いものやま。

雑多な知識の寄せ集め

「交換」について考えてみた。

昔のブログに書いた記事から。
書いたのは2004年9月3日で、書いた時のタイトルは『交換。』。


Chronicle 2ndを聞いていて、ふと思ったことのメモ。

ちなみに、まったく余談ながら、このCDめちゃくちゃいいw
オペラも好きだけど、こういう物語のある音楽(しかも、このCDの場合、音楽自体にすごく味がある)は大好き。

で、このCDの「沈んだ歌姫」(13曲目)の中で、娘を売れだなんだと出てくる。

駈ける駆ける獣(Bestia)
高値で売れるなら娘でも売れ
売値は望む得る限り高く

猛る猛る獣(Bestia)
敵を売れ 味方を売れ
他人の娘など底値で売りつけてやれ

咆える吼える獣(Bestia)
弑逆を謀った逆賊として
デル・ビスコンティエ一門処刑

屠る屠る獣(Bestia)
逃亡を図った国賊として
デル・ビスコンティエ令嬢を処断
(『Chronicle 2nd』「沈んだ歌姫」より引用)

これを聴いてふと浮かんだのが、次のような疑問。

もし、人が娘同士を「売りあった」場合――結局それは、娘を交換し合っただけに過ぎないのだけど――売られる前と後で、娘の待遇はどう変わるのか?

例えばこれが、単純な「娘とお金の交換」であれば、どうだろう。
倫理的な問題はとりあえず置いておいて、これは「娘」という商品と「お金」との交換であり、それ相応の交換が行われたと考えられる。
売られた娘の待遇がどうなるかは、おそらく売られる前に比べて悪くなると思われるが、買った人の一意により、そこまで考慮した上でお金のやり取りがされるだろう。

さて、ここで、これを「売りあった」とすると、どうだろう。
つまり、AとBにはそれぞれ娘がいて、Aは x円で娘をBに売り、Aはそこで手に入れた x円でBの娘を買ったとしたら、どうだろう。
お互い売りあったのだから、それぞれの娘の待遇については、単に一方がお金で娘を買ったときと同様に、買った人の一意によることになる。
しかし、お金のやり取りに目をつけてみると、AとBのどちらも x円で娘を売り、 x円で娘を買ったのだから、プラマイ0となる。
つまり、単純な「交換」だ。
すると、お金のやり取りなしに娘を交換するだけで、娘が完全に他人の手に委ねられてしまうことになる。
このことに、違和感を感じるのは自分だけだろうか・・・?

さらにいうと、この場合の x円は任意の金額になっている。
娘の価値がそれ相応の値段になっているのかどうかは全く不明であり、100円でやり取りされた可能性もある。

ーー種明かし(?)をすれば、「商品とした」からこそ交換できるのであって、そのこと(商品としたこと)が娘の価値を貶めてる。
けど、まるで「交換」自体が物の価値を下げているように見えて、すごく奇妙に思えた。

でも、この「交換」こそが経済の基礎なんだろうなぁ、と。
で、このような単純な「交換」は、「価値の損失」を生んでいくのではないかと。


まぁ、最後の部分は今から思うとちょっと的外れな感じだけど、この「売りあった」場合にその商品に値段がつかない(値段が分からない)というのは、ちょっと面白いかなと思う。
この前読んで、記事でも紹介した『21世紀の貨幣論』から考えると、債権と債務がちょうど打ち消しあって債権が余らない(=債権を示すトークンである貨幣が不要となる)ので、値段がつかないし、いくらであるかも分からない(分かる必要もない)となるわけだけど。

あと、この文章では「価値の下がる瞬間」がどこなのかを指摘しているのがけっこう重要かなと思う。

つまり、単純に見た場合、

  1. それぞれ自分の娘は大切なもの
  2. 娘を交換する ←ここで娘の価値が下がったように見える
  3. 交換した後の他人の娘は大切なものではない

となるけど、実際には、

  1. それぞれ自分の娘は大切なもの
  2. 娘を交換可能なものとする ←ここで価値が下がっている
  3. 娘を交換する
  4. 交換した後の他人の娘は大切なものではない

と、交換するタイミングではなく、交換可能なものとしたタイミングで価値が下がっているのが、この文章での指摘。
使用価値(所有による価値もここでは含むものとする)から交換価値へと転換されたタイミング(つまり、「商品」となったタイミング)で、その価値は「個人にとっての主観的な価値」ではなく「市場内での客観的な価値」で測られることになり、それぞれの価値(使用価値と交換価値)にギャップが存在するというのが、いろいろ分析していくときに重要な視点を与えてくれそう。

今日はここまで!

ワイヤレスイヤホンを買ってみた。

ワイヤレスイヤホンを買ってみたので、その話など。

きっかけ

まず、なんでワイヤレスイヤホンを買おうと思ったのかというと、iPhone 7のイヤホン変換ケーブルが断線したから。
これまでのイヤホンも気に入っていたし、新しいケーブルを買ってもよかったんだけど、正直この変換ケーブルが煩わしかったので、これを機に買い換えようかなと。

ちなみに、これまで使ってたイヤホンは、コレ。

信頼のオーティオテクニカw
自分は低音が大好きなので、SOLID BASSシステムとやらで重低音がしっかりと聞けるのが嬉しい。
あと、イヤホンを入れる用のケースがついてて、これがけっこう使い勝手よかったw

