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いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『ルカ -楽園の囚われ人たち-』。

読書

今日もちょっと縮小更新。
昔のブログに書いた文章を。(少し修正してるけど)

書いたのは2005年の2月27日。
10年前か・・・


第11回電撃小説大賞、大賞受賞作の『ルカ -楽園の囚われ人たち-』を読んで。

ルカ―楽園の囚われ人たち (電撃文庫)

ルカ―楽園の囚われ人たち (電撃文庫)

なんだかんだで忙しくてやっと読み終わった・・・(つか、今月blogのエントリが少なすぎ(^^;

まぁなんというか、なるほど、という感じ。
いろいろな意味で。

個人的にはこういった文章構成(断片的につなぎ合わせた形になっているもの)はあまり好きではないだけど・・・(『ブギーポップ』とかね)
けど、読み終えてみれば、まぁなるほど、というか。
終わらせるときに、電源がストン、と落ちるような、そんなすっきりした終わら方をするには、こういった構成が一番やりやすいんだろうねぇ。
(自分も同じような形で終わらせたことあるしなぁ・・・

さてさて、文章について言うと、最初の

「――あなた、イルカを増やそうとは思わなかったの?」

という始め方は素敵。
いや、そのセリフの意味が分かってくるのはずっと後のことなんだけれど。
そもそも上に述べたような構成になっているから、このあとの文章はしばらくずっと「?」が続くわけだけれども、あとで意味がつながった後はもちろん、単純に音として興味を引く始め方だなぁ、と。
他にも、文章が特に特徴あるとかというわけではないのだけれど、基本的には読みやすく、ところどころちょっとこ洒落た単語?を使うのがけっこう面白い。

この作品で一番なるほど、と思わされるのが、語りの手法。

まず一番古典的な「語り部」の方法(読者から「見える」語り部が読者に向かって話すように、物語を語っていく形)でないのはもちろん、普通の小説のような客観的な視点の文章(読者からは「見えない」が、そこには物語を語る「神の視点」が存在する)でもなく、ライトノベルが得意?な一人称な文章(登場人物の「わたし」が物語を語っていく)というわけでもなく、これらが入り混じっているという感じなのがなんとも。
それはもはや「物語」が終わってしまったあとに語られたものでもあるし、語る人の立場から「神の視点」のような語りでもあるし、けれどもその人も物語の登場人物である、という一人称な語りでもある、というような感じで。
いや、むしろ、語り部の「心境の変化」によって語りのスタイルが徐々に変化させられていったと考えた方がいいのかな?
「記録」の部分では、そこに人は彼自身と「どこかで今自分が語っているものを聞くかもしれないであろう」人(それは、読者でもある)しかいない。
「神の視点」の部分は、彼自身自分のことを「神」のように感じていたし、物語の「傍観者」ではあっても自身は「登場人物」ではない、と考えていた。
そして、自身も「登場人物」であると自覚させられたときに、それは一人称の語りになった、というような感じで。

私は自惚れていた。
自分がドミノのプレイヤーであると、信じて疑わなかった。
自由に牌を選び、思いのままに並べ、気が向いたときに倒す。そういう側の存在だと思い込んでいた。
何という愚かさだろう。今頃になって、こんなにも取り返しのつかないことが起きてから、ようやく気付くなんて。

私もまた、運命に弄ばれるドミノの牌のひとつにすぎない。
(p.216より。一部省略。)

にしても、こういう文章だとこの「一人称の語り」における『身体性』の重要性を再確認させられる。
「わたし」という存在が、その視点から物語を読者に伝えるのはもちろんだけれど、ただ見るだけの存在ではなく、登場人物の一員として物語に影響を与えていくそのために、何らかの形で「他の登場人物(他者)」にそこに「いる」と認められる『身体』が必要となってくる。
この作品だと語りの変化における語り部の立場の変化によってそれがよりはっきりと見えるようになってる。

んで、最後に構造的なものについて。
まぁいろいろと述べられてるけど、特筆すべきもの、といわれると・・・
なんとも、こういった構造が当たり前になってきた感はあるかなぁ。
一昔前の小説が「青春」という枠組みで語られていたのから(というか、この「青春」って、西洋における文明化、あるいは日本におけるブルジョワ階級特有の「病気」なわけで、よくこれだけ続いたものだなぁ、と)、同じ恋愛を扱うにしても「個人主義」というか、「『私』と『他者(これは世界も含む)』」という枠組みで語られている、という感が強い。(俗言う、『セカイ系』)
この『私』と『他者』――特に『他者』の構造をどう捉えるのか、『私』に投影される存在なのか(現象学的ですね)、あるいは『社会構造』によって定められるものと捉えるか(科学的社会主義?)、などが重要になってくる気がする。


10年前から身体性とか言ってて、自分でもちょっと驚いた。

もっとも、今の考えとはちょっと違っていて、AIとの関連から身体性については述べていたんだけど。
具体的には、AIを開発したとしても、そのAIが自身の感情や行動を表現したり、あるいは他から影響を受けたりするためには、身体がないとダメだよね、という感じ。
なので、まだ関係性の哲学(つまり構造主義現象学なんだけど)の域を出ていなくて、その証拠に、最後に構造主義的な分析をしてるのがなんとも懐かしいw

今日はここまで!