読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

「似ている」の対称性と非対称性。

哲学

昨日の記事に関連して。

せっかくなので、忘れないうちに書いておく。

「似ている」の対称性

まずは「似ている」の対称性から。

似る、というのは、本来的には双方向的で、すなわち、一方が他方に似ている、というのであれば、同時に他方は一方に似ていることになる。

上記は昨日の記事からの引用。
これについて、ちょっと詳しく。

まず、「AとBは似ている」について考えるために、それを数学的に表現するとどうなるのかを考えてみる。
そうすると、それは「AとBを構成する複数の要素のうち、その差の絶対値が一定以下に抑えられている要素が、一定数以上ある」となる。
あるいは、「AとBを構成する複数の要素のうち、共通の要素が一定数以上ある」とか。
(後者は前者の特殊なケース。前者の記述の「差の絶対値のしきい値」を0とすれば、後者の記述になる)
もちろん、その「要素」や「差」を定量的に定義するのは難しいのだけど。

ただ、ここで重要なのは、「似ているかどうか」の判断に使っているのが、「差の絶対値」や「共通の要素」であるという点。
これにより、そこには対称性が生じている。
すなわち「AがBに似ている」なら、同時に「BはAに似ている」ことになる。

数学的には。

「似ている」の非対称性

そう、数学的には「似ている」には対称性があるはずなんだけど、実際にはそうなっていない。

例えば、「Aってキムタクに似てるよね」と言った場合、でも逆に「キムタクってAに似てるよね」とは言わない。
数学的には、Aがキムタクに似ているなら、同様に、キムタクもAに似ているはずなのに。(そして、それは実際にそうなのに)

つまり、そこには非対称性が存在する。

これはなぜなのかを考えてみると、どうも「AはBに似ている」と表現したときに、それは暗に「Bが本物」で「Aはその模倣」とみなす心理が働いているからっぽい。
つまり、Aはキムタクには似てるけどキムタクではなく、あくまでキムタクが本物であって、Aはただのソックリさん、と。
なので、「Aはキムタクに似ている」とは言うけど、「キムタクはAに似ている」とは言わない。

これは優位性を比較できない場合、「〜は…に似ている」という表現を使わず、「〜と…は似ている」という表現に切り替わるという点でも理解できる。
例えば、Aに加えてBも登場させ、Bもキムタクに似ているとする。
そうすると、「Aがキムタクに似て」いて「Bがキムタクに似ている」のだから、AとBもある程度、似ていることになる。(数学的には厳密には推移律は成り立たないのだけど)
けど、その場合、「AはBに似ている」とも「BはAに似ている」とも表現せず、「AとBは似ている」と表現することになる。

だから、実のところ、よく褒めてるつもりで「Aって誰々(有名人)に似てるよね」と表現したりするけど、これって暗に「有名人>A」を意味していて、その意味では結構失礼なことを言ってるんじゃないかな、と。
もちろん、全く似ていない人を登場させると「有名人>A>全く似ていない人」となるので、「全く似ていない人に比べると有名人に近い」という意味で、相対的には褒めてるんだけど・・・
けど、仮にそのAという人がプライドの高い人なら、「バカいうな、オレが誰々に似てるんじゃなくて、その誰々ってやつがオレに似てるんだろ」と言い返してきそう。

例えば、これが人同士の比較じゃなくて、ゲームやアニメの比較になってくると分かりやすくて、例えば「アイマスってラブライブに似てるよね」なんて言った日には、アイマス勢から「ふざけるな、ラブライブアイマスに似てるんだろ」とすごい勢いで反論されるだろうし。
そこには「どちらがオリジナルなのか」という心理が働いていることがよく分かる。

ただ、これまでの分析にはもうちょっと考察が必要。

というのも、先ほどのAとBとキムタクの例で、優劣のつかないAとBに対しては「AとBは似ている」と表現するとしたけど、これが例えばAとは知り合いだけどBとは初めて会ったという場合、おそらく「BはAに似ている」と表現するだろうから。
この場合、AとBに優劣は存在しないはずのに、Aの方が比較の基準になっている。

これはなぜなのかを考えてみると、Aの方が発言者にとって身近だからとなりそうだけど、そうなると、今度は「Aはキムタクに似ている」という表現の判断基準と矛盾することになる。

これをうまくまとめるような判断基準がないか、と考えると、時間を基準に考えるとよさそう。

つまり、時間を超越しているとも言える通時的な存在(有名人はこれに近い)がまず最優先され、そのあと、より先に知った方が基準になる、という感じ。
そして、ほぼ同時に知った場合、どちらが先とはならないので、「〜は…に似ている」という表現にならず、「〜と…は似ている」という表現になる、と。

ゲームやアニメのオリジナルの話もこれで説明がついて、つまり、似ているものが存在した場合、時系列的に先のものが「オリジナル」とされ、後のものは「模倣」とみなされるので、「(後発のもの)は(先発のもの)に似ている」という表現になる。
そして、その順番が逆転されると、オリジナルであるはずのものが模倣と見なされることになるので、反感を買う、と。
もちろん、人によって作品に出会う順番は違うので、実際に発表された時系列とは違った表現になることは、普通にあることなのだけれど。
(そして、正しい時系列を知っている人から、反論を受けるのだけど)

まったく余談だけど、自分はゲームウォッチを初めて知ったとき、「うわ、こんなDSみたいなのがあったんだ」と思ったり。
もちろん、正しくは「DSがゲームウォッチに似てる」んだけどw

「神」が先か、「人」が先か

ここで、昨日の話。

これまでの分析を踏まえると、つまり、「人が神に似ているのか」それとも「神が人に似ているのか」というのは、「神」が先なのか、「人」が先なのか、という話になってくる。
表現的には「卵が先か、鶏が先か」みたいだけど、内容は全然別w

つまり、「人が神に似ている」とする人は、「神」がまず存在していて、そのあと「人」が生まれたと考えていることになる。
逆に「神が人に似ている」と表現すると、「人」がまず存在していて、そこから「神」が生まれたということになって、これはおそらく「人が神に似ている」と考えている人たちには、とうてい受け入れられない表現になるのだと思う。

本来、「人が神に似ている」のなら、「神も人に似ている」はずなのに、後者の表現は受け入れられないという非対称性が存在する理由は、そういうことなんじゃないかな、と。

今日はここまで!