いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

『SHI-NO ーシノー愛の証明』。

ちょっと忙しいので、昔のブログに書いた文章を。
(たぶん、ここ数日、続くかも)

以下を書いたのは、2006年12月31日。(9年前!)


『SHI-NO ーシノー愛の証明』を読んで。

ここ数日、やっと本を読む余裕が出来て、いろいろと積ん読してた本を読了。
マリみてとか、マリみてとか。(って、まだ妹決まらんのかOTL

このSHI-NOも、1, 2巻はすでに読んでいたんだけど、3巻を読んでいなくて、一昨日読み終わったとこ。
で、昨日4巻を購入して、読了、といった具合。

正直、ところどころよく分からない・・・^^;
なんとなくで読み流しているせいかもしれないけど。
まぁ普通は、志乃ちゃん萌え~、という感じで十分なんだと思う。。。

ただ、この4巻においては作者の思想性がより濃く出てきていて、そこが非常に興味深かった。
永井先生の<私>につながる思想なんじゃないかなぁ、と。
ちょっと引用してみると、

だって、自分は自分だ。例えば身長が数センチ伸びて喜ぶのも、胸が大きくなって喜ぶのも、眼が悪くなって悲しむのも、怪我をして苦しむのも、成長を喜びながら、老化を悲しみながら移ろう時の中で、それでも──僕は僕でありつづける。
(『SHI-NO ーシノー愛の証明』より)

「人間がDNAに支配されている? そんなのは、全く愚かしい発想です。DNAだろうがミトコンドリアだろうが、そんなものはどうでも良い。有っても無くても構わないものです。ここに居る『わたし』は、全ての他人を、社会を、時間を、神さまさえも超越する者。唯一にして絶対の自己。『わたし』がここに在るのは全て、『わたし』が望んだ結果に過ぎません。ただ、そう在りたかっただけの話」
(『SHI-NO ーシノー愛の証明』より)

・・・この小説、永井先生が書いてるんじゃね?www
まぁさすがに、そんなことはないと思うけど。

ただ、『わたし』(あるいは、<私>)というものが記号のなかに存在するものである、というような解釈は、個人的にはあまりいただけないかなぁ、と。
もちろん、それは証明できたりするものではないので、信念の世界でしかないのだけれど、個人的には<私>というのは肉体の持つ機能であると考えているから、肉体を失うということはそれと同レベルに扱えないんですよ。

記号の中に<私>の足跡は残せても、<私>は残せない

これこそが真実なんじゃないかなぁ、と思うんですよ。
それを認めることはとても恐いことなんですけどねぇ。
でも、だからこそ今ここにいる<私>というのが特別で大切なものなんだと思えるんじゃないかなぁ、と。

手のひらを見る。自分の身体を見る。
その中に、僕は居る。
僕がここに居たいと願った。
生きていたいと、そう願った。
だから、生きている。
生まれてきた意味とか、生きていく理由とか、そんなのを考えるのは馬鹿げている。
そんなものを考える必要なんか、きっと何処にもない。
答えは、最初からこの『生』の中にあった。
(『SHI-NO ーシノー愛の証明』より)


少し補足。

『哲学散歩道III』のあとがきでも少し触れたように、このころには「身体性」の考えが自分の中ではまとまってきてたのが分かる。

太字で強調した部分(記号の中に<私>の足跡は残せても、<私>は残せない)というのに関しては、次のツイートなんかも参考に。

このあたりの話も、時間論と絡めて書きたいと思ってるんだけど、なかなか書けない・・・

今日はここまで!