いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

技術書典6に一般参加で行ってきた。

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4/14(日)に池袋で技術書典6があったので、一般参加で行ってきた。

技術書典って何?

一応、簡単に技術書典の説明。

技術書典は、技術書オンリーの同人誌即売会で、いろいろなサークルが様々なジャンルの技術書を作って持ち寄り、売り買いするイベント。
2016年にスタートし、以降、毎年春と秋に開かれて、順調に?規模が大きくなっている。

6回目となる今回は、約450強のサークルが参加し、入場者数も前回に引き続き10,000人を超えたっぽい。
凄い。

買った本

自分が買った本は、以下のようなもの:

お財布がだいぶ軽くなった・・・

仕事でちょっと関係が出てきそうなRISC-V本に始まり、OSや言語周りの本、それと、親方Projectさんの勉強会などの本と、触れたいと思いつつ全然触れられていないDockerやAWS周りの本をゲットした感じ。

盛況と混雑と

で、実はここからが本題。

盛況なのはとてもいいことなんだけど、同時に発生してくるのが、混雑の問題。
といっても、毎回混雑しているイメージしかないんだけど(^^;

まぁ、それはさておき、混雑緩和を目指して今回行われたのが、開場後2時間は有料化し、1,000円の入場料をとる、という試み。

自分はこの試みについて、Twitterでも何度か呟いていた通り懐疑的で、はたしてどれくらい効果があるのかな、と思っていた。
1,000円くらいだったら普通に払うから、それで出足が鈍ることがあるのかな、と。

一応、結果からみると、ある程度は効果があったみたい。
自分は13時少し過ぎに会場を離脱してしまったので実感はないのだけど、Twitterのつぶやきを見る限り、13時をすぎて混雑が悪化した感じがあったっぽいので。

とはいえ、ある程度の緩和にはなっていたかもしれないけど、自分が参加している限りでは、あまり混雑が緩和されているようには感じなかった。

自分が過去に参加したときの様子を書いておくと、以下のような感じ:

技術書典4

13時くらいにアキバ・スクエアに到着。
整理券をもらって一度離脱し、お茶しつつ、自分の番号が来るのを待っていた。
14時少し過ぎに会場に入れて、一通り会場を回った後、離脱したのが15時ちょっと前。

技術書典5

12時半くらいに文化会館に到着。
列に並んで、遅くとも13時くらいには入れたはず。
そして、会場を一通り回った後、14時少し過ぎに離脱。

技術書典6(今回)

12時少し過ぎに文化会館に到着し、入場券と季報を購入して待機列へ。
そして、12時20分くらいには中に入れた。
そのあと、やはり会場を一通り回って、13時20分くらいに離脱。

いずれも、知らない分野でも面白そうな本を見つけたら買いたいと思うので会場は一通り回っていて、それにかかる時間が大体1時間前後になっている。
技術書典4だけ会場の広さが違うので厳密には比較にならないんだけど、前回の技術書典5と今回の技術書典6ではほぼ同じルートを歩いていて(すべてのサークルを網羅する感じ)、それでかかる時間がほぼ変わっていない。
なので、体感としてもそうだけど、実際に歩くのにかかる時間を比較しても、混雑度はほとんど変わっていないのかな、と思う。

次回以降は・・・?

とりあえず、今回の試みの結果として、次のことは言えそう:

  • 1,000円くらいなら多くのエンジニアは普通に払う
  • 有料化によって、混雑のピークをズラすことはある程度出来ていた
  • 混雑度そのものを下げることはあまり出来ていなかった

なので、今後も規模が大きくなっていくだろうことを考えると、有料化で混雑をある程度均すことは出来るかもしれないけど、混雑度自体はどうしても上がっていってしまうかな、と。
なので、やはり箱のサイズを大きくするのが必要そうに思う。

もちろん、雨が降ると参加者が減る可能性が高く、リスクも大きいのだけど・・・
最終的にはそのリスクを受けなければならない運営側が判断することだし、もしそれでこのままの箱でいくという判断をするなら、何のリスクも負っていない自分たちはそれに従うだけだけど、出来るならば、なんとか箱を大きくしてもらいたい。

幸い、今回の試みで1,000円くらいなら普通に払うことが分かったと思うので、今後も入場料を取るようにして、それで大きい箱を取ったり、雨が降ったときの補填として使うことは出来そうな気がする。

あとは、入場権(≠入場券)をオークションにするとかも面白いんじゃないかな、と思った。

優先的に入場できる権利に自分ならいくらまで出せるかを値付けして(最低額は1,000円)、上位1,000人は11時から入場可能、次の1,000人は11時半から入場可能、としていって、8,001位以下(および値付けしなかった人)は14時以降で無料で入場可能とする、とか。
(同額の場合、先に値付けした人を優先)
こうすれば、かなり混雑を均すことが出来るだろうし、値付けの現状が公開されれば競争心が煽られるので、お金も集まりやすそう。

システムを作るのは大変そうだけど、そこは技術者が集まるイベントなわけだから、問題はエンジニアリングで解決していってほしいw

今日はここまで!

『コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣』を読んでみた。

ちょっと仕事でいろいろダメージ受けてて、ほとんど更新できてない・・・

で、部屋の片づけも出来てなくて、「汚部屋」になってしまってる。。。
これはアカンなということで、片づけを始めることにした。

この『コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣』はだいぶ前に一度読んでいて、いいなと思いつつ実践できていなかったので、一度読み直して、あらためて片づけをしていこうと思う。

コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣

コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣

「リセット」と「習慣化」

まず、この本では片づけを2つの要素に分けて考えている。
すなわち、「リセット」と「習慣化」。

「リセット」というのは、「過去にかたをつける」ということ。
これは、「モノとの関係を断つ」というのはもちろん、片づけが出来ずにいた「過去の自分」から脱却するといったことも含まれる。
これまでのいらないもの捨て去り、新しい環境や自分を作り上げていく。

そして、「習慣化」というのは、「今日のモノを片づける」ということ。
せっかく「リセット」で過去を片づけても、新しく入ってきたものを片づけられていなかったら、また散らかってしまう。
なので、片づけるということを常に続けていけるようにする。

「整理」と「整頓」

「リセット」はさらに「整理」と「整頓」に分けられる。

「整理」というのは、モノを使うものと使わないものに分け、使わないものは捨てるなどして、モノを減らしていくこと。
モノを減らすことで、本当に必要なものだけを手元に置いていけるようになる。

そして、「整頓」というのは、モノを使いやすいように適切な場所に配置していくこと。
適切な場所に配置することで、モノを活用しやすくなるし、再び散らかってしまうというのを防ぐこともできる。

この2つでは「整理」の方がずっと重要で、まずは「整理」からやっていくことになる。

「整理」の4ステップ

まずは「整理」。

「整理」は身近なところからやっていくといい。

このとき、いきなり大きなところから取り掛かるのではなく、小さいところから始めていった方がいい。
というのも、大きなところから取り掛かると、モノの多さに圧倒されて、すぐに諦めてしまうから。

「整理」は次の4ステップで行う:

  1. 出す
  2. 分ける
  3. 減らす
  4. 戻す

1. 出す

まずは「出す」。
片づける場所にあるモノを、すべて「エリア外」に出していく。

このときは特に何も考えず、とにかく手を動かすこと。

2. 分ける

「出す」の次は、「分ける」。
これは、出したモノを「使う」「使わない」「保留」の3つに分けていく。

このとき注意しないといけないのが、「使える」「使えない」で判断するんじゃなくて、実際に「使う」のか「使わない」のかで判断すること。
例えば、まだ「使える」けど、実際には「使う」ことはないだろうなぁ、というものは、バッサリと「使わない」としなければならない。
そうしないと、結局「使わない」ものが溜まっていってしまうから。

この判断は、それぞれ15秒以内で行うようにする。
もしそれで判断がつかないなら、一旦「保留」にしておいて、期限を決めてまた別の機会に判断をする。

3. 減らす

「分ける」ことが出来たら、今度は「減らす」。
これは何かというと、「使わない」としたものから、捨てるものを「減らす」ということ。

具体的には、リサイクルショップに持っていったり、友人にあげたりする。
そうすれば、単に捨ててしまうよりも、別の場所で活用されるかもしれないとなるので、ストレスが減る。

「減らす」といっても、「使わない」ものを「使う」ものや「保留」にすくい上げるということではないので、注意。

4. 戻す

ここまで出来たら、最後は「戻す」。
「使う」としたものを、すべて元の場所に戻す。

しまう場所を考えたりしなくていいの?とも思うんだけど、それをやっていると時間ばかりが経ってしまうので、まずはシンプルに元の場所に戻すのがいいとのこと。

捨てる勇気

「分ける」ときに重要になってくるのが、捨てる勇気。

捨てるとなると、やはりどうしても抵抗を感じてしまうもの。
けど、そこはキッパリと決断していかないといけない。

例えば、「あとで必要になったら困るのでは・・・」となかなか手放せなかったりするけど、実際にはそんなのは幻想なので、そういった執着はちゃんと断ち切らないといけない、と書かれている。
加えていうなら、大抵のものは再度入手可能だったりする。