ヨドバシカメラ

そんなわけで、ヨドバシカメラへ。

最初に買おうと思っていたのは、オーティオテクニカのコレ。

これまで使ってたCKS99の後継ともいえるCKS990のワイヤレス版。

ただ、実際に視聴してみると、ちょっと微妙な感じ。

  • 重低音が思っていたより微妙
  • 首にかける部分がバネのように弾力性のある素材で、煩わしい

まぁ、これは店頭で試したので、エイジングが十分でないとか、ケーブルで繋がれてたからとかも考えられるんだけど。

けど、そんなだったので、イヤホン探しは一からやり直し。
いろんなワイヤレスイヤホンを試してみた。

そんな中で、「これは!」というのを見つけた。
それが、こちら。

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フィリップスのTX2BT。

最初、見た目がなんか高級感あるなぁと手に取ったんだけど、視聴してみてビックリ。
重低音のクリア感が凄い。

イヤホンを買うとき、自分が視聴によく利用しているのが、梶浦さんの「Key Of The Twilight」。

この曲を支えている低音部分が、しっかりと重低音を鳴らしてくれるイヤホンだとホント見違えるように違ってくるから。
実際、いくつか試したイヤホンで、他の曲だとまぁまぁかなぁ、と思っていたものも、この曲を聞いてみると、低音部分が全然響いてなくて全然ダメダメだったと気付くことがあったり。
逆に、低音が強くなり過ぎて、高音部や音声域がくぐもってしまったり、安っぽくなってしまうということもよくあるけど、この曲だとそういうのにも気付くことが出来る。

で、このイヤホンでもこの曲を聴いてみたんだけど、重低音がしっかりと聞こえる上に、そのクリア感が凄かった。
下から2番目のタッタカタッタカタッタカタッタッというリズムを弾いているベースの音のクッキリ感が凄くて、こんなにクッキリと聞こえるものなのかと。
もちろん、一番下のベースもちゃんと鳴ってるし、高音部や音声域もバランス良く鳴ってる感じ。

お値段的にも悪くなかったので、これを購入。

その後

ただ、問題はこの後。

帰ってから開けてつけてみたら、なんか右耳の方からカチャカチャ音がする(^^;
イヤーピースを外してみたり変えてみたりいろいろやったんだけど、改善されず。

仕方ないので、再びヨドバシに行って確認してもらい、交換してもらった。

と、そしたら今度は右耳の音が出ないw

ここまでハズレを引かされるかと辟易したんだけど、幸い、もう一度交換してもらって、今度こそは大丈夫になった。

アマゾンのレビューを見てみると、同様にカチャカチャ鳴ったというレビューが一つ見つかったので、けっこう不良品があるのかも。
なので、買うときはちゃんと交換に応じてくれるお店で買った方がいいかもしれない。

何はともあれ、モノはいいと思うので、ワイヤレスイヤホンを買おうと思っている人は、選択肢の一つにぜひ!

今日はここまで!

常陸 風土記の丘の紹介。

最近は暖かくなってきて、いよいよ桜が楽しみな時期になってきた。
そこで、一つ紹介したいのが、常陸 風土記の丘(ひたち ふどきのおか)。

常陸 風土記の丘

ここは桜の名所らしく、2015年の4月12日に自転車で行ってきたんだけど、確かに凄かった。

行ったのがちょうどこのブログを始めるちょっと前で、このブログでは紹介していなかったんだけど、オススメなのでルートを紹介してみたいと思う。

ルート概要

ということで、ルートの概要。

途中までは筑波山に向かうときに使うルート。
違ってくるのは、学園西大通と学園東大通りの交わる西大通入口の交差点で、筑波山に向かう場合はここを左折するんだけど、常陸 風土記の丘に向かう場合、直進していく。
そして、県道53号〜県道64号と走っていけば、到着する。

ちなみに、筑波山に向かう場合、県道45号をひたすら北上していくルートもあるんだけど、過去にトラウマがあるので、自分は使わないw
(毎年大晦日にママチャリで走って筑波山での初日の出を目指すとかやってたんだけど、県道45号はひたすらまっすぐで周りに何もなくて、暗いわ寒いわ長いわと、何度も心が折れそうになった)

県道53号

ちなみに、このルートでひそかにオススメしたいのが、県道53号。
別のルートとして、大洗に行くときに使った国道354号〜国道6号を走って行くのもありなんだけど、ここは県道53号を推したい。
というのも、県道53号は割と自然の中を走っていく感じで、所々に花なんかも咲いていて、それがとてもいいから。

立ち止まっては写真を撮ったりしたんだけど、以下がその写真:

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すごくいいよねw

遠くに筑波山を眺めながら走るのも気持ちいいw

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ということで、県道53号を通るルートをオススメしたい。

常陸 風土記の丘

そして、そんな風景を楽しみつつ風土記の丘に到着すると、中はもっと凄いことにw
以下、興奮して撮りまくった写真を垂れ流しでw

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いやぁ、ホントに凄いw
まさに桜のトンネルって感じw

ちなみに、中には食事処もあって、そこで食べたのが、「韋駄天ざるそば」なるもの。
ダチョウの肉のてんぷらなんだとか。

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美味しかったんだけど、めちゃくちゃ混んでて待つ必要があるので、ちょっと注意が必要かも。


そんな感じで、サイクリングして桜を目指すなら、すごくオススメの場所。
行ったのは4月中旬だったけど、上旬〜下旬にかけてで咲いている桜の種類が変わっていくから、けっこう長い期間楽しめるみたい。
都内だと4月上旬で桜(ソメイヨシノ)の見頃は過ぎてしまうので、そのあとに桜を楽しみたいなら、常陸 風土記の丘はかなりいいと思う。

今日はここまで!

『熱血!アセンブラ入門』を読んでみた。

『熱血!アセンブラ入門』を読んでみたので、感想とか。

熱血! アセンブラ入門

熱血! アセンブラ入門

購入に至るまで

この本を初めて見たのは、近くのショッピングモールの本屋。
タイトルがものすごいインパクトで、思わず手に取ってしまったw

で、手に取ってパラパラと眺めたら、思った以上にガチの内容でビックリ。
そのときの驚きはツイートにも残ってたりw

仕事柄、アセンブラは割と身近だったんだけど、なんだかんだで深くは勉強して来ず。
この本もすごく興味はあったんだけど、何しろかなり分厚い本だったので、そのときは購入には至らなかった。

けど、最近またアセンブラの知識が必要になってきたので、思い出したり。
そして、もしかして電子書籍化されてないかなぁと検索したら、見事ヒット。
しかも、hontoでちょうどポイントアップされていたので、実質半額で手に入れられるチャンスだったので、即購入してみた。

