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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』を読んでみた。

本屋をブラブラしていたら、面白そうな本をみつけた。
タイトルは『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』。

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

気になったのでさっそくhontoで電子版を購入して読んでみた。

概要

高校を卒業したあと、フリーターをしていた著者。
その後、父親のハンガリー行きに同行し、そこで「自然の食」の衝撃を受ける。
帰国後、大学に入ることを決意し、農学部に入って、卒業後、有機農産物の卸販売業社に入る。
しかし、そこであったのは、儲け主義の洗礼。
産地偽装や不正は当たり前。
いらぬ正義感を振りかざしたことで、職場から総スカンを食らって、精神的に体力的にもボロボロになる。
そんなとき、あるキッカケから「パン屋」になることを目指すことに著者。
そのあとも様々な困難にぶつかるものの、いろいろ試行錯誤していく中でそれらを乗り越えていく。
そうした試行錯誤、「菌」との触れ合いの中で、著者が考え、感じ、掴んだことが、著者の経験とともに語られている。

「経験」から語られる言葉の力

なお、「腐る経済」という言葉がタイトルに入っているけれど、経済に関して本質的な考察が入っているというわけではない。
本の中で触れられている経済の話は、マルクスの『資本論』の話と、『エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』の話くらい。
どちらも、著者がいろいろ考える上で、その考えを所々借りているという感じで、批判的に読んでその内容を実践しているというわけではない。

ただ、それでこの本の価値が下がるかというと、そんなことはなくて、この本の本質は、著者が実際に試行錯誤した経験がありありと語られていることだと思う。
経験から語られている言葉は、それだけで力を持つ。

面白いのは、この著者の試行錯誤の様子が、とても「科学的」であるということ。
もっとも、著者自身はとても「科学」に批判的な意見を持っていて、「自然の持つ生命力」を賛美し、「人工的なもの」を悪しとしている。
実際、著者の語る言葉には感覚的なものも多くて、そういう意味では「非科学的」。
でも、その方法論をちゃんと見てみれば、とても「科学的」。
仮説を立て、実際に試してみて、その結果から考え、フィードバックを行う、というコツコツした実践の繰り返しが行われている。

どうしても「科学 vs 自然」という対立項で考えられてしまうけど、「科学」というのは本来、このように「自然」をどう捉えるのか(さらにいくと、その「自然」をどのようにコントロール出来るようにするのか)という「自然との対話」の試行錯誤によって生み出されてきたもの。(「自然科学」っていうでしょ?)
それが次第に体系化されていき、より少ない原理でより多くのことを説明できるようにしていく中で、その「自然をコントロールしようとする部分(結果)」だけが「科学」と捉えられるようになって、まるで「自然」と対立するものであるかのようになってしまった。

けど、本来の科学とは、そういったものじゃない。
この著者は、本来の科学の方法論に立ち返って、それを(本人はおそらく無意識に)実践している。
そして、それが「経験」となって語られ、言葉に力を与えてくれている。

「個性」とは

自分がこの本を読んでとても印象的だったのが、次の文章。

 必要なものが社会に広く行き届いた時代、「商品」を買ってもらうために、「商品」の違いを際立たせる「差別化」や「ブランド」の重要性が語られることしきりである。
 でも、「田舎のパン屋」から見ると、これはなんだか見当違いのような気がしてならない。「差別化」しようとしてつくったものに、大して意味のある違いなんか生まれないと思う。
 「個性」というのは、つくろうとしてつくれるものではない。つくり手が本物を追求する過程で、もともとの人間性の違いが、技術や感性の違い、発想力の違いになってあらわれて、他とどうしようもなく違う部分が滲み出て、その必然の結果として生みだされてくるものだ。

これはホントにそうだと思う。
「差別化」や「ブランド」のために、ほとんど使われないような機能がどんどん追加されて、ユーザのことを考えられていない商品がどれだけ世に蔓延っていることか・・・

例えば、かつて日本の携帯は「ガラパゴス」と呼ばれていたけど、iPhoneが生まれたことで、この状況は改善されたようにも思えた。
しかし、そのあと登場したandroidのせいで、日本のスマートフォンは再びガラパゴスの世界へ。
幸い(?)、Googleが「プラットフォームを固定する」ことの大切さに気づいて、このガラパゴス化はだいぶ落ち着いた感じがあるけれど、ジョブズ亡きあとのAppleもやや迷走している感は否めず、今後どうなっていくのか・・・