それに、モノは「使って」こそ活きるものであり、「使わない」のであれば、いくらあろうが意味がない。
そういった「使わない」ものに引きづられて「使う」ものまで活かせないようになるのであれば、「使わない」ものは捨ててしまった方がいい。

ゆとりを作る

それと、「整理」で心がけたいのが、ゆとりを作るということ。

具体的には、どの収納スペースもモノを入れるのは8割までにした方がいいとのこと。
もし8割に収まらない場合、さらにモノを減らすことを考えた方がいい。

なんでゆとりを作るのが大切なのかというと、ゆとりがあることで、必要なものを新たに入れていけるようになるから。
使わないもので溢れていると、本当に必要なものをいつまでも入れることが出来ない。
いらないものを捨て、ゆとりを作ることで、それが「未来のための空間」になる。

なんとなく『封印されたカード』の考察で書いた「破壊」と「創造」の話を思い出したw

「整頓」の3ステップ

一通り「整理」が出来たら、次は「整頓」を行う。

「整頓」の基本的な考え方は、すべてのモノに「決まった置き場」すなわち「住所」を与えるということ。
そうすれば、すぐにモノを使うことが出来るので機能性が高まるし、美観を高め、それを維持しようというモチベーションも高めることが出来る。

「整頓」は次の3ステップで行う:

  1. 分類
  2. 配置
  3. 収納

1. 分類

まずは「分類」。
「整理」されていることが大前提で、その上で、モノをいくつかの種類に分けていく。

分けるときの軸としては、「種類」や「機能」、「用途」などを考えるといい。

2. 配置

「分類」をしたら、次は「配置」。
分けたものをそれぞれどこに置くのかを決めていく。

このときは、「使用頻度」を考えるといい。
また、複数個あるようなもの(お皿とか)は、いくつ置くのかということも考える。

3. 収納

「配置」まで決まったら、あとは実際に「収納」する。

「配置」が「どこに」置くのかを決めることだとしたら、「収納」は「どのように」置くのかを決めることになる。
一目で何があるのか分かるような置き方になっているのが理想。

「整頓」の例

これだけだと、ちょっと「整頓」のイメージがしにくい感じがする。
そこで、「整頓」の一例として本で上がっていた、本棚の整頓について書いておく。

まず、分類としては、「何度も読み返してしまう本」「仕事や勉強の資料として今も役に立っている本」「思い出が詰まっている本」の3つに分類する。

そして、配置として、「何度も読み返してしまう本」は、取り出しやすい上段や手前に、「仕事や勉強の資料として今も役に立っている本」は、必要なときにすぐに取り出せるように中段に、そして「思い出が詰まっている本」は、普段読むことはないので下段や棚の奥に置く。

あとは収納で、どこに何があるのかが見やすいように本棚に閉まっていく。
このとき、「整理」で心がけたいこととして書いた通り、2割程度は「ゆとり」を持たせるようにするといい。

「習慣化」する

あとはこれを「習慣化」していく。

まず、「整理」は一気にやってしまうよりも、少しずつ、毎日続けていった方がいいとのこと。
これは、脳は3週間同じ行動を繰り返すと、その行動を当たりとして認識してくれるようになるらしいから。

あとは、新しく入ってきたモノは、その都度整理を行うようにした方がいい。

リバウンドを防ぐ

「習慣化」していく中で重要なのが、リバウンドを防ぐということ。

「片づける」のが当たり前になっていない状態だと、うっかりまた散らかってしまうということが起こりえる。
それを防ぐために、行動が習慣になるまでは、意識して行動していくことが重要になる。

まず重要なのが、モノを増やさないようにするということ。

買い物が好きで、ついつい必要のないものも買ってしまう、という場合は、要注意。
これはホントに使うのか、を考え、使い道がハッキリしないものを買わないようにする。

あるいは、いらないモノは貰わないようにする、というのも大切。
これはいらないDMなんかにも当てはまる。

他に重要なのが、モノをキチンと定位置に戻すということ。

モノを定位置に戻さないと、それが次第に広がっていって、いつの間にか散らかってしまうことが多い。
買ってきたものを適当な場所に置いて、そしたらその周りに同じように適当に置かれたものが溢れ出し、さらには机、棚、床と、整理されていないモノが増えていってしまうことになる。
(というか、自分の机の上がまさにこの状態・・・)

これを防ぐためにも、定位置に戻すように意識するのはもちろん、買ってきたものを置く場合、まずは定位置を決めてから置くようにした方がいい。

ただ、これだけではまだ心のスキが出来てしまう可能性がある。

そういった場合、ルールを作った方がいい。
意識だけではなく、「しくみ」を作ることで、片づけが簡単になる。


ということで、少しずつ片づけをやっていかないとな。

今日はここまで!

コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣

コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣

FXRubyをMacにインストールしてみた。

ちょっとRubyGUIいじれないかなぁと思って、MacにFXRubyを入れてみたので、そのメモ。

FXRubyとは

FXRubyとは、FOX toolkitというクロスプラットフォームGUIツールキットの、Rubyバインディング

クロスプラットフォームGUIツールキットでRubyでも使えるものとなると、Tkとかも有名だけど、Tkはドキュメントが見つからなくて困るということが多かったので、別のものも試してみようかなと思って、インストールしてみた。

依存するライブラリのインストール

MacPortsを使えば、多分サクッとインストールできるのだけど、自分はパッケージシステムを使ってないので(どれを使ったらいいのか正直分からない・・・)、依存するライブラリをちまちまとインストールしていった。

参考にしたのは、以下のページ:

LibPNG

libpng.org: top levelからソースをダウンロードして、ビルド:

tar zxvf libpng-1.6.36.tar.gz
cd libpng-1.6.36
./configure
make
sudo make install

LibJPEG

Independent JPEG Groupからソースをダウンロードして、ビルド:

tar zxvf jpegsrc.v9c.tar.gz
cd jpeg-9c
./configure
make
sudo make install

LibTIFF

LibTIFF - TIFF Library and Utilitiesからソースをダウンロードして、ビルド:

tar zxvf tiff-4.0.10.tar.gz
cd tiff-4.0.10
./configure
make
sudo make install

FOX toolkitのインストール

ここまではすんなり上手くいったんだけど、FOX toolkitのインストールでいろいろつまずいた。

とりあえずはfox-toolkit.orgからソースをダウンロードして展開。

tar zxvf fox-1.6.57.tar.gz
cd fox-1.6.57

これをこのまま、参考にしたページの通りにビルド:

env CFLAGS="-I/usr/X11/include -I/usr/X11/include/freetype2 -DHAVE_XFT_H=1" CXXFLAGS="-I/usr/X11/include -I/usr/X11/include/freetype2 -DHAVE_XFT_H=1" LDFLAGS="-L/usr/X11/lib  -lXft -lfontconfig -lfreetype" ./configure --with-x --with-opengl --enable-cups --enable-release
make

すると、まずconfigureで以下の警告:

configure: WARNING: unrecognized options: --enable-cups

たぶん、--enable-cupsというオプションはなくなったのだと思う。

で、makeすると、以下のエラー:

In file included from FX88591Codec.cpp:1:
In file included from ../include/xincs.h:211:
/usr/X11/include/X11/Xft/Xft.h:39:10: fatal error: 'ft2build.h' file not found
#include <ft2build.h>
         ^~~~~~~~~~~~
1 error generated.

ft2build.hが見つからないというので、findしてみると、ちゃんと存在している。

$ find /usr/X11/include -name "ft2build.h" -print
/usr/X11/include/freetype2/ft2build.h

それに、CFLAGSCXXFLAGS-I/usr/X11/include/freetype2としているので、インクルードパスも通っているはず。
なので、ft2build.hが見つからないのは、おかしい・・・

で、いろいろ調べてみたら、なんと、configureの中でユーザの指定したCXXFLAGSを潰していやがった・・・
なので、configureを以下のように修正:

--- configure.org
+++ configure
@@ -3303,7 +3303,7 @@
 
 
 # Prevents setting flags.
-CXXFLAGS=""
+# CXXFLAGS=""
 
 # More secret source
 DEPDIR="${am__leading_dot}deps"

これで再度ビルドを実行。
すると、コンパイルは問題なく通ったのだけど、リンクで次のエラーが:

Undefined symbols for architecture x86_64:
  "_MPCreateSemaphore", referenced from:
      FX::FXSemaphore::FXSemaphore(int) in FXThread.o
      FX::FXSemaphore::FXSemaphore(int) in FXThread.o
  "_MPDeleteSemaphore", referenced from:
      FX::FXSemaphore::~FXSemaphore() in FXThread.o
      FX::FXSemaphore::~FXSemaphore() in FXThread.o
  "_MPSignalSemaphore", referenced from:
      FX::FXSemaphore::post() in FXThread.o
  "_MPWaitOnSemaphore", referenced from:
      FX::FXSemaphore::wait() in FXThread.o
      FX::FXSemaphore::trywait() in FXThread.o
ld: symbol(s) not found for architecture x86_64
clang: error: linker command failed with exit code 1 (use -v to see invocation)

