以前、『足の裏に影はあるか? ないか?』の感想を書いた。
そのとき、サラッと次のようなコメントを書いた。
ポイントは、「何かが『変わる』というのは、『変わっていない』部分があって初めて成り立つ」ということ。
昔のブログを見ていたらこのことへの言及があって、そういえば『哲学散歩道』にこのことは書かなかったなぁと思ったので、ここでちょっと書いておこうと思う。
ちなみに、書いたのは2004年の12月5日とか。
(ちょっと意味の分かりづらいところについては、加筆修正)
よく、
ならば、論理的に
と言われる。
これは「推移律」と呼ばれるもので、それ自体に関していろいろ議論があるかもしれないけど、ここではさらにその手前に存在する問題、そもそも、という表現はなぜ可能なのか、という部分を考えていきたい。
まず、あるものがあるもの自身である()、というのは、当たり前。
意味がない言及とも言える。
けど、問題になるのは、。
「とは等しい」という表現。
あまりに見慣れすぎてしまいその問題性に気がつきにくいけれど、もしとが「同じ」であるならば、をと書く必要はない。
と書けばいい。
けど、はあくまでではなくであるからこそ、と書かれる。
すなわち、という記号は、「同じ」であることを意味をするけれど、実はとが「異なっている」からこそ、意味をもつ。
奇妙な気がするだろうけれど、これは事実。
実際のところ、これは数学的観点で(同値関係)の公理、
からすれば当然であり、というのも、という記号に「等しい」という意味はなく、それは集合の2つの要素に関して上の3つが成り立つ「関係」にすぎなくて、その比較される2つの要素が「同じ要素である」必要性はまったく存在しないから。
ちなみに言語における「カテゴリ」というのも、同じ単語で表されるという「同値関係」であり、すなわち「カテゴリ」とは「同値類」(同値な関係のものを集めた(部分)集合)ではないかな、と思う。
ただ、ここでより問題にしたいのは、むしろ最初に行われた奇妙な議論の方で、実はこれは重要な示唆を含んでいる。
それは、「時間を挟んでの(等しい)、(等しくない)のこと」。
すなわち、「変化」というもの。
さて、数学的に上の議論を分析すれば、が「意味のある言及」であるとはすなわち、の同値類をとしたときに、
(集合の要素として) かつ かつ
ということを意味する。
これはすなわち、「ある2つの異なるものとは、同じ性質を持っている」と言っていることになる。
そしてそれは、性質、つまり同値関係の与え方によって、なのかなのかも変わってきてしまう、ということも意味する。
つまり、2つの異なったものを比べるとき、である性質とである性質が同時にいくつも存在することになる。
で、「変化」について話を戻せば、よく「あの人は変わってしまった」とか言うわけだけれど、これはあくまで一性質について変わってしまった、ということに過ぎない。
というのも、もし全てのものが変わってしまったのであれば、どうしてその2つのものを比べることが出来るだろうか?
すなわち、何かが「変わる」というのは、何か「変わらないもの」があってこそ分かるわけだ。
(このあと、もうちょっと議論は続いてるんだけど、記号の使い方がかなり怪しくて、言いたいことを正しく表現できていないので、省略)
なお、最後の省略した議論についてちょっと書いておくと、例えばA君という人がいたとして、
- 今のA君と10年後のA君を比べたときに、ガラッと変わっていた場合、それでも「A君である」というのは変わっていない。
- もし仮に今のA君と10年後のA君がまったく変わっていなかったとしても、「そのA君の存在する時間」は変わっている。
というのを書きたかった。
(ただ、元の議論では2番目の主張をするために逆写像を使おうとしていて、その場合、逆写像の存在を上手く言う必要があるのだけど、全然言えていなかったし、正しく言おうとするとけっこう難しい・・・)
今日はここまで!