余談だけど、hontoはホントにお得。
特に、こういった分厚い技術書が手軽に読めるのはすごくいいので、オススメ。

内容と感想

さて、肝心の内容だけど、本格的な技術書というよりかは、アセンブラアーキテクチャに関する読み物という面がかなり強い。
これは、著者自身も書いていること。

本書は「アセンブラ」を気負わずに読みモノのように読んでみるという、今までになかったタイプの書籍です。
アセンブラを「フィーリング」で「なんとなく」読んでみようというものです。
(省略)
あまり難しいことは考えずに、読みモノだと思って読んでいただければと思います。
読みモノなので、第一目標は「面白いと思ってもらうこと」です。そしてついでに多少の勉強にもなれば・・・とも思いますが、これはホントに「ついで」です。
(『熱血!アセンブラ』「はじめに」より引用)

実際、この本のアプローチは面白くて、C言語のコードから生成されたアセンブラを読むことで、アセンブラの各命令がどんな意味なのかを「推理して」読んでいくという方法がとられている。
読者自身、著者と一緒になって推理していくという面白さがある。
もちろん、最初は知識があまりないので推理もへったくれもないんだけど、同じようなパターンが何度か出てくることで次第とアタリがついていくようになる。
この感覚はなかなかいい。
まぁ、場合によっては著者自身も「これは分かんないねーw」と匙を投げることもあるんだけどw

この本でまず扱うのは、PowerPCMIPS、SH、ARMといったRISCアーキテクチャ
自分にはすごく身近w
こういったアセンブラの本だと、i386を扱うことが多いと思うんだけどねw

さらに、H8、i386といったCISCアーキテクチャ(もっとも、本だとこれらのアーキテクチャCISCと分類するよりかは、マイコン系と分類した方がいいよね、としていたけど)にも触れながら、アセンブラの基本的な内容をおさえていく。

なお、確かに基本的な内容ではあるんだけど、それでもやっぱり組込み系以外のプログラマにはあまり馴染みのない内容だから、推理しながら読んでいくというスタイルをとってはいるものの、組込み系以外のプログラマには何を言っているのか分からない可能性があるかも。
少なくとも、C言語の知識だけでなく、「コンピュータがどのように動いているのか」という基本的な知識は必須だと思う。
まぁ、基本情報技術者の勉強とかをしたことあれば、十分理解できるとは思うけど。

これが終われば、あとはひたすらいろんなアーキテクチャアセンブラを眺めては、推理しながら読み進めていくというスタイル。
その中で、どうしてこういったアーキテクチャになったのかを推測していったり、こんな全く知らないアーキテクチャアセンブラを見て、こんなアーキテクチャもあるのかと驚いたりするのは、とても面白かった。

ただ、あくまでもこれは「アセンブラ入門」であって、扱っているアーキテクチャの数こそすごい数になっているものの、それ以上のより深い内容にまでは突っ込まれていなかったのが、個人的には少し残念。
その、より深い内容の部分を勉強してみたいなと思っていたので。

具体的には、OSや周辺I/Oへのアクセスを語る上では絶対に外せない割込みに関する話だとか(※システムコールに関しては少し触れられてる)、最近のOSではほぼ必須となっている仮想記憶やキャッシュメモリの話、あと、科学計算では重要になってくる、浮動小数点数演算に関する話とか。
まぁ、そんな内容まで扱ったら、アセンブラ入門を飛び越して、OS入門くらいの内容になってしまうわけだけどw

何はともあれ、この本を一通り読めばーー最悪、第一部だけでも読めばーーアセンブラの基本的な知識と、いろいろ試しながら推測して読み解いていく力は身につけられるんじゃないかなと思う。
読みモノとしても、普通に面白かったし。

今日はここまで!

熱血! アセンブラ入門

熱血! アセンブラ入門

コーダーブルームの手賀沼ライドに行ってきた。

3月も後半になり、暖かくなってきた今日この頃。
ということで、3月25日(土)にお花見ライドと称してコーダーブルームのオーナーズライドが企画されたので、参加してきた。

これまでのオーナーズライドは、以下から:

今回のルート

今回のルートは、以下のような感じ:

船橋駅北口のタイムズ駐車場に集合して、そこから北上。
手賀沼の道の駅しょうなんに着いたら、そこから手賀沼サイクリングロードを3/4周して、柏駅がゴール、という約40km強のコース。

ただ、自分が実際に走ったルートは、以下:

そう、前回までと違い、自宅から自走で行って帰ってこれる距離だったので、自走してみたw

船橋駅

ということで、まずは自宅から船橋駅へ。

集合時間が9時半だったので、余裕を見て7時半ちょっと過ぎに家を出発。
いつも通り、江戸川の土手に乗って、ひたすら南下していく。

まぁ、通り慣れた道だし、楽勝だろ、と思っていたんだけど、ここで思わぬ障害が。

羽虫多すぎ!
これだからエルフは・・・(シャドバ脳)

まさかこんなに羽虫が飛んでるとは思わなかった。
おかげで羽虫が口に入ってこないようにするのがすごく大変だった。
今後からはちゃんとマスクなり防御を整えていかないと・・・
(すれ違う人を見ると、多くの人が口をスカーフ?などで覆っていたので、常識なのかな?)