MPCreateSemaphoreがない、といっているわけだけど、なんでだろうと調べてみたら、10.8 (Mountain Lion)で廃止されてた・・・

MPCreateSemaphore - Core Services | Apple Developer Documentation

じゃあ、最新(FOX toolkitの1.7系)だとどうしてるんだろうと調べてみたら、PthreadのAPIを叩くように修正されてた。
なので、これを取り込んでみた:

--- src/FXThread.cpp.org
+++ src/FXThread.cpp
@@ -155,32 +155,56 @@
   // of sizeof(MPSemaphoreID*) is supposed to be on your
   // machine and mail it to: jeroen@fox-toolkit.org!!
   //FXTRACE((150,"sizeof(MPSemaphoreID*)=%d\n",sizeof(MPSemaphoreID*)));
-  FXASSERT(sizeof(data)>=sizeof(MPSemaphoreID*));
-  MPCreateSemaphore(2147483647,initial,(MPSemaphoreID*)data);
+  // from 1.7.64
+  FXASSERT(sizeof(FXuval)*9 >= sizeof(pthread_cond_t));
+  FXASSERT(sizeof(FXuval)*6 >= sizeof(pthread_mutex_t));
+  data[0]=initial;
+  pthread_cond_init((pthread_cond_t*)&data[1],NULL);
+  pthread_mutex_init((pthread_mutex_t*)&data[10],NULL);
   }
 
 
 // Decrement semaphore
 void FXSemaphore::wait(){
-  MPWaitOnSemaphore(*((MPSemaphoreID*)data),kDurationForever);
+  // from 1.7.64
+  pthread_mutex_lock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
+  while(data[0]==0){
+    pthread_cond_wait((pthread_cond_t*)&data[1],(pthread_mutex_t*)&data[10]);
+    }
+  data[0]-=1;
+  pthread_mutex_unlock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
   }
 
 
 // Decrement semaphore but don't block
 FXbool FXSemaphore::trywait(){
-  return MPWaitOnSemaphore(*((MPSemaphoreID*)data),kDurationImmediate)==noErr;
+  // from 1.7.64
+  pthread_mutex_lock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
+  if(data[0]==0){
+    pthread_mutex_unlock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
+    return false;
+    }
+  data[0]-=1;
+  pthread_mutex_unlock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
+  return true;
   }
 
 
 // Increment semaphore
 void FXSemaphore::post(){
-  MPSignalSemaphore(*((MPSemaphoreID*)data));
+  // from 1.7.64
+  pthread_mutex_lock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
+  data[0]+=1;
+  pthread_cond_signal((pthread_cond_t*)&data[1]);
+  pthread_mutex_unlock((pthread_mutex_t*)&data[10]);
   }
 
 
 // Delete semaphore
 FXSemaphore::~FXSemaphore(){
-  MPDeleteSemaphore(*((MPSemaphoreID*)data));
+  // from 1.7.64
+  pthread_mutex_destroy((pthread_mutex_t*)&data[10]);
+  pthread_cond_destroy((pthread_cond_t*)&data[1]);
   }
 
 #else

これで再びmakeを実行。
今度はリンクも問題なくいき、無事ビルドが完了したので、sudo make installをして、インストール。

なお、参考にしたページだと、このあとFXScintillaをインストールしているのだけど、これはオプションで、自分はちょっと試してみたいだけだったので、スルー。

FXRubyのインストールと動作確認

あとはFXRubyのGemをインストールするだけ。

gem install fxruby

なお、自分はRVMを使っているので、sudoなしでGemのインストールを行なっているけど、そうでない場合、sudoが必要。

動作確認は、fxrubyのGitリポジトリをクローンしてきて、examples/以下に入っているサンプルを動かしてみるといい。

一例は、以下:

git clone https://github.com/lylejohnson/fxruby.git
cd fxruby/examples
ruby button.rb

上記のようにすると、X11が立ち上がって、以下のようなウィンドウが表示される:

f:id:yamaimo0625:20190224194629p:plain

うん、微妙・・・(^^;

もうちょいマシな見た目にならないのかなぁ・・・
まぁ、X11を使ってるなら、仕方ないか。

何はともあれ、インストールは出来たので、いろいろ試したりは出来るはず。
見た目が微妙すぎるので、やらないかもだけど。

今日はここまで!

『人工知能のための哲学塾・未来社会編 第参夜「人工知能は文化を形成するか?」』に参加してきた。

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このブログでも何度か紹介している、『人工知能のための哲学塾』。

その第三弾ということで、未来社会編が現在進行形で開催されている。

その第参夜が1/29(火)に開かれて、自分も参加してきたのだけど、ちょっと考えたことがあったので、それについて書いてみたい。

未来社会編について

まずは、未来社会編って何なのか、ということについて、ちょっと説明。

西洋哲学編、東洋哲学編では、「個」としての人工知能について考えてきた。
しかし、よくよく考えると、一つ(一人?)の人工知能がある日突然「あ、これが『自分』なんだ」と自我を発見することなんてあるのか、という疑問が浮かぶ。
むしろ、多数の人工知能(あるいは人間)との関わり合いの中から「あ、これが『自分』で、あれは『他人』なんだ」と「自我」と「他者」を発見するんじゃないかな、と。
そんな問題意識に基づいて、人工知能と社会(これは人工知能自身の社会を含む)との関わり合い、関係性の観点から、考えを進めていこうとしているのが、未来社会編の内容となっている。

自分としては、CLAMPの『ちょびっツ』から人工知能について考え始めたところがあるので、こういった「関係性」から人工知能について考えていくというのは、ちょっと不思議な感じもしたりする。
というのも、その「関係性」による議論に限界を感じて、「身体性」による議論に移っていった経緯があるから。

ちなみに、『ちょびっツ』は人工知能を考える上でも名作だと思うので、マジおすすめ。

自分の書いた記事だと、以下の記事で「関係性」による「ココロ」について言及してる:

そして自分自身の『心』は自分自身がその『心』を感じることで、また他人によって『心』を見て取られることで初めて『心』が生まれる。

この辺りは、三宅先生のスライドにも出てくる「主我」と「客我」によって「自我」が成り立つ、という話そのもの。

他にも、人工知能とは人間にとってただの「道具」なのか、それとも「パートナー」と呼べる存在なのか、や、人と人工知能との恋愛は可能なのか、人工知能は幸せになれるのか、といった、未来社会編と非常に関連の深い話が展開されている。

第参夜「人工知能は文化を形成するか?」

閑話休題

第参夜は、人工知能と文化についてがテーマで、まず三宅先生の講演、大山先生の講演があり、そのあとグループディスカッションが行われた。

ニコ生は以下:

また、講演資料は以下で公開されている:

三宅先生の講演をざっくりと要約すると、以下のような感じ:

文化とは「世代を超えて引き継がれる知識や価値」であると、ここでは定義する。
この「継承される」というのが重要な要素。
例えば、ビーバーの作るダムや蟻の作る蟻塚は、立派な構造物となっているけど、これらはその様式が世代を超えてより立派になっていくということはない。
一方、文化は世代を重ねることで、継承され積み上がり、より立派になっていく。

文化は、以下のように形成されていく:
まず、個人が環境から経験を得て、それが何度も繰り返されることで、経験は観念となり、そしてその観念が社会に共有され、世代を超えていくことで、文化になる。
そうすると、今度は文化が各個人の観念に影響を与え、各個人の行動を変えていく。
そして、その行動から次の文化が積み上げられ、このフィードバックループによって文化はより発展していく。

こういった様子をアルゴリズムに応用したものとして、文化アルゴリズムとがある。
これは、進化アルゴリズムを文化レベルで行うようなもので、ある世代で獲得した知識を文化として吸い上げ、次の世代へ継承する、というもの。

この「継承」に注目した議論は、確かに面白い。
文化アルゴリズムという具体的な話も出てくるし。

けど、聞いてて違和感を覚えたのも事実。
というのも、継承されないものは文化じゃない、というのは、ホントだろうか、と思ったから。

継承されない文化は存在しないのか

例えば、学校のクラスについて考えてみる。

クラスって、1年も経つと、そのクラス独自の文化というものが生まれてきたりする。
何々がよく遊ばれてるとか、何々についてよく話されている、といった流行とは違って、こういうときはこうするもんだ、といった、考え方や行動様式というものに特徴が出てきたりする。
それは、各クラスでのキャラクター、ロールの確立によるものだったり、あるいは、クラス替えによって起こるローカルルールの違いの擦り合わせによるものだったり。
あるいは、先生の指導の影響によるものだったり。

