いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

「多数決」について改めて考えてみた。

以前、多数決に関して、以下のような記事を書いた。

これは「投票された割合に応じて権限を与えるべきでは?」という意見に対して、数学的な視点から分析した話。

これとは別に、ちょっと思ったことがあったので、今日はそれについて書きたい。

功利主義と世代間倫理

「多数決」の根っこにある考え方は、功利主義
つまり、「出来るだけ多くの人が、出来るだけ多くの幸せを得られるようにしよう」という考え(「最大多数の最大幸福」)が、「多数決」という方法論の根っこには存在している。

けど、現状の「多数決」は本当に「最大多数の最大幸福」を実現しているんだろうか、というのが今回の話。

もちろん、本当に「最大多数の最大幸福」を目指すなら、「多数決」という方法に頼らず、全員が納得できるまで議論を尽くすというのがベスト。
ただ、それは理想ではあるのだけど、実際には難しく、最後は「多数決」に頼らざるを得なくなるケースも多い。
なので、「多数決」を行うのは仕方ないとしても、その「多数決」のやり方が、現状で本当に妥当なものになっているんだろうか、ということを今回は考えていく。

さて、なんで自分が改めてこのようなことを考えたのかというと、ツイッターで、次のような夫婦別姓に関する世論調査の結果を見たから。

60代以下では「同じ名字を名乗るべき」としている人がいずれの世代も50%未満であるにも関わらず、70代以上で「同じ名字を名乗るべき」としている人が70%近くいるため、全体では「同じ名字を名乗るべき」が50%以上となってしまっている。
夫婦別姓を選択できるかどうかの影響を直接受けるのは、これから結婚をしていくであろう20代・30代であるはずなのに、人口全体に対する老人の割合が多いため、老人の意見が若者の意見より優先されてしまう、ということが起こっている。

こうやって考えると、よく「若者が選挙に行かない」なんて言われるけど、現状の選挙の仕組みでは、少数派である若者の意見が軽視されてしまうので、「どうせ自分が選挙に行ったって、結局、人数の多い老人の意見が通るんだから、意味ないでしょ」と、選挙に行くモチベーションが下がってしまうのも、当然とも言える。

このことをもうちょっと踏み込んで考えてみると、現状の「多数決」の仕組みでは、次のような問題があることに気がつく。

例えば、「日本の資源を50年で豪勢に使い切りましょう」なんて法案が出たとする。
こんなバカな法案、通るはずがないんだけど、現状の「多数決」の仕組みを考えると、実際には通ってしまう可能性がある。
というのも、日本の人口ピラミッドを見てみると、50代以上が50%以上を占めているから。
50代以上の人が50年後も生きている可能性は低いわけだから、資源を50年で豪勢に使い切るようなことをしても、自分が生きている間にそのツケが回ってくることはない。
なので、もし50代以上の人が純粋に「自分の幸せ」だけを考えて投票をするのなら、それは過半数を超えることになり、つまり、この馬鹿げた法案が通ることになってしまう。

じゃあ、この「多数決」は「最大多数の最大幸福」を実現していないのかというと、そんなことはなくて、「この瞬間だけ」を見れば、それは確かに「最大多数の最大幸福」を実現している。
けど、「未来まで」考慮に入れた場合、それは「最大多数の最大幸福」を実現していない。
だって、資源が使い切られた次の瞬間から地獄のような生活が始まるわけで、その先、幸福の総量は増えていかないことになるのだから。
これが、仮に資源を使い切っていなければ、未来の子供たちが幸福を生み出し続けていくわけで、その幸福の総量は資源を使い切ってしまった場合の幸福の総量を上回ることになる。
なので、「未来まで」考慮に入れて「最大多数の最大幸福」を実現しようとするなら、現状の「多数決」の仕組みでは、力不足と言える。

上で出したのは極論ではあるのだけど、現実でも近いことは起きていて、例えば低年金所得者への三万円給付とかはまさにこの話と言える。
つまり、日本の将来のことを考えるなら、老人よりも子供への投資を考えるべきだけど、「子供のいる家庭」から得られるであろう票数よりも、「老人」から得られる票数の方が多いということから、このような政策が実行されるのだと考えられる。

倫理学では「世代間倫理」というものが考えられていて、これは「現在を生きている世代は、未来を生きる世代の生存可能性に対して責任がある」という考え方。
現状の「多数決」の仕組みでは、この「世代間倫理」を保証することが出来ない。

民主主義的な決定方式は、異なる世代間にまたがるエゴイズムをチェックするシステムとしては機能しない。構造的に民主主義は共時的な決定システムであり、地球環境問題が通時的な決定システムを要求しているからである。
(『環境倫理学のすすめ』加藤尚武 著 より引用)

では、どうすればいいのか?