まぁ、何はともあれ、サクッと35kmくらい走って、集合場所である船橋駅北口のタイムズ駐車場に到着。
場所がすぐに分かるかなぁ、という不安はあったけど、すぐに見つけられたのでよかった。

船橋駅〜道の駅しょうなん

今回の参加者は5人と、少し少なめ。
スタッフさんも3人で、合計8人と、前回に比べると大人しい感じだった。
まぁ、これくらいの人数の方が、安全なんだけど。
(長いトレインは危険だからね)

集合場所にズラッと並ぶ、コーダーブルームの自転車。

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いつ見ても壮観w
それにしても、黒いw

全員揃ったあとは、軽く自己紹介して、早速出発。

今回ちょっと嬉しかったのは、越谷市からの参加者がいたこと。
自分の自宅に近いところにコーダーブルーム乗りがいるというのは、嬉しいw
何より、越谷市といえば、ホダカ(※コーダーブルーム、モーメンタム、マルキンのブランドを出している)の本社がある市だしねw

さて、出発した後は、4人ずつに分かれて、ゆるゆると北上。
手賀沼にある道の駅しょうなんを目指していった。

今回はお花見ライドということで、ゆるポタ。
よくあるゆるポタ詐欺なんかじゃ全然なくて、ホントにゆるポタw
坂もほとんどないコースを20km/h〜25km/hくらいでゆるゆる進んでいく。
正直、最近全然ロードに乗っていなかった自分にはありがたかったりw

途中、ちょっとルートを間違えるといったアクシデントはあったけど、無事道の駅しょうなんに到着。

道の駅しょうなん

道の駅しょうなんに着いたのはたしか11時半くらい。

ここでお昼かなぁ、と思ってたんだけど、そんなことはなく。
まぁ、結構混んでいるんで、確かにここで昼食だと、邪魔になっちゃうもんね。

ということで、軽く補給。
自分はいちごソフトをチョイス。

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このいちごソフトは甘くて美味しいのでかなりオススメ。

ちなみに、やたらカブ推しされてて、カブソフトやカブシュークリームなんてものもw
お味は・・・まぁ、好きな人は好きだと思うw
とりあえず甘党の自分はいちごソフトの方が好きかなw

手賀沼サイクリングロード

道の駅しょうなんで軽く休憩した後は、手賀沼サイクリングロードへ。

これまでの道は、街中ということで、それなりに気を使いながら走る必要があったけど、手賀沼サイクリングロードは車を心配する必要がないので、気楽。
おまけに、風もあまりなかったので、かなり悠々と走ることが出来て気持ち良かった。

ずっと東に向かい、橋を渡って対岸へ。

対岸のルートはよく分かっていなくて、いつも車道の方まで行ってしまっていたんだけど、ちゃんと沼沿いに道が用意されているのね。
しっかりと整備された南側に比べると、少し走りにくい感じはあったけど、自然の中を走っていく感じなので、これはこれで気持ちいい。

そんな感じで北側のルートを走っていったんだけど、ここでまたアクシデントw
本日二度目のルート間違いw
手賀大橋を渡ってしまい、道の駅しょうなんに戻ってきてしまったw
まぁ、よくあるよねw

気を取り直して、再び手賀大橋を渡り、お昼ご飯を食べるお店へ。

とんかつ さとう

今回お昼を食べたのは、手賀沼公園の近くにある「とんかつ さとう」さん。

サイクルラックはなかったので、いくつかの自転車をまとめてロックして、店内へ。
いろいろメニューはあったんだけど、壁に掛けてあったランチの定食が優秀だったので、みんなでランチの定食を注文。
自分が選んだのは、おろしカツ定食。
みんなの頼んでいたミックスカツ定食も魅力的だったんだけど、少しさっぱりしたものの方がいいかなと思ったのでw

おろしカツ定食は、こんな感じ。

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いや〜、美味しかったw
ボリューム的にもちょうど良かった感じ。

ちなみに、ミックスカツ定食はかなりボリューミーな感じだったw
メンチカツが有名だったみたいなんだけど、おそろしい厚みで、ど迫力w
けど、意外と軽くてサクッと食べられたとか。
今度来たら食べてみたいな。

小さい春、見つけた!

ご飯を食べた後は、手賀沼公園でお花見・・・の予定だったんだけど、ちょっと早かったみたいで、桜はまだほとんど咲いてなく。
けど、そんな中でも、一本だけ咲いている木があったので、みんなでパシャパシャと記念撮影。

まぁ、自分はその後ろ側にあったパンジー(のはず)がキレイだったので、そっちを撮ってたりw

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もちろん、桜も撮ったけどw

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陽光という桜らしい。
陽光ビショップ・・・(シャドバ脳)

柏駅

そんな感じで、ちょっとした春を楽しんだあとは、柏駅へ。

手賀沼公園から柏駅はすぐなので、サクッと到着した。
サポートしてくれていた車よりも早く着いたくらいw

無事到着したので、軽く締めて、ここで今回は解散。

ちなみに、次回は4月後半くらいの予定だとか。
また参加したいな。

柏駅〜自宅

と、オーナーズライドはこれで終わりなんだけど、今回は自走で帰る予定だったので、まだまだサイクリングは終わらず。

実は、この柏駅〜自宅が一番大変だったw

越谷市の方がやはり自走で帰るということだったので、自分も一緒に帰ることにした。
途中までは自分が先頭を走っていたんだけど、運河に出る道が分かりにくいから、途中ではぐれちゃうかもなぁ、と思っていたところ、先頭を代わってくれるということだったので、せっかくだから代わってもらった。
結論から言えば、自分が走ろうと思っていた道と同じだったので、自分が先頭を走っていてもよかったんだけど、この方の速いこと速いことw
普通に巡行35km/hくらいで走っていくものだから、けっこう必死になって回して、ついていくのが精一杯だったw
いや〜、もっと鍛えないとな(^^;

それにしても、運河に出るあの細い道、自転車乗りの間だと割と知られてる道なのかな?
まさかこの道を通るとは思わなかったので、それが意外だった。

そのあと、江戸川の土手まで出て、玉葉橋を渡ったところで、越谷の方は野田橋の方へ向かっていくということだったので、そこで別れた。
あとは軽く数km走って、無事自宅に到着。

合計でちょうど100kmくらいのライドで、こんなに走ったのは久々だったので、けっこう疲れた。
けど、これから暖かくなってくるし、またどんどん走りに行きたいな。

今日はここまで!