そんなの、文化と呼ぶには弱いんじゃない?という声もありそうだけど、自分はそうとは思わない。

例えば、自分の場合、小学校から中学校に上がったときに、すごい衝撃を受けたことがある。

自分は地元の中学校に進んだのだけど、その中学校には、自分のいた小学校の他に、もう一つ別の小学校から上がってくる生徒もいた。
で、そのもう一つの小学校から上がってきた生徒たちの考え方、行動が、自分たちとはあまりに違いすぎて、ビックリした。
自分のいた小学校は、良くも悪くも牧歌的で、先生の言ったことは守るものだし、ルールはちゃんと守るものだ、という感じが強かった。
もちろん、ガラの悪いのも2, 3人はいたけど、少数派で、そういったキャラも、別にみんなとは仲良く遊んでいる感じ。
が、もう一つの小学校の生徒は、もうちょい都会的というか、スレている感じで、先生に表立って反抗はしないけど、従順に話を聞いたりはしなくて、やらなきゃいけないことも怠けられるなら怠けたい、という感じだった。
そんな生徒がいて、それも2, 3人がそうというわけではなく、全体的にそういう雰囲気があるというのは、まさにカルチャーショックと呼ぶにふさわしいものだった。
学校が違うと、ここまで違うものなのか、と。

あるいは、『ピタゴラスイッチ』で有名な佐藤雅彦さん(と竹中平蔵さん)の著書で、『経済ってそういうことだったのか会議』というのがあるのだけど、その中で書かれている「牛乳瓶のフタ」の話は、流行という言葉で終わるようなものではなく、文化と呼ぶレベルのものになっていると思う:

佐藤
小学校のとき、給食で牛乳が配られますよね。 その牛乳瓶のフタを僕があるときから集め出して、みんなのももらって机に入れてたんですね。 そのうちにそれが僕のまわりでも流行り始めた。 そうするとフタの価値がどんどん上がっていくわけです。
そうすると、フタの交換だけにおさまらず、かっこいい消しゴムをフタ10枚と交換するとか、そうじ当番を20枚で交代するなんてことがクラスに起こってきたり、僕自身、机の中の特に大切なフタを、帰るときにカバンに入れて持ち帰ったりしてました。冷静に考えれば、たかがフタごときに、ですよ。
(『経済ってそういうことだったのか会議』より引用(一部省略))

クラスの中で「牛乳瓶のフタ」に関する共通の認識が形成され、貨幣として流通しだした、というこの話は、非常に興味深い。
しかも、これはクラスの中でだけ通じるものであるから、そのクラス固有の文化となっている。

さて、じゃあ、そんなクラスの文化は、「継承されるのか」。

これを考えてみると、重要なことに気づくかもしれない。
継承されていると判断するための比較対象は、「どのクラス」になるのか。

例えば、3年1組というクラスがあったとする。
1年経つと、各学年は進級するわけだけど、クラス替えはないものとして、旧3年1組は新4年1組になり、旧2年1組が新3年1組となる。
はて、「旧3年1組」のクラスの文化が継承されたかどうか検討するには、「新4年1組」を見ればいいのか、それとも、「新3年1組」を見ればいいのか。

「文化は『世代』を超えて継承されるもの」とするなら、比較すべきは、旧世代の「旧3年1組」と、新世代の「新3年1組」だ。
けど、当然そこに「継承」なんて起こりえない。
だって、「旧3年1組」と「新3年1組」には、何の接点もないのだから。
「新3年1組」は「旧3年1組」とは全く異なる文化を形成することになる。

一方、「旧3年1組」と「新4年1組」を比較するならば、その文化には明らかな連続性が観測できる。
だって、それぞれの集団を構成する人員は、同じなのだから。

ただ、それだと集団の「名前」が変わっただけで、集団の中身は何も変わっていないのだから、継承も何もないとも言える。

なら、クラス替えをした場合はどうだろう。

3年から4年への進級の時にはクラス替えが発生し、「新4年1組」は「旧3年1組」の半数と「旧3年2組」の半数で構成されるとする。
この場合に、「旧3年1組」(もしくは「旧3年2組」)の文化は、「新4年1組」へ継承されるだろうか。

これは、継承されるだろう。
ただそれは、継承というよりかは、遺伝子の交配に近いものとなる。
旧3年1組と旧3年2組それぞれに文化があり、それらが混じり合う形で、ある文化はそのまま継承され、もしくは廃れてしまい、そしてある文化は姿を微妙に変えて生き残り、あるいは全く新しい文化が生まれたりもするだろう。

ただ、「世代を超えて」引き継がれるのが文化なのだとしたら、この「継承」は「世代を超えて」行われたものなのだろうか・・・?

それについて考えていると、「そもそも『世代』ってなんなんだ?」となってくる。

上の様子は、「旧3年1組」という集団と「旧3年2組」という集団が親になって、「新4年1組」という集団が子として生まれてきている、と見ることが出来る。
そう見るならば、「旧3年1組」と「旧3年2組」が旧世代の集団、「新4年1組」が新世代の集団となり、確かに「世代を超えて」文化は継承されていると言えるだろう。
けど、そのような集団の交差を、集団の世代が変わったと普通言うだろうか・・・?

こうやって考えていると、何かモヤモヤするのが分かるだろう。

ただ、そうやって考えている中で、気がついた。
もっとシンプルに考えればいいのではないか、と。

世代とかについて考えるのをやめて、もっとシンプルに「文化は集団に生まれるものである」と考えてみる。
そうすると、スッキリする。

多くの長く存在する集団というのは、その人員が常に一定ということはなく、古い人は抜けていき、一方で新しい人も入ってきて、世代が移り変わっていく。
つまり、世代を超えて存在することになる。
すると、そういった集団に生まれた文化は、世代を超えて継承されていくことになる。

他方、クラスという集団では、そういった人員の交代は起こらない。
なので、その集団に「世代」という概念は存在しないし、「世代」という概念が存在しないのだから、当然、文化が世代を超えて継承されるということもない。
しかし一方で、学年が上がったり、クラス替えがあったりするという特徴を持つ。
なので、文化は学年を超えて継承されたり、クラス替えによって混じり合ったりすることになる。

つまり、逆なのだ。
「世代を超えて引き継がれるから、文化である」のではなく、「集団が世代を超えて存在するから、その集団の文化も世代を超えて引き継がれる」のだ。
「世代を超える」というのは、「文化の特徴」ではなく、「集団の特徴」というわけだ。
なので、世代を超えるという特徴を持たない集団であれば、当然そこに生まれる文化は、世代を超えるという特徴を持たないことになる。

文化とは何なのか

であれば、文化とは一体何なのか、となってくる。
というのも、「集団が出来たところに生まれるもの」というだけでは、何でもかんでも文化になってしまうから。

つまり、話の流れとしては、次の形になっているのが理想だ:

  1. 文化とはXXXである
  2. なので、文化は集団に生まれてくる
  3. それゆえ、文化には集団の特徴が表れる
  4. これにより、
    1. 世代を超えて存在する集団では、文化は世代を超えて引き継がれるし、
    2. 集団が混じり合えば、各集団の文化も混じり合う

この「XXX」が何であるのかを、明らかにしたい。

文化の伝わり方

ところで、先程のクラス替えの話をもう少しじっくり観察してみる。

「旧3年1組」と「旧3年2組」から「新4年1組」が生まれ、遺伝子が交配されるかのように文化が混じり合い、新しい文化が生まれたわけだけど、では、そこで文化を伝えたのはーー文化の「遺伝子」として働いたのはーー何なのか、を考えてみる。
これは一見、「旧3年1組」「旧3年2組」それぞれに属していた、生徒たちであるように見える。

ただ、これはもうちょっと注意して見る必要があって、これをもって生徒たち自身が文化の遺伝子であるとするのは早計で、というのは、生徒たちは文化を運んではいるけど、同時に、文化を運ばれてもいるから。
何を言っているのかというと、「旧3年1組」の生徒であれば、たしかに彼らは「旧3年1組」の文化を運んではいるのだけど、同時に、「旧3年2組」の文化を運び込まれてもいる、ということ。
生徒たち自身が文化の遺伝子だと考えてしまうと、これはちょっとスッキリしない。

これに関しては、生徒たちによって遺伝子が交配されたと見るよりか、生徒たちがウィルスに感染しあったと見る方が、実はスッキリする。

つまり、「旧3年1組」の生徒たちは、「旧3年1組」の文化を形成する、いくつかのウィルスに感染していた、と考えてみる。
ウィルスは、感染した本人に影響を与えるのは当然、周りにも伝染し、周りにも影響を及ぼすことになる。
なので、クラス替えが発生すると、「旧3年1組」の生徒たちは、「旧3年1組」の文化を形成するいくつかのウィルスを、「新4年1組」に運んでくることになる。
と同時に、「旧3年2組」の生徒たちから運び込まれた、「旧3年2組」の文化を形成していたいくつかのウィルスに感染することになる。
その中で、ウィルス間での(つまり文化間での)生存競争で、あるウィルスは生き残り、あるいは廃れ、変異し、場合によっては全く新しいウィルスが生まれたりもして、「新4年1組」の生徒たちが感染している、「新4年1組」の文化を形成する一連のウィルスというものが定まってくることになる。
それによって、「新4年1組」の新しい文化は生まれてくることになる。