「寿命の残り」による重み付け

ここで問題は、「未来まで」考慮に入れた「最大多数の最大幸福」を実現できていないことなのだから、「未来まで考慮に入れた幸福の総量」を考えてやればいいことになる。

例えば、平均寿命が80才だとする。
このとき、0才の赤ちゃんが死ぬまで常に1の幸福を得られ続けるのだとすれば、その幸福の総量の期待値は80となる。
一方、70才の老人が死ぬまで常に1の幸福を得られ続けるのだとすれば、その幸福の総量の期待値は10となる。
なので、「即時的には」その幸福の量はどちらも1だけど、「通時的な」幸福の量を計算する場合、「寿命の残り」の期待値を重みとして掛けることになる。

これを投票の仕組みに取り入れると、すなわち、「寿命の残り」の期待値が大きいほど、影響力が大きいようにすればいいことが分かる。
具体的には、「寿命の残り」の期待値(に正の相関を示す値)を票数に重みとして与えてやる。
これにより、これから先の人生が長い子供や若者の影響力が大きくなり、一方、残りの人生が短い老人の影響力は小さくなる。
考えてもみれば、投票による影響が長く続くのは子供や若者なわけだから、子供や若者が老人よりも未来に対する決定権を持つべきというのは、当然のことだ。

もちろん、学校にも行っていないような子供が投票を行うなんてことは出来ないので、実際には親が子の幸せを願うという前提のもとで、子供の投票権も行使するということになる。

こうした場合、子供を持っている親の影響力はとても強いものになるので、政党も子育て重視の政策を出さざるをえなくなると考えられる。
それは、巡り巡って人口を増やすことにつながるので、年金システムを支えてくれることになり、結果的に老人にも優しい社会になる可能性がある。

なお、この重み付けの一例として自分が考えたのは、次のような関数。

 {
\mbox{max} \left\{ 1, \lfloor10 e^{-0.023 \mbox{age} } \rfloor \right\}
}

これは、

  • どの人も最低1票の重みは持つ
  • 年齢が低いほど、票の重みは大きくなるようにする
  • 指数関数的な重み付けにする(年齢が低いほど年の差の影響が大きく、年齢が高いほど年の差の影響が小さくなるから)
  • 0才の票は100才の票の10倍の重みを持つ
  • 重みが小数の場合、小数点以下は切り捨て

という考えから導出した関数で、年齢と重みの関係は、次の表のようになる。

年齢 重み
0歳 10票
1〜4歳 9票
5〜9歳 8票
10〜15歳 7票
16〜22歳 6票
23〜30歳 5票
31〜39歳 4票
40〜52歳 3票
53〜69歳 2票
70歳〜 1票

この重み付けだと、例えば成人した直後は50代の2倍〜3倍の影響力を持つことになり、「どうせ自分が選挙に行かなくったって・・・」なんて、とても言えないことになる。

考えられる問題点

もちろん、この方法も完璧ではなくて、いろいろと現実的な問題が考えられる。

例えば、「発言力を得るために養子をとりまくって、それなのに世話はしない」といった問題だとか、「子供を(様々な理由で)産めない人や、独身者が軽視される」といった問題、あるいは、現代の姥捨とも言える「老人からの搾取が行われる」可能性もある。

これらについては、人権がちゃんと守られるように、あらかじめ予防線を張っておく必要がある。
もちろん、そういった予防線すら、多数決の暴力で取り払われてしまう危険性があるので、かなり難しいのではあるのだけど・・・

そもそも、そのようなシステムが採用されるのか

あと、根本的に、そもそも上記のような投票システムを、現行の投票システムで認めるようなことが起こるのか、という指摘があった。

これはもっともな意見で、なんともツラいところ。
論理の妥当性から判断されるのが望ましいのだけど、人間、そう論理的に判断できるものではないからね・・・

今日はここまで!