時間に関する思考実験。

この前、言語の限界に関する考察を書いた。

この中で、時間論について少し触れた。

なので、昔書いた時間に関する思考実験を少し。
書いたのは、2004年11月3日。


時間についての、自分の考えをとりあえずまとめたもの。

とりあえず、思考実験を。

問1.
もし時計が一つだけあるだけで、完全に外界から隔離された部屋があるとする。
もちろん窓もない。
寝るときに時計は12時を指していて、起きたら9時を指していた。
何時間寝ていた?

問2.
周りの時間だけをストップさせる魔法を覚えた。
さっそく唱えてみると、みんなピタっと動きを止めた。
時間が再び動き始めたとき、止まっていた人たちは時間が止まっていたと気付くだろうか?

どうだろう。
質問の意図も考えてみて欲しい。

* * *

問1.について。
普通に考えれば、9時間、と推測するしかない。
けれど、寝ている間に誰かが時計を進ませていれば、もっと短いかもしれないし、時計がゆっくりと動いていればもっと長いかもない。
あるいは、一日以上寝ていて、実は33時間寝ていたのかもしれない。

結局、寝ている=意識がない間に時間がどれだけ過ぎたのかについては、外界の情報(この場合は時計)から推測するしかなく、その間に「本当はどれだけ時間が過ぎたのか」は知ることが出来ない。
(お腹がすいてたから、こんなもん、と推測できる人もいるかもしれないけれど、そんな感覚も結局「外界の情報」なわけで)

このように考えてくると、そもそも何の前提もなしに「時間」なるものがあるのか、という問題がある。
普通の感覚だと、「時間」なるものがあり、それにしたがって運動が行われている、となるだろう。
けれど、上で見たとおりに「時間」というのは「物が動いていたんだから時間も進んでいたに違いない」と推測することでしか得られない。

例えば、太陽がさっきは東にあったけれど今は真南にある、だから時間が経ったんだ、と推測は出来るけれど、本当にそうだと言い切れるのだろうか。
自分の意識のない間に、太陽がすごい勢いで真南に行ってしまっていたという可能性を、どうして消すことが出来るんだろう。

物理とかで運動方程式を習うと、物が時間をパラメータにして運動方程式にしたがって動くように思われるけれど、実際はその逆で運動の様子を運動方程式に当てはめることで時間が得られているといえる。

* * *

問2.について。
じゃあ、物の運動によって時間が定められるのであれば、物の運動が連続であれば、時間も連続であると言い切れるのか、というのが問2.の意図。
時間が止まっていたことに、当然止まっていた人たちは気付きようがない。
なぜなら、「時間が止まっている」ということを認識する「意識」が働くためには「時間が動いていないといけない」から。

よくマンガであるように、物の場所が変わっていれば気付く、という意見もありそうだけど、問1.での帰結どおり、物が動いていたらそれは時間が(自分の知らぬ間に)過ぎてしまったんだと推測するしかない。
(目の前から急にコップが消えていたとしても、今度は時間が過ぎてしまっていたのではなく、コップがワープしたと考えるだろうし。そして、超常現象でワープが起きたのか、それとも時間が止まっていたのかは知ることが出来ない)

これはさらに言ってしまえば、時間が巻戻りを繰り返していたとしても、それを知ることが出来ないことにもつながる。
例えば、時間があるところまでいって、そこから1日逆戻りをしたとする。
でも、時間が戻ってしまえば、時間がそこから1日進んでいたという事実を経験している人は時間が戻ってしまったんだからいなくなり、時間が1日分戻ったことを知っている人はいなくなる。

まとめると、以下のようになる:

  • 運動が時間に従うのでなく、運動から時間が得られる。
  • 時間が止まっている瞬間というのが存在するかどうかは、知ることが出来ない。
  • 時間が逆戻りをしているかどうかは、知ることが出来ない。

「時間が早く感じる」などの問題は、自己同一性の問題と絡んで、現象学的なアプローチで説明が出来る。


この思考実験を踏まえると、言語の限界で書いた時間論というのが、なんとなく伝わってくるんじゃないかな、と。

今日はここまで!

『21世紀の貨幣論』を読んでみた。

最近、『21世紀の貨幣論』を読んで、これが非常に面白かったので紹介。

21世紀の貨幣論

21世紀の貨幣論

お金はどのようにして生まれたのか

普段、何気なく使っているお金。
けど、よくよく考えてみれば、不思議なもの。

例えば、1000円札を出せば1000円のモノが買えるけど、なんでこんな紙切れ1枚で1000円もの価値のあるモノと交換できるのかと考えてみると、不思議。
だって、ただのモノとしての紙切れ1枚には、そんな価値はないわけだから。
実際、例えば戦国時代とかにタイムスリップしたとすれば、そんな紙切れを何枚積もうとも、モノを手に入れることは出来ない。
けど、今の世の中なら、かなりのモノを手に入れることが出来る。
これは何故なのか。

これにはいろいろな説明の仕方があると思う。
法律でお札の価値が保証されているからだとか、受け取ったお札を使えば今度は自分がそのお札で別のモノを手に入れることが出来るからだとか。

ただ、それは「今」の話であって、「昔」はそうではなかったわけで。
となると、気になるのは、どのようにしてそのような「システム」が生まれてきたのかということ。
だって、例えば仮にいきなり法律で「今日からこの紙切れは1000円の価値を持つようになります」と宣言されたとしても、それが急に受け入れられるようになるなんてことはないわけだから。
それが受け入れられるようになるには、それなりの下地がかならず必要になってくる。
でも、その下地がどのように生まれてきたのかとなると、かなり不思議。

これは言語の起源を考えるときに似ているものがある。
というのも、言葉というのも、ただ一人が言葉を使えるようになったとしても、意味がないものから。
言葉を話す誰かと、その言葉を理解する誰かがいて、その言葉は初めて意味をなすようになる。
同様に、お金というのも、それを使う誰かと、それを受け取ってくれる誰かがいて、初めて意味をなす。
しかも、その受け取ってくれる誰かというのは、当然そのお金を他の誰かが受け取ってくれるのを期待できるのでなければ、受け取るはずがない。
なので、そこにはさらにお金を受け取ってくれる誰かが必要になってくる。