この「文化はウィルスのように感染するものである」という見方は、いろいろしっくりくるものがある。

例えば、世代を超えて引き継がれる文化を考えてみると、集団に新しく加わった人たちは、その集団の持つ文化に感染することになる。
そして、今度はその人たちが感染源として、さらに新しく加わった人たちにその文化を感染させる。
そのようにして、文化は世代を超えて感染ーーすなわち、引き継がれていくことになる。

また、すでに上の例で見たように、複数の集団が混じり合ったときの文化の混じり合いも、これで説明がつく。

よくよく考えると、人は複数の集団に属している。
それは、家族であったり、学校や会社であったり、あるいは、趣味のサークルや地域のグループ、さらには、国だったり。
そして、文化がウィルスのように感染するという性質を持つならば、感染者は同時に感染源になり、属する複数の集団に影響を与え、また同時に、影響を受けることになる。
これにより、文化は感染者を介して複数の集団に伝播していくことになるし、また、感染者を介して集団内の複数の世代に伝播していくことになる。

文化の感染

ただ、この「文化はウィルスのように感染するものである」というのは、まだ文化のもつ性質であって、文化とは何なのかという問いの回答にはなっていない。
その問いについて考えるには、「文化に感染する」と、一体どのような変化が起こるのか、について考えてみるといい。

まずは、「文化」ではなく、普通のウィルスーー例えば、インフルエンザウィルスーーに感染するときの様子を見ておく。

インフルエンザウィルスに感染した人は、インフルエンザを発症する。
ここで重要なのは、「インフルエンザウィルス」というウィルスと「インフルエンザ」という症状は、それぞれ別物ということだ。
「インフルエンザウィルス」というウィルスは、「インフルエンザ」という症状を伝播させる「外的な存在」であるのに対し、「インフルエンザ」という症状は、発熱や咳などといった、個人の身体に現れる「内的な変化」となっている。
そして、インフルエンザを発症した人は、今度は自身がインフルエンザウィルスを周りに撒き散らし、新たな感染源になっていく。

次に、「文化」に感染すると何が起こるのかを考えてみると、それは個人の持つコンテキストが変わるという「内的な変化」が起こっていることに気づく。
ここでいう「コンテキスト」というのは、何に価値を見出すのかという価値観だったり、普通はこうするものだという常識だったり、言葉や仕草の意味をどう受け取るのかという解釈だったりを指す。

もう少し詳しくいうと、言語学の用語で「シニフィアン」と「シニフィエ」というものがある。
シニフィアン」というのは「記号表現」とも訳され、外的に表現されたシンボルのことであり、「シニフィエ」というのは「記号内容」とも訳され、内的に想起される意味のことである。
wikipediaの例を借りると、「『海』という文字や『うみ』という音声」が「シニフィアン」であり、「海のイメージや海という概念ないしは意味内容」が「シニフィエ」。
そして、「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係には恣意性があることが知られていて(例えば、日本語だと「お湯」と「水」は区別されているけど、英語だとどちらも「water」と表記される)、その結びつきをここでは「コンテキスト」と呼んでいる。

例えば、日本人であれば、「1,000円紙幣」というシニフィアンを見れば「これは1,000円分の価値を購入できる紙だ」というシニフィエが想起されるわけだけど、それは「1,000円紙幣」というシニフィアンと「1,000円の価値を持つ紙」というシニフィアを結びつけるコンテキストが存在するからで、もしそのコンテキストがなければーー紙幣の文化に感染していなければーー「1,000円紙幣」というシニフィアンも「ただの紙」というシニフィアにしか結びつかない。

さて、実際に文化に感染する様子を眺めてみる。

例えば、外国人が日本にやってきて、ぺこりと頭を下げられたとする。
この「おじぎ」は日本の文化なわけだけど、その外国人はそれの意味するところを知らないーーすなわち、「おじぎ」のコンテキストを持っていないので、「おじぎ」という仕草のシニフィアンと、「挨拶である」というシニフィエが結びつかず、「?」となる。
そこで、その仕草は何なんだ?と質問して、「おじぎ」が日本の文化であり、挨拶であることを知るだろう。
これにより、「おじぎ」の文化に感染して、「おじぎ」の仕草と「挨拶」を結びつけるコンテキストが外国人の内面に形成されることになる。
つまり、「おじぎ」という外的な仕草によって、内面のコンテキストが変化させられることになる。
そして、内面のコンテキストが変化させられた外国人は、日本人に挨拶をするときにおじぎをするようになるだろう。

ところで、そんなふうにおじぎをするようになった外国人が、あるときいつもと同じようにおじぎをしたところ、その相手が実は外国人で、その外国人もまたおじぎを知らなかったとしたら、どうなるだろう?
きっと、おじぎを知らなかった外国人は、おじぎをした外国人に「それは何なんだ?」と尋ね、そして、おじぎをした外国人は、おじぎを知らなかった外国人におじぎの意味を教えるだろう。
つまり、おじぎの文化に感染した外国人は、今度は感染源となって、新たにおじぎの文化を感染させることになる。

この様子を、先程のインフルエンザの感染の様子と比較してみる。

まず、「インフルエンザウィルス」という、インフルエンザを感染させる「外的な存在」に相当するものは、「おじぎ」という仕草、つまり「外的シンボル」(シニフィアン)となっている。
そして、「インフルエンザ」という症状に相当するものは、「おじぎ」というシニフィアンと「挨拶である」というシニフィエを結びつけるコンテキストの形成、つまり「内的な変化」となっている。
さらに、インフルエンザに感染した人がインフルエンザウィルスを撒き散らして新たな感染源となるように、おじぎの文化に感染してコンテキストが形成された人は、今度は感染者自身が「おじぎ」をし始めて、新たな感染源となっている。

ミーム、コンテキスト、文化

ここまで分析してくれば、もうだいぶ見通しがよくなっていることに気づくと思う。

まず、文化を眺めるときには、2つの側面があることに気づく。
それは、外的な側面と、内的な側面である。
外的な側面とは「外的シンボル(シニフィアン)」であり、これが文化を伝播(感染)させることになる。
そして、内的な側面とは「外的シンボル」と「意味(シニフィエ)」を結びつける「コンテキスト」であり、「外的シンボル」に触れて文化が伝播(感染)させられると、「コンテキスト」に変化が生じることになる。

大山先生の講演で、文化の定義に関して、外的なものなのか、内的なものなのか、というものがあったけど、こうして整理してみれば、スッキリする。
つまり、文化を伝播させる外的シンボルに注目すれば、それは外的なものと捉えられるし、伝播させられた結果として各個人の内面に形成されるコンテキストに注目すれば、それは内的なものとして捉えられる

また、同じく大山先生の講演で、文化を伝播させる遺伝子のようなもの、ということで、「遺伝子(gene)」をもじって「ミーム(meme)」というものをドーキンスは考え出した、という話があり、このミームを巡っては、具体的に何を指しているのかが曖昧なこともあって、賛成派と反対派がいる、という話もあったけど、これもここまで整理してしまえば、スッキリする。
見ての通り、ミーム」と呼ぶに相応しいのは、「外的シンボル」それである
ただし、それは、これまでの議論で見てきて分かる通り、文化を集団内の世代間で継承するだけのものではないことに注意しないといけない。
ミーム」は「遺伝子」というよりかは「ウィルス」であり、集団間での文化の伝播においても、仕事をする。

(思い出したように書いておくと、クラス替えの例で文化を伝播させたのは「ミーム(外的シンボル)」で、それぞれのクラスの「ミーム」に感染した生徒たちがそれぞれの「ミーム」をアウトプットし、お互いに感染し合うことで、それぞれの内的コンテキストが変化して、新しい文化が生まれたことになる)

そして、「文化」とは「集団内で共有されるコンテキスト」に他ならない

お互いに「ミーム」を交換し合う中で、「集団内で共有されるコンテキスト」が形成されることになる。
これが「文化」である。
そして、「文化」が形成されると、その集団ではそのコンテキストにおいて「ミーム」が使われるようになり、それが文化の外面的な様子として観測されることになる。
また、そこで使われる「ミーム」によって、コンテキストの共有の再生産が行われ、この共有されたコンテキスト、すなわち「文化」は、世代を超えて引き継がれたり、集団を超えて伝播したりすることになる。

それと、共有されるといっても、その範囲は文化によっても異なることに注意したい。
例えば、「おじぎ」の文化は日本全体で共有されているコンテキストなので日本の文化となっているけれど、「牛乳瓶のフタが通貨として流通しだした」という話は、そのクラスでしか共有されていないコンテキストなので、そのクラス特有の文化になっている。
逆に言えば、コンテキストが共有されている範囲が、その文化がどの集団の文化なのかを定めるとも言える。

