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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

傲慢は哲学をスピリチュアルに至らしめる。

哲学

Twitterを見たいたら、次のようなツイートがあった。

なんとも無茶苦茶な論で、慎重であるべき哲学が、無反省なスピリチュアルの域になってしまってるとしか思えない。
「身体」を軽視し、「理性」を尊重する「傲慢」は、哲学をここまで堕落させるのかと・・・

自分の同人誌『ゆうら 意識の眼差し』を読ませたら、頭をガツンと叩かれるような衝撃を受けるんじゃないかな。

以下、『ゆうら 意識の眼差し』のあとがきより引用。

 最後、ゆうらの見た夢の話。
 これも自分の見た夢が元になってます。ただし、方向は全く逆です。ゆうらの夢では少しずつ身体を発見していきましたが、自分は逆に、身体を失っていく夢を見ました。なので、ゆうらが行った身体の感覚を切っていく実験の方こそが、自分の夢には近いものとなっています。
 具体的には、身体がどんどん子供に戻っていく夢です。たしか、大学の頃に見た夢なのですが、高校の頃に戻り、中学の頃に戻り、小学校の頃に戻り、幼稚園の頃に戻り、赤ちゃんの頃に戻り……と、どんどん幼くなっていきました。このとき、思考もどんどん幼くなっていったように思うのですが、ここからさらに、子宮の中に戻り、身体の成長がどんどん巻き戻されていって、細胞の数も少なくなっていき、細胞が8つ、4つ、2つとなって、最後には受精卵へと戻ります。そこからさらに精子卵子に分かれるのですが、はてさて困った。自分の意識は精子卵子のどちらにあるんだろう、となったわけです。ここに来て、そもそも脳がないような状態において、意識なんて存在するはずがないということに気づき、自分はただ、子供に戻っていく自分の身体を外側から見ていただけなんだということに気づきました。そして、じゃあ実際に身体がなくなったとしたらどうなるんだろうと考えたときに得られたのが、最後の話です。
 「我思う、ゆえに我あり」じゃないですが、意識があるときには常に意識があるので、意識は意識単体で存在出来てしまうかのような錯覚を覚えます。でも、実際にはそうじゃないわけです。そのことを追体験して気づいてもらうための実験をゆうらには行ってもらっています。

冒頭のツイートの話に戻ると、これはただ「映画の外側に、映画を見ている『身体』が存在していること」を「忘れている」だけ。
「意識」が「映画」に取り込まれていて、「意識」が映画の外側に存在する「身体」のことを忘れているので(でも、「身体」はそんな「意識」に意識されることがなくても、働き続けている!)、「身体」がなくても「意識」が存在するかのような「錯覚」を「意識」がしてしまっているだけ。
実際、この状態で「身体」を殺せば、「意識」は「自分がいなくなったことに気づくこともなく」消えてしまう。
(そう、「意識」は「自分がいなくなったこと」にすら気づくことが出来ない。それゆえ、「常に存在できる」という錯覚を起こすので、傲慢なんだけど)

これは自分の同人誌『哲学散歩道III』でも引用したものだけど、ニーチェの指摘に対して、哲学者はもっと真摯になるべきじゃないかな。

 身体を軽蔑する者に、わたしはわたしの言葉を言いたい。かれらが考えなおし、説をあらためることなどは、わたしは求めるところでない。かれらはさっさと自分の身体に別れをつげて、ーー口をきかなくなってもらいたいものだ。
 「わたしは身体であり魂である」ーーこれが幼な子の声だ。なぜ、ひとは幼な子のように語ってはいけないのか?
 さらに目ざめた者、識者は言う。わたしはどこまでも身体であり、それ以外の何物でもない。そして魂とは、たんに身体における何物かをあらわす言葉にすぎない。
 身体はひとつの大きな理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。戦争であり平和である。畜群であり牧者である。
 あなたが「精神」と呼んでいるあなたの小さな理性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。
 「わたし」とあなたは言い、この言葉を誇りとしている。しかし、もっと大きなものは、ーーそれをあなたは信じようとしないがーーあなたの身体であり、その大きな理性である。それは「わたし」と言わないで、「わたし」においてはたらいている。
(『ツァラトゥストラはこう言った』「身体の軽蔑者」より引用)

今日はここまで!


なお、もし自分の同人誌に興味のある人がいれば、連絡ください。
通販します。