これは、堂々巡りにも似た部分がある。
つまり、お金を受け取ってくれる人が他にいないのであれば、お金を受け取ってくれないし、お金を受け取ってくれる人が他にいるのであれば、お金を受け取ってくれる。
「この命題は真である」という命題が、偽と仮定すれば偽、真と仮定すれば真となるような。
そのいずれであってもこの命題の真偽は安定してしまって、他方へ移ることはない。
(それ故、この命題は真偽が定まらない)

となれば、「お金のない世界」から「お金のある世界」への変化には、とんでもなく大きな飛躍があるわけで。
どのようにしてこの大きな飛躍が成し遂げられたのかーーすなわち、お金はどのようにして生まれてきたのかーーというのは、かなり不思議と言わざるをえない。

よくある説明

お金がどのようにして生まれてきたのか、という疑問に対するよくある説明は、以下のようなもの:

まず、昔は物々交換でモノのやりとりをしていた。
けど、そこには一つの困難があった。
自分が何かを欲しいと思ったとき、その何かを持っている相手も同時に自分の持っている何かを欲しいと思わなければ、交換は成立しないということ。
それでは不便なので、やがて誰もが欲しがるものを介して交換は行われるようになった。
(例えば、自分は相手が提示してきたモノなんていらないけど、そのモノなら欲しがってる人は絶対いるだろうから、とりあえずそのモノを受け取っておいて、あとでそのモノを使って自分の欲しいものと交換する)
そして、その誰もが欲しがるものとして、やがて耐久性があって加工しやすく持ち運びもできる金や銀が使われるようになり、やがてお金になっていった。

これはなんとも納得がいく説明。
この本でも、著者が経済学を学んだことのない友人に「お金はどのようにして生まれたのか」を聞いてみて、友人はこの説明をしている。
さらにいうと、アリストテレスジョン・ロックアダム・スミスも同様の説明をしていると、この本は書いている。

アダム・スミスと同じ説明を出来たということで、この友人は鼻高々で、著者に「お前はこう考えているんじゃないか。経済学の学位を取るために何年も勉強してきたのに、あの時間は無駄だったんじゃないかって」と問う。
これには著者も困ってしまう。
違った意味で。

確かに、これはちょっと困ったことだった。
しかしそれは、友人が経済学の訓練を受けないでこの説にたどり着いていたからではない。
まったく逆だ。
問題は、経済学の訓練を何年も受けてきた人たちがこの説をうのみにしていることなのだ。
この説は明快で、直感的に理解できるかもしれない。
だが、現代の標準的な貨幣論には欠陥がある。
この学説は完全にまちがっているのだ。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

貨幣の歴史に学ぶ

ここからこの本では、時代を行ったり来たりしながら、貨幣の歴史に学んでいく。

物々交換経済は存在したのか

そもそも、本当に物々交換なんてあったのか、というのが、そのスタート地点。
というのも、そのような物々交換を行なわれていたという事実がなかったのであるとすれば、先程の説明は全く意味をなさないものになってしまうから。

そこで、研究者たちは、そのような物々交換を行なっている部族、あるいは、行われていた記録を探していくのだけど、結果は否定的なものだった。

この文脈に照らせば、ヤップ島(※ミクロネシアにある島で、石貨が使われてた)にマネーシステムがあるのは驚くべきことだった。
理屈としては、経済がこれほど単純なら、物々交換で運営されていていいはずである。
ところがそうはなっていない。
ヤップ島には高度に発達した貨幣と通貨の仕組みがあった。
これは特異な例だ。
しかし、こうした原始的な経済にすでに貨幣が使われていたのだとしたら、物々交換経済はいつ、どこでみつかるのだろう。

フィーネスのヤップ旅行記が出版されてから一世紀の間、この疑問は研究者たちを悩ませ続けた。
歴史的な証拠、民族学的な証拠が積み上がっていくと、ヤップはますますアノマリーには見えなくなった。
研究者たちは物々交換で取引をしている社会を探したのだが、歴史上にも、同時代にも、そうした社会を見つけることができなかった。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

ヤップ島の経済

ヤップ島の経済というのは面白く、石貨が使われていたのだけど、その石貨というのが実際に交換されて移動するといったことはめったになかったという。
これは、普段お金を使ってる感覚からすると、かなり不思議な感じがする。
「金は天下の回りもの」ということわざもあるくらいなわけだから。
じゃあ、どのように普段はやりとりしていたのかというと、実は信用取引が行われていた。
簡単にいうと、「貸し」と「借り」を記録しておいて、定期的に決算を行うというやりとりが行われていた。

例えば、AさんとBさんとCさんがいて、AさんがBさんに何かモノをあげたら、Aさんは「貸し1」が記録され、Bさんには「借り1」が記録される。
同様に、AさんがCさんに何かモノをあげたら、Aさんには「貸し1」が追加され、Cさんは「借り1」となる。
さらに、BさんがCさんに何かモノをあげたら、Bさんには「貸し1」が追加され、Cさんは「借り1」が追加される。
さて、ここで決算になったとする。
Aさんは「貸し1」が2つで「貸し2」、Bさんは「貸し1」「借り1」でプラマイゼロ、Cさんは「借り1」が2つで「借り2」。
なので、Cさんは「借り2」の分だけ石貨をAさんに渡して、全体の貸し借りが帳消しされるようにする、と。
(もちろん、決算の時点で貸し借りが全て清算されていたら、石貨を動かす必要なんてない。けれど、経済はちゃんと回ってる!)