なぜ文化が生まれるのか

では、なぜそのように「文化」が生まれるのか。

それについては、まず、なぜ「ミーム」がコンテキストを変化させるのか、を説明しておきたい。

これは簡単で、「ミーム」はそれ単体だと何の意味も持たないから。
例えば、「駆逐艦ハイエースされた」という文は、コンテキストがないと全く意味不明な文になっている。
それが、コンテキストを知っていれば、「駆逐艦が擬人化された幼女がハイエースで誘拐された」ということなのね、と理解できる。
このように、ミーム」はそれを解釈可能な「コンテキスト」があって初めて意味を持つので、ミームを理解したいという欲求が、そのミームを解釈可能なコンテキストの形成を促すことになる。

そして、そのようにコンテキストが形成され、共有されると、コミュニケーションのコストが下がるというのがポイント。

例えば、「おじぎ」が挨拶を意味する、というコンテキストが共有されていなかったとしたら、どうだろう。
まず、挨拶をしようと思っても、何をしたらいいのか分からない。
というのも、何をしたら挨拶になるのかが分からないから。
あるいは、相手が挨拶のつもりでおじぎをしているのに、こちらはその意図が汲めず、何も反応できないということが起こるかもしれない。
そうなれば、相手は「何だこいつ」と思い、ギクシャクした関係になってしまうだろう。

ところで、「おじぎ」という「動作」自体は、何か意味のある動作というわけではない。
なので、「おじぎ」という動作をしなくても、何も困ったことは起きない。
しかし、「おじぎ」の意味が共有されると、それが一種のプロトコルとして働くようになり、その「行為」には意味が出てくる。
つまり、何の意味もなかった「動作」も、コンテキストが形成され共有されることで、それは「行為」に格上げされ、意味を持つようになっている。

このように、コンテキストが形成され、共有されると、外的シンボルの情報量が一気に増えることになる。
これにより、コミュニケーションのコストが下がることになる。
なので、「文化」は生まれてくるのだ。

まとめ

まとめると、以下のようになる:

まず、文化とは「集団の中で共有されるコンテキスト」である。
このコンテキストは各個人の内面に形成される。

そして、ミームとは「文化によって解釈される、外的シンボル(シニフィアン)」である。
この「ミームのもつ意味(シニフィエ)」を解釈するには、それを解釈するためのコンテキストが必要であることから、ミームミームに触れたものにコンテキストの形成を促すことになる。
なので、ミームによって文化は集団内で共有され、あるいは、他の集団へ伝播していくことになる。

このように、文化による現象は、観測可能な外的側面は「ミーム」として、そして、観測不可能な内的側面は「各個人の持つコンテキスト」として、表れてくることになる。

集団が出来ると、その中で「各個人のもつコンテキスト(の一部)」が「ミーム」を介して集団内で共有され、その集団の中で通じる「集団の中で共有されたコンテキスト」が生まれることになる。
これがその集団の「文化」になる。

このように、文化は集団の中に生まれてくるものなので、集団の性質が文化にも表れてくることになる。

例えば、集団が世代を超えて存在するような場合、その集団の文化はミームを介して次の世代へと伝わっていき、世代を超えて引き継がれていくことになる。
あるいは、複数の集団が混じり合えば、お互いのミームを交換し合うことで、各集団の文化が混じり合った新しい文化が生まれてくることになる。

なぜこのように文化が生まれてくるのかというと、コンテキストが共有されることで、コミュニケーションのコストを抑えることが出来るから。
例えば、「おじぎをする」という仕草のミームに対して、「それは挨拶である」というコンテキストが共有されていれば、その仕草をするだけで相手に「自分は挨拶をしていますよ」と伝えることが出来る。
あるいは、もうちょい高次で、「会ったら挨拶をするものである」という価値観のコンテキスト(これは内的)が「会ったら挨拶をするものである」という道徳のミーム(これは外的)として共有されていれば、価値観の違いによる争いを避けることが出来る。
これは、「おじぎ」という仕草が文化となっていない集団とのコミュニケーションや、「挨拶する」という道徳が文化となっていない集団とのコミュニケーションを想像してみると、分かりやすい。

そして、この考えを人工知能に適用すると、人工知能間のコミュニケーションで、そのコミュニケーションコストを低くするためにお互いのコンテキストを共有したり、あるいはルールを作り上げたりしていったりすると、それは人工知能がその集団で独自の文化を作り上げたと言ってもいいことになるだろう。
ここでの考え方なら、人工知能が死ななかったり、あるいは世代を超えていくことがなくても、文化を形成していけることになる。

実際、人工知能同士の会話で、言語が独自の変化を見せた、というニュースが、一時期話題になったことがある:

人間の文化でも、言語はより簡単になっていくもので、こういった言語の変化はよくあることである。
それと同じことを人工知能が行ったのだと考えれば、これは人工知能が独自の文化を形成したと考えることも出来るだろう。

今日はここまで!

人工知能のための哲学塾

人工知能のための哲学塾

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇

『のびのびTRPG ザ・ホラー』を遊んでみた。ぼっちで。

以下の記事の中で、最近TRPG熱がちょっと上がっているということを書いた。

で、ゲムマ2018秋に参加したとき、これどうなんだろうね、と仲間内でちょっと話に上がったのが、『のびのびTRPG』。
キャラやシナリオを用意する必要もなく、GMも不要(持ち回りで担当する)で、サクッと遊べるようになっている。

このときは、買っても遊べるかどうか分からないし、ということでスルーしたのだけど、よく見たら、一人用のルールも用意されてた。
これならぼっちでも遊べるw
なので、買ってみようかな、と。

シリーズとしては、「無印」(ファンタジー)、「ザ・ホラー」、そして新作の「スチームパンク」の3つが出ている。
自分はクトゥルフとか好きなので、「ザ・ホラー」を買ってみた。

のびのびTRPG ザ・ホラー

のびのびTRPG ザ・ホラー

ルール概要

まずはキャラの選択。

何個かのキャラがあらかじめ用意されているので、好きなキャラを選べばいい。
各キャラには、判定に使う「力」「技」の能力値と、判定を有利にするための「スキル」が用意されている。

キャラを選んだら、イントロダクションのカードをランダムでピック。
これで物語が始まる。

ここからは、1人がGMを、その左隣が場面PCを、持ち回りで担当していく。

GMは場面カードを1枚引き、内容を読み上げ、場面PCはその解決に挑む。
このとき、他のPCは場面PCをサポートしたりする。
そして、うまく解決できれば光カードを、失敗したら闇カードをゲットする。
これらのカードにはスキルやボーナスが書かれていて、今後の判定を有利に出来たりする。

そして、各自が3回場面PCを担当したら、いよいよクライマックス。
クライマックスのカードをランダムにピックして、全員でこの解決に挑む。
無事、解決できるのか、それとも・・・

と、まぁ、こんな感じ。

光カード/闇カードの公開タイミング

ちなみに、光カード/闇カードは、手に入れたら表の状態で手元に置いておこう、というのが公式のルールなんだけど、試し回ししたときとか、リプレイ動画とか見てると、なんか微妙にテンポが悪い・・・
というのも、光カードや闇カードには、NPC(例: 猫)やアイテム(例: ショットガン)、あるいは、属性(例: 海外育ち)が書かれているんだけど、NPCやアイテムならともかく、属性を入手した場合、それまでの場面との繋がりがよく分からないから。

例えば、「バリケードをぶち破ろうぜ」という場面になって、見事成功し、光カードを引いたら内容が「海外育ち」であった場合、「ふぅ、無事バリケードをぶち破れたぜ・・・っと、俺は実は海外育ちだったのかぁあああ!」となったりする。
なんじゃそりゃw

ということで、バリアントのレギュレーションとして、引いた光カード/闇カードがNPCやアイテムでなかった場合、クローズで手札に持っておき、スキルを使ったりボーナスをつける場面で「実は俺、xxxなんだよね」と初めてオープンにする、としてもいいんじゃないかな。

ぼっちルール

さて、ぼっちで遊ぶ場合は、引いたカードをもとに物語を書く、という遊びになる。

基本的な流れは通常ルールと同じなんだけど、キャラが1人なのでサポートが得られないということから、判定の目標値は-4し、場面は5回行う、としている。
また、クライマックスは多人数で解決するようにデザインされているので、クライマックスでは判定を行わない、としている。
そして、場面の内容をツイートしたり、短文として執筆して、書き終わった物語を見返してニヤニヤしよう、とw

ということで、やってみたw

試しに1回やったときは、判定の目標値を-4にするのは簡単すぎる感じがしたので、補正値は-2で。
あと、上記の光カード/闇カードの公開タイミングに関するバリアントレギュレーションを採用することにする。

リプレイ「狂気の果て」

とある研究室の片隅、目の下にクマを作って、一心不乱に研究を行う男がいた。
一体、何の研究を行なっているのかは分からないが、その沙汰は月に魅入られたかのようにも見える。
彼を待つ運命は、破滅か、それとも・・・

f:id:yamaimo0625:20190202115158p:plain

「教授」(力:3、技:4)
スキル「研究突破」【自身の判定】
君は興味深いものに対して見境なく研究の目を向けてしまう。
目の前のものが研究対象だとGMを説得できたら、判定を[2D + 7]で行うことができる(力/技は足せない)。

