』と同等のものとして扱われているときとそうでないときがあるということだ。
前者は問題がないと思う。
問題は後者だ。
このときの『ココロ』は、いうなれば『魂』ということが出来るようなものだ。
具体的にいうと8巻97ページなんかがある。
そしてこのシーンは重要な意味を持つ。
「あるよ。ちぃの心はオレの中にある。」
この秀樹の言葉だ。
ちぃには命はない。
それにパソコンだ。
それでも秀樹はちぃを他のものといっしょくたにすることが出来ない。
それは「本須和」が「ちぃ」に『ココロ』を与えているからだ。

このことはもっと一般化、抽象化が出来る。
人間は命のないものに対しても愛おしいという感情を抱くことがある。
それは日比谷さんがいっちゃんさんに言った言葉、「おもちゃだって分かってるのに、生きていないって分かってるのに、どうしてこんなに可愛いと思ってしまうのかしら」「どうしてこんなに心配だったり嬉しかったりするのかしら」(7巻100ページ)からも見て取れる。
それに対するいっちゃんの「千歳が生きてて心があるから可愛いんやろ」っていう言葉の通りだと思う。

ものがただ存在するだけではそれに最初から『可愛い』などの『価値』や『評価』は存在しない。
それを誰かが見て、そして何らかしらのことを『心』で感じて始めてそういった『価値』『評価』を持つ。
それと同じように、そのものに対して『心』があると『心』が感じて始めてそのものに『心』が生まれる、といえるのではないだろうか。
そして自分自身の『心』は自分自身がその『心』を感じることで、また他人によって『心』を見て取られることで初めて『心』が生まれる。
これは自分自身がその『心』を感じ取れなくなったとき、つまり気が狂ってしまったときに、他人にはそれがその人の『心』が壊れてしまったと見えることと一致するので妥当だといえるだろう。

そして重要なのがその『心』がどこに生まれてくるかだ。
それは『価値』や『評価』がそうであるように、『心』がある、と思われたそのものにでなく、そう思った『心』に『心』は生まれてくるのだと考えられる。

しかしこれでは分かりにくい。
そこで実際に存在する『心』をそのまま『心』、『心』によって作られる『心』を『ココロ』とし、さらにその『ココロ』がどこに生まれてくるかをはっきりさせると次のようになると思う。
すなわち、「それが生きているものでも、生きていないものでも、それに対して”それには『ココロ』がある”と『心』が感じたとき、その『ココロ』はそう感じた『心』に生まれる」。
具体的にいうと、秀樹の『心』がちぃに『ココロ』があると感じたときちぃの『ココロ』は秀樹の『心』に生まれる、となり、これは作品の状態に一致するといえるだろう。

そしてこのことがとても重要な意味を持つのは、これが前に見て取れるように「生きていないもの」だけでなく「生きているもの」にも言えるということだ。

近年、凶悪な犯罪がたくさん起きている。
多くの人が”よくもまぁあんなひどいこと出来るものだなぁ”と思うようなものもある。
でも、これはまさに上のことが当てはめて考えていくと納得がいく。

普通、人を殺すなんてことは出来ない。
それは殺そうとする人が殺されそうになっている人に『ココロ』を感じるからだ。
たとえ殺してしまったとしても何らかしらの嫌な思いが残るだろう。
でも、もし殺そうとする人が殺されそうになっている人に『ココロ』を感じなければ殺そうとする人にとってその殺されそうになっている人はそこらの石ころと同じ、『心』のないもの、大切に思う必要のないもの、たとえそれが死のうが殺そうとする人には関係のないものとなってしまう。
だからこそ普通の人には信じられないような残酷なことも出来てしまうと考えられないだろうか。
このように近年の凶悪犯罪の分析において先に述べたような考え方は重要だといえると思う。

また、作られた『ココロ』はあくまで『ココロ』であって『心』ではありえないというのがまた重要だ。
これは別のCLAMP作品、『東京BABYLON』で繰り返し述べられる『誰かの苦しみを完全に分かることなんて出来ない』というのにつながる。
苦しんでいる人の姿を見てその人の『ココロ』を自分の中に感じてその人がどれだけ苦しんでいるかは少しは感じられる。
でもその人の『心』そのものを作るわけでもないし、その人の『心』そのものに触れられるわけでもない。
だから完全に理解するなんてことが出来るはずがないわけだ。

こういった『ココロ』というものがどういうものかが『パソコン』という生きていないものとの恋愛を媒介にして描かれ、そしてその『ココロ』がどれだけ大切なものかが『ちょびっツ』からは読み取れるだろう。


当時の「関係性」の哲学がよく表れてるw

ただ、これだといろいろ足りなかったり。
それについては、また明日書きたい。

今日はここまで!

ちょびっツ(1) (ヤングマガジンコミックス)

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