このように、普段は「貸し」「借り」を管理して、それで打ち消せなかった分を示すための印として石貨が使われていたのだという。

ヤップ島のフェイ(※石貨のこと)が交換の手段でないのだとしたら、何がそうだったのだろう。
それ以上に重要なこととして、ヤップ島のマネーがフェイでなかったのだとしたら、いった何がヤップ島のマネーだったのだろう。

この2つの問いに対する答えは、とても単純だ。
ヤップ島のマネーはフェイではなく、その根底にある、債権(※貸し)と債務(※借り)を管理しやすくするための信用取引・清算システムだったのだ。
フェイは信用取引の帳簿をつけるための代用貨幣(トークン)にすぎなかった。
(省略)
ヤップ島の経済より規模の大きな経済でも、効果や通貨は必要だろう。
しかし、通貨そのものはマネーではない。
信用取引をして、通貨による決済をするシステムこそが、マネーなのである。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

「貸し」と「借り」と「お金」

お金を債権(貸し)の量を表すものだと考えると、これは非常に分かりやすい。
すなわち、モノやサービスを売ることで、社会に対して貸しを行い、その貸しの量を表すものとしてお金を受け取る。
お金をいくら持っているのかというのは、自分がどれだけ社会に貸しがあるのかを表し、すなわち、社会からどれだけ借りを受けることが出来るのかということを意味する。
なので、お金を支払うことで、社会から借りを受けるーーすなわち、モノやサービスを買うーーことが出来て、それで減った貸しの分だけお金が手元から離れる、と。

昔、『絶望先生』でお金の価値が逆転した世界ーーモノを買うとお金がもらえ、お金を払って仕事をする世界ーーが扱われたことがあって、とても面白いなと自分は思ったのだけど、この「お金は債権(貸し)の量を表すもの」という見方が出来ていると、このお金の価値が逆転した世界で何が起こっていたのかというのは、すぐに分かる。
すなわち、この世界では「お金は債務(借り)の量を表すもの」となっている。
モノやサービスを買うと、社会に対して借り(債務)を作っているわけだから、その借りの量を表すものとしてお金を受け取ることになる。
そして、モノやサービスを売ることで、その借りを返していき、返した分のお金が手元から離れる、と。

「お金」を「何か価値があるモノの代用物」とか「交換のための潤滑油」といった捉え方しか出来ていないと、この『絶望先生』の世界に出てきた「マイナスのお金」というのはとても説明のしづらいものにしかならないけど、「貸し」「借り」の考え方が出来てると、このようにすんなりと説明がつく。
物の見方というのは、すごく重要。

なぜ逆転は起きたのか

このヤップ島の話を始まりに、古代メソポタミア古代ギリシャ、中世ヨーロッパなどの歴史を見ていきながら、お金(マネーシステム)がどのように生まれてきたのかや、どのような問題を引き起こしてきたのか、それに対して、どのような対策が行われてきたのかなどが、この本では書かれている。
その中には、お金の悪い面に対抗するために、スパルタやソビエトがどんな政策をとったのか、という話も。

いずれも面白い話なのだけど、その中でも特に重要なのが、お金に対する見方の逆転はなぜ起きたのか、という話。

金本位制の崩れた今となっては「お金はモノだ(あるいは、価値あるものの代用品だ)」と考える人は少ないだろうけど、冒頭に書いたお金の生まれの説明が鵜呑みにされるほど、「お金はモノだ」という考え方が広く一般に染み渡っていたのは事実。
けど、歴史を紐解いてみると、その考え方が一般的になったのは比較的最近で、昔はそんなことはなかったという。
つまり、お金の見方に対する逆転というものが、そこでは発生している。

じゃあ、その逆転がいつ、どのようにして起ったのかーーもっと言えば、この逆転を起こしてしまって、それ以来その間違いが定説となるようにしてしまった大罪人が誰なのかと言えば、ジョン・ロックがその人だったりする。

議会は大蔵省のウィリアム・ラウンズに答えを求めた。
生え抜きの官僚として財務大臣に任命されたばかりのラウンズは、豊富な実務経験と金融界や商業界との幅広い人脈があり、優れた知性とイギリスの貨幣の歴史に関する広範な知識を持っていた。
ラウンズの報告は、的確で、説得力があり、現実を反映した常識に沿ったものだった。
(省略)
1695年12月、立憲政治という新しい政治体制の理論を打ち立て、立憲主義思想の最大の擁護者であったロックは、議会に招聘され、ラウンズの報告書に対する意見を求められた。
ロックはラウンズの提案(※インフレが起きていたので、それに合わせるように貨幣に含まれる銀の量を減らすべき、というもの)とそれを支える思想を辛辣に批判した。
(省略)
実際には、「人々は取引において、名称や呼称のためではなく、その内在的価値のために、つまり、そうした名称や呼称の正貨に含まれていると公権力が保証する銀の重量を得るために契約するのである」。
(省略)
ラウンズの主張で正しいものは、改鋳は適切だということだけだと、ロックは断じている。
しかし、犯罪行為による悪鋳をただ黙認する改鋳は行うべきではない、磨損・盗削硬貨を回収して、銀の法定重量を満たす硬貨に鋳造し直す改鋳を行うべきであると、ロックは主張した。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

これでどうなったのかというと、ロックの影響力があってロックの案が採用され、結果はもちろん大失敗。
現実に即してインフレさせる(硬貨の増やす)べきだったところをデフレさせた(硬貨を減らした)わけだから、そのあとの混乱は酷いものとなった。

けど、これ以来、ジョン・ロックの唱えた貨幣観(お金の価値は、そのお金に含まれる銀(や金)の量によって決まる、という見方)は一般的なものになってしまう。
なぜかと言うと、それはお金に関する「ある問題」を見えなくさせてしまう効果があったから。

その問題が何かといえば、お金の「標準」ーー「1円」の価値はどれくらいなのかーーをどうやって決めればいいのか、という問題。

お金がモノではなく、社会的なものなのだとしたら、その価値というのは相対的にしか定まらないことになる。
となると、その基準をどのように決めるのかというのは、難しい話となる。
実際には、この基準を巡って、君主と人民の間でせめぎ合いが行われてきた。

しかし、ここでロックの貨幣観になると、その問題は消えてしまう(正しくいうと、見えなくなってしまう)。
というのも、ここでは「銀(や金)」の「重さ」によってその貨幣の価値は固定されてしまうから。
「重さ」は自然現象なわけだから、そこに君主や人民の政治が介入する余地はなくなることになる。