イントロダクション「村の異変」

(PCのうち1人)が引っ越してきた平和な村。
穏やかな暮らしがしばらく続いたが、この夜を境に、異様な出来事が起こり始める。
村の伝承と禁じられた存在に、鍵があるかもしれない。
この地で得た知人と助け合い、怪異に挑むんだ。

「・・・何やら村が騒がしいな」

教授が村に越してきてから、だいぶ時間が経っていた。
ここでの生活は、都会の喧騒に憧れる若者にはひどくつまらないものだろうが、自分の研究に没頭できる彼にとっては、最高の環境だった。

ただ、村社会というものは恐ろしい。
彼としては、最低限の近所付き合いはしてきたつもりだったが、それでもなお、村にとって異質な存在である彼に嫌悪を抱いている村人も少なくはないだろう。

やれ、面倒だが、様子を見にいくしかないか・・・

場面1「演舞」

赤い月が陰る夜、君はうっかり村の奇祭に踏み込んでしまった。
村人が熱に浮かされたような目で、なにやら手拍子を打っている(周りのプレイヤーは手拍子を始めること)。
奇祭の踊りを即興で成功させなければ、村人に捕らえられてしまうぞ!

判定
【技:13】以上(→補正【技:11】以上)で成功する。
場面PCはダイスを振る代わりに踊ってもいい。
成否は周りのみんなで決めること。

「・・・なんだ、これは?」

教授が目にした光景は、予想の上をいくものだった。
村人がみな熱に浮かされたような目をし、謎の踊りを踊っている。
ここに住むようになって結構経つが、こんな光景は見たことがなかった。

困惑している教授をよそに、村人たちの目線が一斉に彼を捉える。
彼の番だというのだろうか。
くそっ、こんな意味わからんことをするためにこの村に来たのではないのに、と彼は内心で毒突いたが、そんなの村人たちの知るところではない。
手拍子をしつつ、彼に近づいてきて、踊れ踊れと催促してくる。
その目は正気のそれではない。

あまりの恐怖にたじろぎ、教授は見よう見まねで踊り始めた。

ダイスロール(2D):4 + 2 = 6
判定:【技】4 +【ダイス】6 = 10

失敗、闇カードをドロー
「軍人(NPC)」を取得

「軍人(NPC)」
「くそっ、なんて地獄だ。ここはどんな戦場よりも地獄だぜ。いいか、お前ら、ここで待っていろ。余計なことはするんじゃあない。こんな地獄は地獄帰りのプロフェッショナルに任せておけよ。いいな? さもなくば地獄送りだぜ」
ボーナス;力+1

しかし、その踊りはあまりに拙く、教授は村人らに捕らえられてしまう。

と、そこには先客がいた。
迷彩服に身を包んだ、軍人のようだ。

なぜこんなところに軍人が・・・というのも謎だが、その軍人をすら村人たちは捕まえているという事実は、怪奇の域に達している。
この村で、一体何が起きているというのだろうか。

場面2「携帯がつながる」

ふと携帯を見ると、この一帯は奇跡的に電波が入っている!
誰かに助言を求めよう。
パニックにならず、落ち着いて話せば、有用なアドバイスを貰えるかも。

判定
【技:10】以上(→補正【技:8】以上)で成功する。

こうやって捕まってる間も、時間はどんどん過ぎていく。
それはすなわち、研究の時間が削られていくということだ。
なんとかこの場から逃れなければ。

ふと携帯を見てみると、電波が入っていることに気づいた。
これで助けを呼べないだろうか・・・?

ダイスロール(2D):4 + 1 = 5
判定:【技】4 +【ダイス】5 = 9

成功、光カードをドロー
手札に追加

よしっ、携帯は無事繋がった。
これでなんとかなりそうだ。

場面3「巨大な怪物」

そこに立ち入った君たちの足下が、突如崩れる。
轟音とともに現れたのは、異形が寄り集まった山のごとき巨大な怪物だ!
逃げ場所はない。
命を賭して、この脅威に立ち向かうしかない!

判定
【力:15】または【技:15】以上(→補正【力:13】または【技:13】以上)で成功する。

「で、こんな時間に、なんだって?」

教授が携帯で助けを求めたかつての同僚は、つまらなそうに答える。

「ふんっ、捕まっているのは、古い座敷牢なんだろう? だったら、畳を剥がしてみれば、床が抜けるんじゃないか?」

いや、そんな簡単にいくものか、と教授は抗議したのだが、かつての同僚は眠そうに「じゃあな」と短く言って、携帯を切った。

薄情な・・・と教授は思ったが、仕方ないのかもしれない。
こんな田舎に引きこもっているハグレ研究者など、厄介者以外の何物でもない。

仕方ないので、教授は軍人と協力して、畳を剥がし、床を調べ始めた。
板張りの床とはいえ、そう簡単に抜けるようなものではない。

が、そんな中、明らかに足音の反響が他と違う場所があった。
もしや、と思い、軍人と一緒に思いっきりその一点を踏み抜いてみた。

その瞬間。
床は抜け、ガクッとバランスが崩した彼は、軍人と一緒に穴の中へ落ちていった。

「あいてて・・・」

どうやらそこは地下室のようだった。
周りは真っ暗で、何も見えない。

辺りを探るために携帯のライトをつけると、獣ともなんとも判断がつかないような奇妙な叫び声が部屋に反響した。

声の方向に携帯を向けると、そこにはなんともおぞましい、怪物の姿が映し出された。
いくつもの小さな生命が集まり、群れ、まるで一つの生き物であるかのようにうごめいている。

が、教授は軽く笑い飛ばす。

「まさか、こんな生き物がいるだなんてね。だが、それは俺の研究対象だぜ・・・!」

狂気に爛々と輝く目は、いったいどちらの方が化け物なのかと思わせるものだった。
彼の専門は生物学だが、それは学界では異端とされるもの。
怪異と呼ばれる類の生物を追い求め、その痕跡を研究しているのだった。

スキル:研究突破を使用
ダイスロール(2D):3 + 2 = 5
判定:【スキル】7 +【ダイス】5 = 12

失敗、闇カードをドロー
手札に追加

教授はその巨大な怪物にがむしゃらに向かっていったが、さすがに分が悪かった。
不定形のそれは、一部を潰されようと、全体としては滅ぶことがない。
しかし、彼は一向に怯まない。

「ふはは、これだ、この生命力だ。お前を研究させろぉ!」

ボロボロになっても突っ込んでいこうとする教授を、しかし、軍人はグイッと掴んで引っ張りあげる。

「バカか、お前は。逃げるぞ!」

嫌だ嫌だと暴れる教授を摘まみ上げ、軍人はその場からの離脱を試みるのだった。

場面4「血塗られたゆるキャラ

場面PCははじめに、知ってるゆるキャラ1体の名前をあげること。
ーーそれが今、ここに立っている。
いつもと違うのは、その足下が赤黒く濡れており、その手に握られているのが狩猟銃で、銃口が君の右目に向けられているということだ。

判定
【力:12】以上(→補正【力:10】以上)で成功する。

「・・・ふぅ、なんとか逃げ切れたな」

軍人は安堵の息をついた。
一方、強引に引きずられてきた教授は、まだ口惜しそうにしていた。

と、そこに。
なにか異様な気配を感じた教授と軍人は、二人揃って後ろを振り返った。

二人の目に映ったのは、血にまみれ、狩猟銃を握った、人型のナマズのようなナニカだった。

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「こいつは・・・インスマス なまりん!?」
(※吉川市のイメージキャラクター、なまりん

そう口走った教授を、軍人は横目で眺める。
また暴走したりやしないだろうか・・・

が、教授はなんとも冷めた目をしていた。
不思議に思った軍人は、教授に問う。

「お前、あれは研究対象じゃないのか?」

教授は答える。

「ふんっ、銃を使うようなヤツなど、興味ない。それに、俺は潔癖症なんだ。あの血に汚れた姿、不衛生で不快極まる」

闇カード「潔癖症」公開

潔癖症
君は何かの理由により、汚れを非常に憎んでいる。清潔さは人類を混沌の時代から文明の新時代に進ませる叡智の光なのだ。除菌してやる!
ボーナス:技+2(不衛生な環境だと力+2)

教授と軍人は、協力してなまりんの制圧に取り掛かった。

「軍人」のボーナス:力+1
潔癖症」のボーナス:不衛生な環境なので、力+2
ダイスロール(2D):5 + 2 = 7
判定:【力】3 +【ボーナス】3 +【ダイス】7 = 13

成功、光カードをドロー
「懐中電灯」を取得

「懐中電灯」
闇を切り裂きすべてを明らかにする・・・には、やや頼りない光だけど、足下の危険を照らす役には立ってくれるだろう。電池が続く限り。
スキル「明るくなあれ」【すべての技判定】
判定に [+1]のボーナスを得る(与える)。