まぁ、その話は置いておくとして。
面白いのは、この発言が筆者の経験から生まれてきた言葉だということ。
上記の文章に続く以下の文章が、とても強い説得力を与えてくれている。

 パンの道を歩みはじめる前の僕は、「人と違うことをしたい」ということだけを考えていた。学園祭つぶしのゲリラライブを決行したのも、変わったことをして目立ちたい願望があったから。停学処分が明けたあとは、頭をモヒカン刈りにもした。
 でも、人との「違い」を見せつけるためにやってきたことは、結局何ひとつ自分の身にならなかった。今なら、その理由がよく分かる。「人と違うことをしよう」という発想は、「人と違うものがない」ことを自覚していることの裏返しでしかないのだ。
 あのとき、僕がなすべきことは、自分が心から打ちこめるものを探すことであったはずなのに、髪型を変えたり、奇抜なことをしてみたり、手っ取り早く、「人と違う誰か」に見える方法を追いかけていた。そんなふわふわした状態で10代と20代を過ごしてしまい、ハンガリーで大恥をかき、30歳でようやく気がついた。僕は何も身につけていない、何物にもなれていない、と。

「腐る経済」と「腐らない経済」

ところで、タイトルにもある「腐る経済」とは、一体どのようなものなのか?

実のところ、これについては体系的に語られているわけではない。
エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』で述べられている、地域通貨による地域循環型の経済を理想として語っている程度。
そして、その経済の潤滑油としての存在(地域通貨)に、著者たちのつくるパンがなれたらいいな、と。

地域通貨に関してはまたいろいろと語りたいこともあるんだけど、それはまた別の機会にするとして、ちょっと疑問を投げかけておきたいのが、「お金は本当に腐らないのか?」ということ。

本文に、以下のような文章がある。

 おカネは、時間が経っても土へと還らない。いわば、永遠に「腐らない」。それどころか、投資によって得られる「利潤」や、お金の貸し借り(金融)による利子によって、どこまでも増えていく性質さえある。
 これ、よく考えてみるとおかしくないだろうか? この「腐らない」おカネが、資本主義のおかしさをつくりだしているということが、僕がこの本で言いたいことの半分を占めている。

 おカネは「腐らない」ばかりか、資本主義のなかで「利潤」を生み、金融を媒介にして、「信用創造」という「利子」の力でどんどん増えていく。かたちあるものはいつか滅び、土へと還るのが、自然界の抗いがたい法則なのに、おカネはそもそも、そこから外れ、どこまでも増え続ける特殊な性質をもっている。そのおカネの不自然さが、社会にさまざまな問題をもたらしていると、エンデは考えたわけだ。

これは、一見すると、確かにもっともな意見に思える。
けど、それはおカネに関して「より深いところ」から考えられていないからで、おカネが「一定の」価値を持ち続けるという「信仰」があると、このような誤謬が生まれてくる。

例えば、明治時代に「10円」を稼いだとする。
これは、今のお金の価値にして、約20万円相当になるっぽい。
けど、じゃあその「10円」を大切にタンスにしまっておいたとして、今の時代で何が買えるのだろう・・・?
それは、所詮「10円」なのだから、せいぜいうまい棒が1本買える程度だ。
(※厳密には終戦直後で「新円切替」が行われているので、うまい棒1本も買えない)
つまり、お金はインフレが起こることで、腐っていく

著者やエンデは、お金が腐らず、際限なく増えていくことを問題視していたけど、実際のところ、お金が増えるというのはお金の価値が下がる(=腐る)ということで、つまり、お金が腐らないことを問題視することと、お金が増え続けることを問題視することは、同時には主張し得ない。
腐らないお金というのは増えないお金のことであり、腐るお金というのは増えるお金のことだからだ。

そういう意味で、「経済は腐るべき」という主張は「インフレは起こるべき」という主張とほぼ等価となるし、「減価するお金」というのは本質的に「インフレするお金」と同じだったりする。
その見方が違うだけ。
もちろん、実際にお金を使うのは「人間」で、その見方の違いが行動にまで影響を与えてくるので、どの見方を与えるべきなのか、というのはあるんだけど。
(「人間」はそこまで合理的じゃない!)

このあたりの話は、そのうちちゃんとしたいと思ってる。

今日はここまで!

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」