ただ、これは本来相対的な空間に仮の原点を与えているようなもので、本質的には問題は消えていないし、場合によってはより根深い問題を残してしまう可能性がある。
(そして、実際問題を起こしている)
けど、このように単純化されたモデルは、ニュートンが絶対空間・絶対時間の上に見事な古典力学を構築したように、古典派経済学として大成し、その後の主流になっていく。

リーマンショックと女王の質問

さて、そんなロックによる逆転がどのようなことを引き起こしたのか、ということで出てくるのが、リーマンショック

リーマンショックがあったあと、女王エリザベス2世は、経済学の世界的権威たちに、次のように質問したという:

「なぜだれも危機が来ることをわからなかったのでしょうか」

この質問に対して、この本は以下のように答えている:

古典派のマネー抜きの経済学から、現代の正統派マクロ経済学が発展した。
マネー社会の科学は、大学で教えられ、中央銀行に採用された。
一方、バジョットの実務家の視点に立った経済学からは、ファイナンス理論が発展した。
売買のツールは、ビジネススクールで教えられ、銀行と債券トレーダーに取り入れられた。
一方は、マネー、銀行、金融が存在しない経済を理解するための知的な枠組みであり、他方は、マネー、銀行、金融を理解するための枠組みがあり、それ以外の経済の要素は登場しない。

こうした隔離政策がとられた結果、2008年に危機が発生して、金融セクターが史上最大のマクロ経済のクラッシュを引き起こしたときも、銀行セクターが崩壊して経済が危機から脱却できなかったときも、現代マクロ経済学と現代ファイナンス理論はまったく役に立たなかった。
幸運だったのは、ローレンス・サマーズが指摘したように、危機対応の指針となる別の系譜があったことだった。
(※別の系譜については、この本で説明されている)

しかし、「なぜだれも危機が来ることをわからなかったのでしょうか」という女王の質問に対する答えは単純明快である。
マクロ経済を理解するための大きな枠組みに、マネーが組み込まれていなかったからだ。
そして、「自分たちがこんな危ないことをしているのだと、どうして気づかなかったのか」という、多くの人が銀行や規制当局に突きつけたいと思っていた疑問に対する答えもまた、単純明快だった。
金融を理解するための枠組みに、マクロ経済が組み込まれていなかったからである。
(省略)
二つの貨幣観は、マネーをとらえる視点が変わっただけのことのように見える。
しかしその視点のちがいが、大きな乖離を生むことになったのである。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

つまり、ロックの貨幣観が導入されたことで、古典派では貨幣もモノの1つであると扱われるようになり、特別扱いされなくなった。
結果、そこには貨幣や金融といったものが出てこない理論が構築され、それゆえ、金融面で生まれていた大きなリスクを見つけることが出来なかった。

2001年には、世界的に有名なマクロ経済学者で、後にイングランド銀行総裁に就任するマービン・キングが経済学の現状を憂いている。
「経済学はマネーを研究する学問だとほとんどの人が考えている」が、実際はまったくちがうと、キングは言う。
マクロ経済学者同士の会話には、『マネー』という単語は滅多に出てこない」。
マクロ経済学者が使う標準的なモデルにマネーが組み込まれていないため、将来、問題が起きるのではないかと、私は考えている・・・マネーは今後、経済学者同士の会話にたくさん登場するようになるだろう」とキングは警告した。

将来、問題が起きるというキングの予測はあたり、世界規模の金融危機が発生した。
しかしそれは、経済学者同士の会話に「マネー」という単語がたくさん登場するという、もう一つの予測が外れたからにほかならない。
(『21世紀の貨幣論』より引用)

他方、貨幣や金融というものがロックの貨幣観によってマクロ経済学から締め出され、それについて研究するようになったのが、ファイナンス理論だと言える。
こちらは逆に、貨幣や金融しか扱わないので、そこで生まれたリスクがマクロ経済や社会にどのような影響を与えるのかを考えることが出来ない。
そのため、そのリスクは恐ろしいまでに大きく膨れ上がってしまっていたのに、その恐ろしさに誰も気付くことが出来なかった、と。

これからの経済学

しかし今や、アインシュタイン相対性理論を生み出してニュートンの絶対空間・絶対時間を過去のものとしたように、歴史に学ぶことによって、ロックによる間違った貨幣観も過去のものになろうとしている。
今はまだ、マイノリティのようだけど。
ただ、これがちゃんとメジャーな考えとして定着するようになれば、今までロックの貨幣観によって隠されてしまっていた様々なものが見えてくることにより、もちろん理論としては複雑になるけど、よりマトモな、現実に即した経済学が生まれてくることが期待できる。

実際、この本の中では、銀行がどうあるべきかという問題に対して、分析と提案を行なっている。
それは、いくつか疑問点はあったけど、とても妥当な提案に思えた。

今後、経済がどうなっていくのか、期待。

「(省略)マネーは社会的な技術であって、モノではない。
標準的な貨幣感が間違っているせいで、マネーが機能しなくなっている。
しかし、マネーは人類が発明した最強の自治の道具であり、正しい貨幣観もすでにある。
もう一つの貨幣観に立てば、マネーの潜在的な力を発揮させられるようになる。
もしおまえがそう考えているなら、専門家に手紙を書くだけではだめだ」
「それなら、だれに手紙を出せばいいんだ? だれがマネーを管理しているんだ?」
「ーーおまえならこの答えの意味をわかってくれるよな。マネーを管理しているのは、おまえだ」
「マネーを使っているすべての人ーーってことか」
「そう。正確には、そう言うべきだと思う」
「だとすれば、本当にマネーを改革しようとするなら・・・」
「・・・最後は、俺たち自身の問題になってくるだろうな」
「そんなの知ってたよ」
ーーそう言った友人の顔は、自分がずっと正しかったことを確信したもののそれだった。
「何かを成し遂げようと思ったら、自分でやらなければだめなんだ」
(『21世紀の貨幣論』より引用)

今日はここまで!

21世紀の貨幣論

21世紀の貨幣論