いくら相手が銃を持っていようと、二人でかかれば問題なかった。
事もなく、なまりんを制圧。
そして、なまりんが持っていたであろう懐中電灯を、教授は手に入れたのだった。

場面5「失われた像」

「この一帯を守る像が、何者かに奪われてしまった」
「ここは間もなく滅んでしまう」
「おしまいだぁ!」
人々が右往左往している。
まさか、そんな・・・と疑うのは自由だが、とりあえず彼らを安心させれば、滅びを遠ざけておけるだろう。

判定
【技:10】以上(→補正【技:8】以上)で成功する。

倒れたなまりんを尻目に、二人は村の様子を窺うと、何やら様子がおかしい。
先程までは踊り狂っていた村人たちも、今は踊りをやめ、青ざめた顔つきで皆がオロオロしていた。
彼らの話し声が聞こえてくる。

「像が奪われてしまった」
「もうダメだ、この村は滅んでしまう」
「いや、大丈夫だ。さっき若いのが、着ぐるみのまま、猟銃片手に様子を見にいったところだ」
「でも・・・」

二人は顔を見合わせる。
もしかして、さっきのなまりんは・・・

村人たちに先程の狂気は見えない。
これは、自分たちがなんとかしなければならないのではないだろうか。

潔癖症」のボーナス:技+2
スキル「あかるくなあれ」を使用:技+1
ダイスロール(2D):3 + 2 = 5
判定:【技】4 +【ボーナス】2 +【スキル】1 +【ダイス】5 = 12

成功、光カードをドロー
「栄養ドリンク」を取得

「栄養ドリンク」
多少の傷は回復できるアイテム。・・・だまされてる気がする? 気のせい気のせい、ちゃんと治るって!
ボーナス:力+1

教授と軍人は村人たちの前に姿を現し、彼らの説得を試みた。
もちろん、なまりんのことはおくびにも出さず。

説得は一通りの成果をみたようで、村人たちも落ち着いたようだった。
そして、疲れた様子の彼らを見て、栄養ドリンクを与えてくれた。

それにしても、話をしていて分かったが、やはり村人たちは彼らを捕らえていたことをまったく覚えていないようだった。
では、先程の狂気は何だったんだろうか・・・

クライマックス「隠蔽された真実」

そして1年後・・・。謎の未解決事件として、新聞の片隅に押し込められた内容を見て、君は何を思うだろうか。
たとえ政府が隠蔽しても、この事件は終わってはいない。奪われたものと得たもののすべてを胸に、PCたちは次の場所へと(かっこよく)去っていくのであった。

判定
それぞれ2Dを振り、8以上を出せば、新聞を読む側になる。その際、自分が持っている「光」カードの枚数をボーナスに加えることができる。

判定なし

あの騒動から、1年が経った。
村は何事もなかったかのように、静かで平和だ。

教授は目を覚まし、朝刊に目を通す。
ここ1年、欠かさずにチェックを続けていたが、あの事件のことはどこにも書かれていない。
自衛隊員一人が行方不明になった」という小さな記事を除いて。

教授は片隅に佇むソレを幸せそうに眺めた。
それは、あの地下にいた巨大な怪物であった。

「一時はどうなることかと思ったが、なんとかなったな。これで研究に専念できるーー」

その目は完全にイっていた。
はたして、狂気に堕ちていたのは、誰だったのかーー

ソレを呼び出したのは、他でもない、教授その人であった。

召喚の狂気は、村人たちに一時的な発狂をもたらしたものの、今や反転し、村人たちの生気を吸い続けている。
結果、村人たちは「ただ平穏に」日々を送るだけの、生ける屍となった。
これは、教授と行動を共にした軍人もである。
そのため、この騒ぎは外に広まっていない。

この「平和」な世界で、教授とソレは、今日も生き続けるのだろうーー


今日はここまで!

のびのびTRPG

のびのびTRPG

のびのびTRPG ザ・ホラー

のびのびTRPG ザ・ホラー

のびのびTRPG スチームパンク

のびのびTRPG スチームパンク

Nokiaの体組成計Body+を買ってみた。

年明けに、今年のやっていきたいこととして、体調を整え、体重を減らしていきたいということを書いた。

で、継続してジムに通い続けてるんだけど、モチベーション維持のためにも、やっぱり体重を記録していかないとなぁ、と。
ただ、記録を毎回メモしたりするのは、面倒・・・
そこで、少し調べてみると、iPhoneなどと連携して簡単に体重を記録できる体重計がいろいろ出ているみたいだった。
その中でも、NokiaのBody+という体組成計が良さげだったので、買ってみた。

NokiaのBody+にした理由

ちなみに、iPhoneなどと連携できる体重計というのは、他にもいろいろ出ている。
タニタだったり、オムロンだったり。

でも、それらではなく、自分はNokiaのBody+を選んだ。
なぜかというと・・・

デザインがカッコよかったからw

いや、細かい性能の違いとかあるんだろうけど、正直よく分からんしw
となれば、決め手となるのはデザインでしょw

各社の製品ページを見てみても、そのデザインの差は歴然w

あと、タニタとかオムロンの方は、なんか似た型番のがいろいろ並んでて、細かい違いがよく分からない。。。
正直、調べるのが面倒になっちゃって。

一方、Nokiaの方は、ハイエンドモデルの「Body Cardio」、ミドルモデルの「Body+」、エントリーモデルの「Body」と分かりやすい。

経済学でサーチ理論とかあるわけだけど、情報の分かりやすさというのは重要だよね。
だって、人の時間は有限で、調べるのにかけられる時間だって限られているわけだから。

開封〜設定

ということで、Amazonでポチって、届いたのがこちら。

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カッチョいいw

さっそく箱から取り出して、カーペットでも測定できるように、付属の足をつける。

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そして、ひっくり返すと・・・

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すごい光沢w
映り込みハンパないw

このあとは初期設定。

説明書に従い電源を入れたら、iPhoneで指定されたサイトに飛んで、そこからアプリをインストール。

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あとは、アプリを起動して、指示された通りに入力していくだけで、初期設定が完了!
これで、体重を測れば自動的にWi-Fi経由で同期され、Bluetooth経由でiPhoneにもデータが送られてくるようになった。

ちなみに、途中で接続するWi-Fiのパスワードを入力する必要があるので、あらかじめメモを用意しておいた方がいい。

さて、あとは毎日体重計に乗って記録をとるようにし、ジムに通って体重を落としていかないと。
頑張ろう。

今日はここまで!

現代人は首が痛い。

いつまでもお正月の記事をトップにしておくのもなんなので、簡易更新。


昨日、いつものように、電車で帰宅している途中のこと。

いつも武蔵浦和で乗り換えしているんだけど、埼京線のホームから武蔵野線のホームに向かい、電車が来るのを待っていた。
ちょうど電車が行ってしまったところで、列の先頭に並ぶ。
いつもであれば、ここでスマホを取り出して、ネットを見たりFGOの周回をしているところなんだけど、ふと、真正面の様子が目に映った。

あっ、みんな首を下に向けている。

武蔵野線のホームは対面式で、中央に線路を挟んで、ホームが向き合う形になっている。
なので、線路の向こうを眺めれば、反対側のホームで待っている人たちの姿が見えてくる。

電車がちょうど行ってしまったこちら側とは違って、対面はもうすぐ電車がやってくるタイミングだったので、それなりの人がホームに並んで待っていたのだけど、眺めれば眺めるほど、その誰もが目線を下に落としていた。
そう、みんながみんな、スマホを見てる。

それは、あまりにも当たり前な光景なんだけど、その当たり前な光景を自分はこれまで見たことがなかった、ということに気づいて、すごい衝撃を受けた。

それは当然で、だって、自分だって今目の前に見えている人たちと同様に、スマホをいじっているのが当然だったから。
この「当たり前」であるはずの風景を生み出す行為を行なっている限り、この「当たり前」の風景は、決して見ることが出来ない。

なので、この「当たり前」な、「どこにでもある」はずの風景は、しかしながら、ほとんどの人に見られることがない。

この妙な感覚、分かるだろうか・・・?

どこにだって転がっている、何の珍しさもない風景。
ふっ、と目を少しあげさえすれば、誰だって、いつだって、見ることが出来であろう、何の面白みもない風景。
けど、人は目をあげない。
それゆえ、目の前に広がっているこの光景に、気づくことが出来ない。
そんな、どこにでもあるはずなのに、誰にも見つからずにいる風景を、ふとしたはずみで見つけてしまった、このワクワク感。
その風景は、何も特別なものではないはずなのに、誰も見つけてないであろうというそれだけで、何か特別なものに思えてくる。

誰か、自分と同じようにこの風景を「見つけた」人はいないかな、と、しばらく向かいのホームを眺めていたのだけど、誰とも目は合わなかった。
目が合えば、「共犯者」を見つけたような、そんな喜びを感じられたんじゃないかな、とも思うのだけど。

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今日はここまで!